チベット高原からヒマラヤ越えカトマンズへの旅

                                         2011.5.85.21 

                   エベレスト北壁(チョモランマ) 標高8848

                 2011.5.17 エベレスト.ベ-スキャンプ 標高5200mにて

                      
            
    私はチベット族が住む外郭のエリアには何回か足を踏み入れたことはありますが、今年58
   から21日までの14日間、初めてその中心部であるチベット高原からネパ-ルのカトマンズ に至る
   旅に出かけてきました。長年是非訪れてみたいと思っていたところです。

    世界地図を広げてみると、アジアの中央部のやや南よりに赤褐色に塗られた山岳地帯が 眼に入っ
   てきますが、その北側には崑崙、南側にはヒマラヤがそれぞれ2500kmの長大な山岳地帯を形成し、
   西側にはインダス河の谷を挟んでカラコルム山脈が、崑崙、ヒマラヤの西端をまたぐように伸びて
   おり世界の8000m峰14座のすべてがここに集中しています。
この3つの巨大な山脈に囲まれるよう
      にチベット高原が置かれていますが、その範囲はチベット自治区、青海省、四川省、雲南省にまた
      がり、その面積は250万平方km(日本の6.5倍)と 広大で、ここに約600万人のチベット族の人
      たちが暮らしていると言われています。

    気候的には、低い草木だけが高原を埋め、高い樹木はほとんど見られない超乾燥地帯という印象を
      もちました。植物の分布上では高山乾原帯と言われるところです。
その原因は、モンス-ン期に
      インドから吹いてくる湿潤な風がヒマラヤ山脈にぶち当り、上空で厚い雲が出来て大量の雨が発生
      しますが、その雨の大部分は南側のネパ-ルに落ち、北側のチベットにはヒマラヤの高い壁に阻まれ
      て、ほとんど雨が降らないためと考えられるからです。


    私たちは5月9日青海省の西寧からチベット鉄道の寝台車に乗り、西方向に走ってゴルムドを経て
   一気に北から南にチベッと高原を横断、さらにラサからは車でヒマラヤの山岳地帯を走り抜いて
   エベレスト.ベ-スキャンプにも立ち寄り、最後はネパ-ルのカトマンズに辿りつくことができまし
   た。その距離は約3200km、 まさに地球の屋根を走る天空の旅でした。


                     チベット地形図(イメ-ジ)

             

          チベット鉄道の車窓からの景色は壮観でした。

      そこは悠久の時が流れる天空の大地。遙か遠くには四時雪を戴いた長大な山塊群が連なり、
    果てしなく広がる早春の大原野にはヤクや羊の群が草を食み、残雪が点在する大地をチベット
     カモシカが走り、大河の源流が赤い大地の中を網の目のようにのたうち流れていました。

       ここに生活しているのはごく限られた動物と、馬やヤク、羊たちと一緒に草原を移動して行く
    遊牧民たちだけ。高い樹木は1本も見られず、低い草木だけが大地を覆っているだけの大平原。
       空気は下界の3分の2から半分位、冬の寒さは想像を絶します。
 この厳しい自然環境の中で、
    生きる術を知っているものたちだけに許された世界でした。彼等のたくましさには驚くばかり
    です。

        世界の最高峰エベレストを眼の前にしたときは、胸の奥から湧き上がってくるような感動を覚え
    ました。
        その日は生憎の曇り空。エベレスト.ベ-スキャンプに辿りつくまでの空は、ところどころ青い
    すき間が見えるものの遠くの山は厚い雲に覆われ、この巨大な山を見るのは半分諦めかけていた
       その時、突然眼の前にアッと息をのむような大きな景観が眼に飛び込んできたのです。
       まさに”突然”としか言いようのないような現れかたでした。
 それまで静まりかえっていた車内
       は次の瞬間”ウォ-!”叫び声にも近いどよめきが広がりました。それが標高8848m、世界の最高
    峰エベレストだったのです。
        この巨大な山は、澄みきったヒマラヤの空にひときわ高く聳え立って いました。堂々たる貫録で
       その雄大な姿を私たちの前に見せてくれたのです。私は跳び降りるように車から降りて夢中で何枚
    ものカメラのシャッタ-を切り、そのあとはこの山の姿を飽かず眺めていました。


             山頂付近は強風のためか白い雪煙が激しく吹きあがり、黒い岸壁の谷間には何本もの氷雪が帯の
    ように流れ落ち、一面の雪に覆われた山腹は強い陽光に光り輝きながらヒマラヤの空に高く聳えて
       いましたが、さすがその姿は世界の山男たちを惹きつけてきただけの風格と威厳を思わせるものが
       ありました。

             撮った写真は車窓からのものが多く不出来なものになりましたが、私のつたない文章とあわせ
    チベット高原とヒマラヤの雰囲気を感じとって下さればと思います。
  
    
              58   成田から大連経由北京へ

        中国南方航空CZ6301325分成田を飛び立ち20分遅れで大連着、中国入国手続きを 終えて国内
    線に移動する。北京行きは2050分発の予定だったが、いつものように何のアナウンスもないまま
 
       1
時間30分待たされ、ようやく2225分大連を飛び立ち、2310分北京空港に着陸。空港に近い
       ホテルに2330分チェックインした。

             59   北京から西寧へ

         長治からやってくるCZ6994便が悪天候のため北京着が大幅に遅れる。やはり何のアナウンスもない。
        まあ中国のことだからしかたがないと思いつつもイライラする。
       
                2時間20分遅れで北京を飛び立ち西寧に着いたのは1620分、今日観光する予定だったタ-ル寺
        の見学は明日に伸ばし、市内のイスラム寺院に立ち寄ったあとレストランで夕食。1935分西寧の
     ホテルにチェックイン。

         510   西寧近郊の観光

             いよいよ今日からY旅行社主催の、チベット高原からヒマラヤ越えネパ-ルのカトマンズに至る
    旅が始まる。
メンバ-は男性6人、女性5人、スル-ガイドは漢族の男性陸さん、添乗員は2年前
    シルクロ-ド行、天山山脈越えとタクラマカン沙漠縦断の旅で添乗いただいた今岡さん、それに
    ドライバ-王さんの総勢14名。

         今日は西寧近郊から青海湖への観光。西寧は標高2300m。
       7時40分、ホテル出発。国道109号線青蔵公路を走る。街は霧で霞んでいる。霧の中から ポプラ、
    ニレ、柳の木立がぼんやりと浮かぶ。まだ早春のためか山を覆っている低い草木の色も茶褐か
    薄緑色。まだら模様に点々と見えるのはツツジ系の植物か。左手丘陵の中腹に一本の線路が続き、
    左から右に眼で追ってゆくと山裾にトンネルの入口が見える。今晩私たちが乗るチベット鉄道らしい。

       車窓の風景に見とれていると、今岡さんが血中酸素濃度を測るパルスメ-タ-を持っきた。それに
       指をさしこむと数値が現れる。この数値が70以上であれば頭痛があるにしても一応大丈夫とされて
       いる。しかし60以下になると重い高山病にかかっていると判断され、
 生命が危険な状態になること
       もあるという。ただ個人差があり、70以上あってもひどい 頭痛に苦しむ人も居るらしい。今日の私
       の血中酸素濃度は98%、平地と変わりない。この検査は毎日行われた。高地におけるメンバ-全員
       の健康状態を診るためである。

            8時、青蔵トンネルを抜けると渓谷が現れ高い岩山が続いていたが、やがて山はマツやスギに覆わ
       れるようになる。ところどころ小さな集落点々。渓谷は大きくなったり小さく なったりする。 
    河の色は黄濁。視界広がると大きな河原が現れ、その中をいくつかの小さな河がぬうように流れて
     いる。

        8時35分、朝はどんよりと曇っていたが次第に青空が見えはじめ、左手遠くに雪を戴いた 鋭い三角
    状の山塊群が望まれるようになる。マツやスギに覆われた山々は後ろに過ぎ去り、波状のうねりを
    もった大草原が現れてくる。 
        季節は早春、草はまだ黄色い。遠くにヤクの群れ数十頭、いつのまにか遊牧地帯に入っている。
       車は草原を下に見ながら、視界の広い九十九折りの山道を大きくうねりながら登って行く。


        9時、山頂に着く。日月山峠と呼ばれるところである。

        ここは標高3520m。空気は薄く非常に寒い。早足で歩くとドキリと心臓にくる。丘の上に日亭、
    月亭と呼ばれる二つの塔が建っているが、そのひとつ日亭に向かってゆっくりと登って行く。
日亭
    から眺める景観は大きい。360度見渡すかぎり、残雪が散らばった赤い大地がどこまでも広がって
    いる。遠くに万年雪をいただいた白い峰々が連なり、そこから続く山の斜面や大平原にはヤクや
     羊の群が点々。冬から覚めたばかりの草原はまだ黄色い。やがて夏が来ると、緑の絨毯が広がる
    眼のさめるような美しい草原に生まれ変わることだろう。

                        日月山峠の 日亭              

              

      7世紀唐の時代、チベットに降嫁させられることになった漢の皇族文成公主は、チベットに行く
    途中この峠に立ち寄り、唐の都長安に別れを告げたという。長安からここに来るまでに約1年、
    さらにラサに着くまで2年の歳月がかかったらしい。彼女はまさに”天の涯のようなこの峠”に
    立って長安の方を振りむき、望郷の思いを馳せたにちがいない。
ここから先はさらに天涯の地
    チベットなのである。日月亭というのはそれを記念してつくられたものだという。

     2つの亭の近くには、経文がびっしりと書き込まれたチベット族の祈りの旗、”タルチョ”が強い
    風
はためき揺れていた。

       日月山峠を離れ車は青海湖に向けて走る。展望さらに大きく広がり、草を食みながら草原を移動
   していたヤクや羊の群が道を横切る。よく見ると白い羊の群に黒い羊も居る。
      道は大平原の中をどこまでも真っすぐに続く。ドライブは快適。10時、左手前方に青海湖が見えて
   くる。

                                                               青海湖にて 

                             

    青海湖は標高3260mにあり、東西105km、南北64km、周囲360km、平均深度は19m、 面積は
   4500
と琵琶湖の6倍あり、塩水湖としては中国最大 明るい陽光に照らされた湖面は青く光り
   輝き、湖畔にカモメの群が飛び交っている。空は青く晴れ上がっているが 対岸は見えない。
   湖というよりは海を見ているような気分だ。水も湖底が見えるほどに澄みきっているが、濃い塩分
   と気圧の関係で魚はほとんど棲んでいないらしい。
                                         
    
1時間40分の青海湖観光を済ませたあと、近くのレストランで昼食。

       13時10分、レストラン出発。来る時は見えなかった祁連山脈の白い峰々が遠く雲の上に浮かび、
   青海湖と並行に長く伸びている。祁連山脈の向うは蘭州から敦煌へと続く、シルクロ-ドの河西回廊
   である。
      その距離は約1100km。紀元前から幾たびか漢と匈奴が激しい戦いを繰り広げ、11世紀から13世紀
   までは、チベット系民族タング-ト族からなる”西夏”がこの一帯を蟠距していたところだ。
   井上靖の小説”敦煌”はこの地帯を舞台にして書かれた。
    祁連山脈後ろに過ぎ去り、私たちは来た道を戻り、途中湟源の先で右に曲がり湟中にあるタ-ル寺
   へと向かった

      15時15分 タ-ル寺に到着。 ここは標高2650m。  
      タ-ル寺はデブン寺、セラ寺、カンデン寺、タシルンボ寺、ラプラン寺と並ぶチベット仏教 ゲルク派
      六大寺院の一つで創建は1560年。
ゲルク派開祖ツォンカバ生誕の地であり、現ダライラマ14世も
      ここで修学したという。チベット仏教では一番新しい宗派だが、戒律は最も厳しいと言われている。
      現在生活している僧侶は約500人。
 私はタ-ル寺を訪れるのは二度目。4年前の2007年7月、青海省
      アムド地方の大草原を経巡り、最終日にここに来た。丁度タ-ル寺祭りが行われており大勢の人たち
      でごったがえしていたが、その時山の斜面を利用して開帳されていたタンカ(仏画)は圧巻だった。
   大きさは長さ30m、横幅25m。その中に釈迦を中心に曼荼羅の世界が描かれている。
   
信仰に篤いチベット族の人たちは、この巨大なタンカにひざまづき祈りを捧げるのである。
       今回は前回来たときよりも人通りは少なくゆっくりと見学することができたが、今日 5月10日は釈迦
      の誕生日とあってか、境内では五体投地する大勢の人たちが見られた。

            屋内の経堂には開祖ツォンカバや釈迦、弥勒菩薩、如来像が静謐な雰囲気のなかに置かれ、中でも
      バタ-でつくられた様々な仏像が印象的だった。

                     -ル寺タンカの開帳(2007.7.20
        
              
                   

     5月10日~5月11日 チベット鉄道で西寧からラサヘ

       夕食を済ませ西寧の駅に行く。20時10分、20分遅れで上海からやってきたラサ行きの寝台列車に
   乗車。
      私たちの 席は、1等寝台車両にある2段ベッド2つの4人用のコンパ-トメント。私は何故かツア-
      メンバ-から外れ、同室には中国人 男性3人。
部屋に入ると私のベッドに中国人男性が寝ている。
      一瞬部屋を間違えたかと思って乗車券を確認してみたが間違ってはいない。一言抗議するとすぐ席を
      外してはくれたが、ふとんはクチャクチャ、窓際に据え付けられたテ-ブルの上は食べ物やゴミが
   散乱している。また深夜中国人3人の中で寝るのはあまり気持のよいものではない。できれば部屋を
   変わりたい。隣のOさんNさんの部屋をのぞくと二つベッドが空いている。
 
    そこでガイドの陸さんに、 ”こちらの部屋に移動してもいいですか?”と聞くと、
     「それは出来ません、中国にはそうしたシステムはありません」
        とソッケない返事。
     ”どうしてですか?”
        「それが中国のル-ルなのです。たとえば上海でラサ行きのキップを買った人は途中で席を
       変わることは出来ません」

             ”しかしここに席が空いています。途中でこの席の人が乗ってきたらすぐ変わります。
      夜が明けるゴルムドまででいいのですが?”

        「いや出来ません。もう夜も遅いですからゴルムドまでは乗ってくる人は居ないと思いますが、
      ゴルムドから乗ってくる人が居るかもわかりません。」

             ”ゴルムドでこの席の人が来たら席を空けます。空いている席にどうして変われなのですか!
        「いや、中国の規則ではそれは出来ません。」

    添乗員の今岡さんも車掌に交渉してくれたが、車掌も首を横に振るばかり。私も多少強引なところ
   はあったが、よく考えてみると此処はやはり中国、 規則で 押し通されるとそれ以上交渉しても
   無理だと思い、諦めて元の 部屋で休むことにした。


    朝5時、ほとんど眠れないままウトウトしていたが、そろそろ夜が明けるのではないかと思って
   ベッドから起き上がり手洗い場で顔を洗った。しかし窓を見ると外はまだ真暗、列車は闇の中を
   ひたすら走り続けている。
   しばらくすると 列車は速度をゆるめ、やがて停車した。時計を見ると5時20分、どうやらゴルムド
   の駅に着いたらしい。
 

              5月11日  チベット鉄道で西寧からラサヘ

                             チベット高原の夜明け チベット鉄道車窓より 
                      
                                 

     ゴルムド駅で20分停車。ここで同室だった中国人二人が降りた。残ったのは若い男性一人。
   ゴルムドは標高2800m、チベット高原の入り口である。列車はここから一気に高度を上げて行く。
       6時20分、しらじらと夜が明けてきた。さっそくカメラをかまえメモを取りはじめる。

      生憎の曇り空、ガス深し。遠くぼんやりと山のシルエットが浮かび上がる。手前に広がるのは大原野、
      褐色の山塊群。山肌にうっすらと白く見えるのは残雪か、それとも石灰質の土肌か。
   視界狭くなり山間の中に入る。両側は黄砂をかぶったような岩山がそそり立つ。山の上部から下部に
   かけて縦に無数の割れ目。水の流れなし。

       列車は山間から草原へ、草原から山間へどんどん高度を上げながらひたすら走っている。視界は
   大きくなったり小さくなったりする。

       7時、大分明るくなる。広い原野にポツンと工場らしき建物、セメント工場かそれとも 鉱石工場か。
     
 草原の中に細い河の流れ、夜明けの光にキラキラ輝いている。見渡す限り 一望の大原野。黄色い
   草木が大地を覆う。人影まったくなし。まだ辺りは霧に包まれ風景 は灰白色。
      7時15分、望崑駅通過。遠く崑崙山脈の一角が見え始める。山頂付近は雲に隠れ、まだら模様に雪を
      被る。大地は凍った雪に覆われ、時には融けた雪水が草原の中を這うように流れている。

      7時20分、崑崙山トンネルを通過したところで、今岡さんが パルスメ-タ-を持ってきた。今日の
      血中酸素濃度 は92%、問題なし。
車内は高地の 影響をできるだけ受けないように気圧調整されて
      いるが、平地と同じと いうわけではない。標高2300mにある西寧を出発した 時と、標高4000mを
   越えた今の地点では、身体への 感じかたが 随分ちがう。
      7時30分、ココシリ自然保護区を通過中。遠く山の向うに青空が見えてきた。

     
           チベット高原  ココシリ自然保護区

              

   大草原、大平原、大原野いずれの表現をとってもあてはまるような大きな眺め。
   そうした大原野の中を数頭のチベットカモシカが走っている。長い角を持ちかなり大きい。
       7時45分、不凍泉駅に停車。 標高4611m。すぐ発車。

   列車の右は崑崙山脈。白い峰々が延々と続く風景を眺めていたその時、”クラッ”とした感覚が
   身体をはしった。どうやら標高5000m近くになってきたらしい。

       8時、朝食のため車内のレストランに行く。
   メニュ-はオムレツに野菜サラダ、それにパンとコ-ヒ-。簡単な朝食 だが、上海からきた
   スタッフの料理だけあってなかなかおいしい。朝食をとりながら車窓からの景色を楽しむ。

     青空に真綿のような雲が流れ、その下に崑崙の白い山塊群が連なる。果てしなく続く大平原に
   残雪が点々。雪融け水が一本の帯のように流れ、強い陽光に光り輝いている。まさに地球の屋根を
   流れる天上の河である。


                                                  チベット高原  チベット鉄道車窓より             

              
          
           ここは悠久の時が流れる天空の大地。 ここに生活しているのはごく限られた動物と、
             馬やヤク羊たちと一緒に草原を移動して行く遊ぶ牧民たちだけ。高い樹木は1本も
             見られず、低い草木だけが大地を覆っているだけの大平原。空気は下界の3分の2
             から半分位、冬の寒さは想像を絶するだろう……。この厳しい自然環境の中で生きる
             術を知っているものたちだけに許された世界なのだ。そんな思いが頭をよぎる。

                                 チベット高原   チベット鉄道車窓より

                    

            

       辺りはいっそう明るくなり、青空に浮かんだ雲が草原に黒い影を落としている。やがて、レンガを
      繋いでつくられたと思われる垣根が散発的に見られるようになる。この自然を護るための砂防用の
      ものかもしれない。風景は刻々と変わってゆく。大地の中に無数の池の溜まり、その周りは黄ばん
      だコケのような草が群落をなしている。どうやら湿地帯に入っているようだ。

       しばらくするとピラミッドのような三角状の山が見えてきた。その上はぬけるようなスカイブル-。
      残雪が点々とする赤い大地の中で、10数頭のヤクがのんびりと草を食んでいる。
       9時30分、風林火山トンネルを通過。ここは標高4905m、全長1388m、世界最高所凍土トンネルだ。
      列車は果てしなく広がる大原野を走っている。大原野に続く遠くの山も 時々見えなるときがある。
      天空の大地とはいえ、これほど大きな広がりがあるとは想像していなかった。 
 

      遙か遠く原野の中に何か動いているものがある。よく見るとトボトボと歩く人の影だ。

     この広い原野の中にあって人間の姿はあまりにも小さい。いったいどこに行こうとして
      いるのか、人家らしきものはどこにも見当たらない…まさに地球の果てを歩いていると
      いう感慨をもつ。

                                       
    1020分、トト河にかかる橋を通過、長江の源流だ!  

                           長江の源流 トト河  標高4547
  

              
        
     瞬時にカメラを向ける。夢中でパチッ、パチッ、パチッ。その間わずか10秒位。アッというまに
   後方の彼方へ過ぎ去っていった。その現れかたも消え去りかたも瞬時の出来ごとだった。
   しかしその映像は今でも私の頭に焼き付いている。大小の無数の流れがそれぞれ勝手な方向に蛇行
   しながら原野の向うに消えていったが、それはあたかも巨大な竜が大地の中をあえぎ、あえぎ、
   のたうち回っているようにも見えた。しかしここはまだ生まれたばかりの幼少期の長江の流れ、
   中流域で見せるあのワイルドで荒々しいエネルギ-は感じられない。

    ここは標高4547m、まさに天上を流れる河なのである。長江はタングラ山脈を源とし青海省、
   雲南省、四川省、湖北省、江蘇省を流れ下りながら無数の支流を集め呑みこみ、上海を経て東シナ
   海に注いで行く。その長さは 6380km、ナイル河、アマゾン河に次ぐ世界3番目の長さをもつ大河
   である。
    もうひとつ青海省を源とする大河に黄河がある。この河の距離は5464km、世界7番目の長さを
   もつ。この二つの大河は中国五千年の歴史と文化を生み出し、今もなお何億人もの中国人の生活を
   支え続けている。

    トト河を過ぎると残雪が大地を覆い、そこから流れ出した水がこれまた地上を這うように流れて
   いる。そうした風景が次から次に現れてくる。その流れは太陽の光で時には白く、 時には青く眼に
   映り、周囲の赤い山肌 に映えて何とも美しい。
    11時40分、標高4700m位、草原から山間に入る

    タングラ山脈見えてくる。主峰は6621m。長江の源流はこの山脈にあり、氷河から融けた小さな
   流れがやがて大河となってゆくのである。―しばらく幾重にも重なりあった白い峰々が続く。


     1215分、タングラ駅に着く。ここは標高5068m、鉄道の世界最高地点である。

                     タングラ山脈の一角    チベット鉄道車窓

              
                                             
                                チベット高原から タングラ山脈を望む

         

    展望大きく大平原を走ってきたためか、最高地点に来たという感覚はない。しかし多少頭が
   クラクラする。やはり 空気は薄いのだ。ここは青海省とチベット自治区の分岐点、ここからは
   チベット自治区に入る。

    13時、再び広い草原に出る。列車は大きく折れ曲がり、後方に今通過したばかりのチベット鉄道
      の高架線路が見えて いる。
残雪の周りにヤクの群。お椀を伏せたような丸い山々が重なり合い、
   その山麓にもヤクや羊の大群。

     赤い大地に幾筋もの細い河の流れ、天涯からやってきて、また何処ともなく天涯に
     流れ
去って行く。太古からの弛まない自然の営みに”悠久…永劫…”そうした思いが
     頭をかすめる。


                                                 チベット高原から タングラ山脈を望む

                             

                             チベット鉄道高架線路                                     湿地帯にヤクの群 

                  
       
        13時20分、青い帯のような景観が眼に入ってくる。湖かそれとも蜃気楼か。 空は曇ってきた。
       やや視界悪くなる。

        1325分、アムド駅着。 標高4704m、西寧から1540km走ってきたことになる。
       ラサまであと416km。
1410分、ツォナ湖駅着。 チベット族に神の湖と称される淡水湖。水は
       青く澄み美しい。
ツォナ湖畔からヤクと羊の群が頻繁に現れてくる。ここは羊よりもヤクが多い。
       車窓の右も左も前方からも、数えきれないほどのヤクの大群が次から次に現れ行き過ぎていく。
       ヤクは3500m以上の高原に生きるウシ科の動物。牛というよりはバッファロ- に近い感じ。

        720分、ナクチュ駅着 標高4513m。ここからは四川省につながる川蔵公路が走っている。
       停車時間を利用して列車と 駅の風景を撮る。
        17時、ニンチェン.タングラ山脈が見えてくる 。 主峰は7162m。山から山腹にかけて万年雪に
       覆われた山塊群が連なる。折からの西日にキラキラと輝き
、鋭い 山を青空に突き上げている。
       しばらく美しい山岳風景に見とれる

        1850分、ラサに近づいてきたのか、ところどころ麦畑が眼につくようになり、久しぶりに出会う
       緑が新鮮に映る
チベット族の人たちはこの青麦を収穫して、彼らの主食であるツァンパをつくる。
       彼らは引き臼で砕いた麦粉にバタ-茶をそそぎ、手でこねてダンゴにして食べるという。

        ツァンパは、私たちの世代が子供の頃おやつがわりにして食べた、あの”麦こがし”に似ている。
       私の田舎では  ”はったい粉”と言った。この粉と人工甘味料のサッカリンを茶碗に入れてお湯を
       そそぎ、ハシでぐるぐると掻きまわして食べた思い出がある。


                                              ニンチェン.タングラ山脈

                             

                          ニンチェン.タングラ山脈

                  

            1915分、予定よりやや早くラサに着く。

      思えば西寧から全長1956km、ゴルムドからは標高4000m以上の高地を走り、崑崙山脈、ココシリ
      自然保護区、長江の源流であるトト河、タングラ山脈、ツォナ湖、ニンチェン.タングラ山脈と、
      車窓から広がるチベット高原の素晴らしい景色を楽しみ、23時間かけて今ラサに着いた。平均時速
   85
km。

           列車から降りた途端、一瞬ファッとした感覚が身体をはしる。ラサは標高3600m、高地の空気の
      薄さをじかに感じる。 外はまだ明るい。迎えのバスのところまでスーツケ-スをころがしながら
      駅前広場を歩いていたが、何か緊張した雰囲気を感じる。辺りを見ると軍の兵士の鋭い眼が光って
      いる。3年前に起きたチベット暴動事件以来、まだ厳しい警戒体制が 敷かれているのだ。

      ガイドの陸さんはトラブルを恐れてか”バスへ早く早く”、添乗員の今岡さんは私たちの体調を
      気遣って”ゆっくり、ゆっくり”…
それにしても、このラサ駅前広場の緊迫した雰囲気はまったく
   予想していなかった。ラサからは新しく現地ガイドの任さん、ドライバ-の胡さんが加わる。
      どちらも漢族である。

            部屋割を済ませたあと、今岡さんから高地における注意点を聞く。

        今日は風呂には入らずシャワ-だけにする。苦しくなったら深呼吸すると少し楽になる。日頃睡眠
   薬を飲んでいる人はただちに止めること。水は平常の2倍以上、3リットル位はとるようにする。
   酒はネパ-ルとの国境ジャンム(標高2350m)までは飲まない、特に今日はゼッタイ駄目。タバコも
   控えたほうが良い。

       要点をまとめると大体このようなことになる。 彼の口調はかなり厳しい。同じことを口うるさい
      ほどに何回も繰り返す。あとで聞いた話だが、同じ昨年のこのコ-スで、ラサから約350km離れ
      たシガチェに出発する前の晩ホテルで酒を飲んだ 人が、そこに向かう途中のカロ-ラ峠
     (標高5050m)で突然倒れ、急遽別の車でラサまで引き返して病院に入院、4日間の 治療を受けて
      あやうく命をとりとめたという。その人は重い高山病にかかっていたらしい。血中酸素濃度も60
      以下になっていたと聞いている。そのときの添乗員は今回の今岡さん、口調が厳しくなるのも尤も
      である。
       確かにこの旅行に来る前に読んだ何冊かの山岳 紀行誌でも、高所で酒を飲んだ人が激しい頭痛に
      おそわれていたことが書かれていた。ただ私はここラサ以上の高所で何回か 酒を飲んだ経験がある
   が、どういうわけかそれで体調を崩したことはなかった...旅と酒を切り離すことは私には出来ない。

     彼のアドバイスが多少気にはなったが、夕食後部屋に帰り、持参のブランデ-を2~3杯あおって
   22時床に就く。

       512日  ラサ市内とその周辺の観光

    ラサは人口約50万人、うちチョベット族が87%を占めるとされる。私たちは標高3600mのラサに
     3連泊して、徐々に身体を慣らしながら高度順化をしていく。
     朝起床したときは小雨が降っていたが、9時半ごろには雨は上がり、雲は多いが青空が見えて
   いる。今日の私の血中酸素濃度は91%、昨晩の酒の影響はまったくない。

   1030分、ホテル出発。この時間雲はなくなり、抜けるような青空が広がりはじめてきた。
   ラサの空は明るい。朝の気温は10度ぐらいか、空気も爽やかである。ただ降りそそぐ日差しは強烈だ。
   この地帯は乾燥した砂漠性気候なのだろう。
ポプラ、柳、ニレなどの街路樹に縁取られた広い道を
   走り、10分後ノルブリンカに着く。


                                     ダライラマ夏の宮殿   ノルブリンカ

                   

                ノルブリンカは、ダライラマ7世が1745年に建設した夏の離宮。
        以後毎年4月から9月まで歴代のダライラマがここを住居とした。敷地面積は36
と広大。
        1956年に建てられ
、現ダライラマ14世が実際に生活した、タクテン.ミギュ.ボタンと呼ばれる
        シャレタ離宮も残されている。ところがダライラマ14世は、1959年3月ここノルブリンカから
        インドに亡命してしまった。     
         1950年頃から中国政府はチベットへの支配を進めはじめていたが、1957年にはその圧力がさらに
        強まったためカム地方(東南.四川省、雲南省)でチベット族が反乱を起こし、1958年には中央
        チベットまで広がった。1959年3月にはついにラサで大暴動が起こり、当時まだ23歳だったダライ
        ラマ14世は、馬でヒマラヤを越えてインド へ脱出したのである。その結果チベット暴動は武力で
        鎮圧され、チベットは中国領に併合された。1965年には中国の一自治区であるチベット自治区と
        なって今日に至っている。

         その後も1989年をはじめ何回かチベット暴動が勃発したが、暴動はその都度武力で鎮圧された。
        3
年前の2008年3月に起きたラサ大暴動は記憶に新しいところである。

                  前述したようにラサ市の人口の大半はチベット族とされているが、2000年からの西部大開発で
        ラサにも漢族の大量流入が続いており、そうした出稼ぎ労働者を含めると市中心部の漢族の割合は
        チベット族に迫っているとの見方も強い。こうした増加し続ける漢族が事実上政治経済を支配して
        いるという不満と、チベットの文化や宗教が軽視され壊されつつあるのではないかという怒りと
        不安が、チベット大暴動への大きな動機になっているのかもしれない。

        こうしたなか、街にはチベット語よりも漢字を中心とした看板があふれ、他の地方都市と同じよう
        に漢族居住区が次々と形成されて、チベット文化を色濃く残す地区はバルコルなどの旧市街に限ら
        れている。チベット文化がこのまま持続できるのかどうか...心配されるところである。

          12時10分市内のレストランで昼食後、バスでしばらく行くとラサの空に大きく聳える建物が眼に
        入ってきた。チベットの象徴ポタラ宮だ。辺りを圧倒するような存在感を感じる。その規模は
      高さ115m、東西 360m、南北300m、面積41㎢
に及ぶ。巨大な宮殿というよりはチベット仏教の
        信者たちにとって、神々が棲む須弥山といった存在であろう。

                           ダライラマの宮殿  ポタラ宮

                           

          ポタラ宮の建設は7世紀頃から始まったとされるが、本格的にはダライラマ5世の時代である
        17世紀中頃から進められ、1695年に完成した。以来この宮殿はダライラマ14世がインドへ亡命
        するまでの300年間、チベットの政治、仏教における中心地としてチベットの人たちに崇められ
        てきた。
         私はポタラ宮の南側にある広場でこの宮殿の写真を撮るべく試みたが、あまりにも大きな景観の
        ため全景をカメラに収めることは出来  なかった。それでも何枚かシャッタ-を切ったあと、
        しばらくの間ひき込まれるようにこの巨大な宮殿の姿を眺めていた。上部の紅い建物は紅宮、
        その下部は白宮と呼ばれているところで、紅宮には歴代ダライラマの霊塔など宗教にかかわる
        部屋が多く置かれ、白宮にはダライラマの住居であると同時に、政治を執り行う場所であったと
        いう。

         13時15分 パスポ-ト、手荷物の検査を受けたあと、ポタラ宮に入る。

         部屋数は1000室を越えると言われているが、観光客は決められたコースで、見学できるのは
        10数室位。内部で写真を撮るのは禁止されているが、入口の四天王の写真だけはカメラに収める
      ことが出来た。
 

                                                         ポタラ宮入口の四天王

                                                   
            
           

              入口から弥勒仏殿、立体曼陀羅、三界殿、ダライラマ6世の居室であった長寿楽集殿、歴代の
        ダライラマの遺体がミイラで保存されているという霊塔、金剛仏像殿、ダライラマ瞑想堂だった
        法王洞、持明仏殿など約1時間30分位をかけて見学させてもらった。いずれの仏像もぼうだいな
        金銀宝石が施され、重厚な雰囲気を感じた。

         ホテルに帰りしばらく休憩をしたあと、街のレストランでチベット民族舞踊を見ながら夕食を
        とる。
 夕食後再びポタラ宮広場でライトアップされたポタラ宮を写真に撮り、21時40分ホテルに
        帰る。

                   5月13日  ラサ市内とその周辺の観光

                1030分 ホテル出発、すぐ近くの西蔵博物館に行く。
              館内はチベットの歴史、文化、風俗についての文物が、幅ひろく時代を追って丁寧に展示されて
        いた。説明用のイヤホンを聞きながらゆっくりと各コ-ナ-を廻る
なかでも、チベット演劇に
        使われる仮面は興味深くみた。
様々な表情をした仮面が展示され、その中にはわが郷土芸能
       ”石見神楽”に使われる仮面に似たものもあり、演劇の筋書も、やはり神々が悪霊を調伏したり
        退治したりするものが多く、石見神楽のル-ツはチベットにあるのではないかと思ったりもした。
       仏教画も面白かった。普通チベットの仏像や仏画は眼が大きく描かれ、私たち日本人には違和感を
    感じるものが多いが、ここで展示されていた仏画のほとんどは中国風のものであった。
        やはりこの博物館は中国側からみた歴史観によるものが多いように感じた。


                                           チベット民族舞踊の仮面(西蔵博物館)

                   

                         チベット民族舞踊の仮面(西蔵博物館)

                 
    
                                                                 チベット仏教画(西蔵博物館)

                   

           昼食後セラ寺に行く。

        セラ寺はゲルク派の開祖ツォンカバの弟子たちによって1419年に創建されたゲルク派の
       大寺院。
チベットに日本人として初めて潜入した河口慧海や、多田等観もセラ寺でチベット 仏教
       を学んでいる。中に入り、大集会殿、印経院、砂曼荼羅の展示室、馬頭観音のある学堂などを見学
      した。本堂では大勢の僧侶たちによる読経の声が響き渡っており、何とも荘厳な雰囲気を感じる。

      中庭では若い僧侶たちの問答修行が始まろうとしていた。彼らが問答している近くに座り込み、
       しばらくの間見学させてもらう。


                        セラ寺の法輪                                  読経するセラ寺の僧侶たち

                   
      
                           問答修行するセラ寺の若い僧侶たち          

                   

                  彼らは二人でペアを組み、立っている方が問題を投げかけ、座っている方がそれに答えて
         いるらしい。よく見ていると、立っている方は左手は軽く前に差し出し、右手を大きく後ろに
     振りかざして左手を叩き、”ヤッ!”とばかりに右手を相手の前に突き出して、
       “人生とは何ぞや!如何にして悟りを!(?)”などと問いかけているようだ。答える方は真剣な
     まなざしで相手を見つめてそれに答えたり、時々ソッポを向いたりすることもある。
         始めたばかりの所作はゆるやかだ が、だんだん時間が経つにつれて振りかざす手のテンポも
     激しくなり声も大きくなって熱を帯びてくる。次から次に難問をくりだし投げかけているように
     見える。
         経文の一節らしく発している言葉はまったくよく解らないが、若い僧侶たちの熱気がこちらに
     伝わってきて、見ているだけでもなかなか面白かった。


          このセラ寺は鳥葬の儀式もとりあつかっているという。
         チベットの人たちの葬儀は鳥葬、火葬、風葬、土葬、水葬があるらしいが、一番多いのは鳥葬だ
     と聞いて非常に驚いた。私はチベットで鳥葬という風習があるということは知っていたが、
     それはごく一部の限られたものであると思っていた だけに ”まさか”という気がしたのである。


                人間の死体は僧侶が読経するなかでバラバラに解体され叩き砕き、ツァンパをまぶしてダンゴ
         状態にしてハゲ鷲に与えられるという。それは魂がぬけた肉体は何かの施しをしたほうが良いと
         いうチベット族の人たちの考えかたに基ずくものとされるが、彼等はそれが自分の人生の最後の
     功徳になると考えているのかもしれない。

          自分の肉体を動物に与えるという仏画は見たことがある。今から10年前の20016敦煌に行っ
     た時、何窟かは忘れてしまったが”捨身飼虎”とかいう仏画が、釈迦前世の物語の中に描かれて
     いたように記憶している。それはやせ細り飢えた虎に、前世の釈迦が自分の身を投げ出し、虎に
     与えようとしている絵図であった。しかしこれは、自らを犠牲にして功徳を施すという宗教上の
     観念であるが、鳥葬は現実に行われているチベットの風習なのである。


          私は4年前青海省を訪れたとき、山間の渓谷の流れに置かれた羊の肉をハゲ鷲がむさぼり食って
         いたところを偶然見かけたことがある。ハゲ鷲は、羽根を広げると2mくらいになる大型の猛禽。
         その時5~6羽いたハゲ鷲は、食べ過ぎて身体が 重くなったためか、よたよたと山の斜面を駆け
         上がり、風が吹いてきた瞬間飛び立っていった姿が印象に残っている。

                                       
          16時、セラ寺から近くのジョカン寺を訪ねる。

                 ジョカン寺はチベットを統一した吐蕃の王ソンチェン.ガンボの死後、その菩提寺として
     7世紀に建立された寺院。
     ネパ-ルから嫁いできたティツン王女と、唐から降嫁してきた文成公主が協力して造営したもの
     と考えられ、院内にはティツン王女が持参した十一面観音像と、文成公主が持参した釈迦牟尼像
         が祀られており、チベット族にとっては最も聖なる寺院である。

          巡礼者たちはチベット自治区内はもちろん、青海省、雲南省、四川省からも長い年月をかけて、
         五体投地しながらこのジョカン寺にやってくる。

               ジョカン寺正門の前や路上では、大勢の人たちが五体投地をくりかえしていた。
         両手を上げて頭上で合掌、そのまま口元から胸と下ろしてゆき膝を折り、最後は両手を広げて
         飛び込むようにして身体を地面に投げ出している。老いも若きも男も女も、同じ動作をただひた
         すらに、ひたむきにくりかえしているのだ。そのパワ-と逞しさにはただただ驚くばかりである。

                      ジョカン寺前の路上で五体投地するチベット族の女性

                    

                   

        ガイドの陸さんによるとチベット仏教の信者たちは、一生に10万回の五体投地を目標にしている
     という。それを聞いたとき容易に信じられない気がしたが、そばに近寄りがたいほどの真剣な表情
     で五体投地をくりかえしている彼らの姿を見ているうちに、それがまさに本当のことであろうと
     信じられるほどに、その熱い雰囲気に圧倒されてしまった。
 そのひたむきな姿に畏敬の念さえも
       覚えたのである。
次に尼寺を訪ねる。

       この尼寺もジョカン寺と共に7世紀に建立された寺院で、現在も130人の尼僧が修行していると
    いう。
       尼寺はお布施が ほとんどないため、彼女たちは茶館を経営して生計を立てているのだ。その茶館
     でミルクティ-をいただく。
中庭にはいろいろな花が植えられ心和む。彼女たちはニコニコと優し
     い笑顔で接してくれて、気持の良いひとときを過ごすことができた。


                                                        尼寺で修行する尼僧たち

                      

     尼寺からそのまま歩いて、ジョカン寺の周囲をとりまく八角街のバザ-ルを散策する。
     そこには日用品や 衣類、宝石、仏具、燈明用のバタ-を並べた店がところ狭しと立ち並ぶ。
       大勢の人たちがジョカン寺の周囲を歩いているが、その多くはチベット族の人たち。手にマニ車
     をもち、”オム.マニ.パドメ、フム”と唱えながらその周囲を巡り 歩いている。何周も何周も
     一日中日が暮れるまで、いや日が暮れてもひたすらに歩き続けているのであろう。
      ある場所でぼんやり眺めていると同じ人たちに何度も出会ってしまう。ここだけは チベット族の
     熱気とエネルギ-が、溢れんばかりに吹きだしていた。

                                          八角街で手に法輪を持って歩くチベット族の人たち
   

                    
                                                                                                                                               
       それにしてもチベットはこれからどう向かおうとしているのか…。映画”セブンイヤ-ズ.イン.
      チベット”のあの頃のチベットは戻ってくるのか、このまま時代の流れに翻弄されていくのか…。
     今チベットは大きな歴史の曲がり角にきていると思われる。
しかし彼らのアイデンティティ-は
       今もなお彼らの心の奥深くに根強く刻み込まれている…、この三日間のラサの滞在で感じたこと
      である。

                 514   

         3600m   4770m   ェ4440m   5050m    3950m  3900

        ラサから~カンパ-ラ峠~ヤムドク湖~カロ-ラ峠越え~ギャンツェ~シガツェ

       今日からはチベット、ヒマラヤの旅の第2ステ-ジに入る。ラサからシガツェへ、  350km。 
      民族衣装を着たホテルのスタッフに見送られながら835分、ホテル出発。


       ニレ、ポプラ、柳に縁どられた並木道を走って行く。しばらくすると磊磊たる大きな河原に出る。
       流れているのはラサ河。この河はやがてヤルツァンポ河に合流する。
    ヤルツァンポ河は全長1787km、チベットの東の端からヒマラヤを貫いて南に下り、インドに流れ
    込んでプラフマプトラ河、さらにガンジス河と名を変える大河だ。
       私たちはそのラサ河沿いに走り、920チベット族の民家に立ち寄る。迎え入れてくれたのは
     中年の婦人。突然の訪問にもかかわらず、ニコニコしながらバタ-茶とツァンパをふるまって
    くれた。


                            チベット族民家の婦人                               チベット族民家の応接室

             

        お茶をいただいたあと、仏像や曼荼羅画が飾られている仏間、客室、台所を見させてもらった。
       どの部屋もこぎれいに整理され、なかなかシャレている。主人はラサでドライバ-として働き、
       娘は大学で法律の勉強をしているという。

           この辺りに住むチベット族では、中流よりやや上の家庭らしい。この家の自慢は、中庭に置かれた
       パラポナアンテナの形をしたソ-ラ-パネル。これで湯を沸かし、身体を拭いたり料理にも使うと
      いう。身ぶり手ぶりで説明してくれる彼女の表情からは、何とも心やさしい雰囲気が伝わってくる。
       その昔、子供の頃田舎の農家で見かけた、気さくで優しいオバさんというイメ-ジをもつ。
      40分の滞在時間を忘れるほど、楽しく心温まるひとときであった。丁重にお礼を言い民家を離れる。

       車は西よりに南下しながら、ラサ河沿いに中尼道路(中国~ネパ-ルを結ぶ道路を走っている。
      ラサ河の対岸は険しい灰褐色の岩山が続く。

          1035分、曲水の街の標識が見えてくる。ラサ河はここでヤルツァンポ河に合流、呑み込まれて
     ゆく。
車はヤルツァンポ河を離れ、山沿いに曲がりくねりながらどんどん高度を上げ、1130
      カンパ-ラ峠に着く。


       カンパ-ラ峠は標高4770m、河口慧海も立ち寄ったところだ。
    彼は1900年3月ネパ-ルから西北に歩きはじめチベットに潜入、カイラス山に巡礼してそこから東に
    向かい歩き続け1年9カ月後の1901年12月にラサに辿りついている。日本人として初めてチベット
    に潜入した大阪堺市出身の仏教学者である。

       この景色を眺めた慧海は彼が書いたチベット旅行記の中で、”この山脈が湖面に浮かんでいる
      有様はちょうど大龍が蜿蜒として碧空に蟠るというような有様で実に素晴らしい。ただそれのみで
      なく、湖水の東南より西南にわたって高く聳ゆる豪壮なヒマラヤの雪峰は 巍然として妙光を輝かし
     ております。”と書いている。

      辺りの景色を眺めてみると、遠く近くヒマラヤの峰々がうねうねと連なり、眼下にはトルコブル-
     のヤムドク湖が、これまた山沿いにうねりながら続いている。

          上を見上げると、澄みきった青空に真綿のような白い雲が浮かび、ときどき頬をなでながら吹き
      ぬけてゆく風が心地よい。
ヤムドク湖の大きさは620、周囲の山から流れ込む雪融け水が水源と
     なっている


                                 カンパ-ラ峠(標高4770m)からヤムドク湖(4440m)を望
              
                            

          

         カンパ-ラ峠でしばらく休憩したあとヤムドク湖まで下り、湖畔沿いの道を何度も折れ 曲がり
       ながら走って行く。
 巨大な龍のように横たわるトルコブル-の湖と高く晴れ渡った 青い空、その
       間に連なるニンジンカン山(標高7191m)の白い峰々、そのコントラストは 何とも美しく気が遠く
       なるような風景だ。
        私たちはいつのまにかヤムドク湖を離れ、湿地帯が広がる原野に入ってきた。その中に馬、ヤク、
       羊の群が点々。やがて視界さらに広がり間近にヒマラヤの峰々が見えてくる。
 
             13時、ヒマラヤの白い峰々に抱かれたナンカルツォという小さな村に着き、道端のレストランに
      入って昼食。
       レストランの玄関前で真っ黒に日焼けし、ホコリと汗でヨレヨレになったジャンパ-を着たチベッ
      ト族の青年が、弦楽器を持って民族音楽らしいものを弾いていた。どこか心に沁みいるような音色
      である。前に置かれた容器には何枚かの元紙幣が入っている。このレストランに来る客相手にいく
       ばくかの生活費を稼ごうとしているのであろう。私はチップ2ドルをその容器に入れて彼の写真を
      パチリ。

          13時50分、レストランを離れしばらく行くと、前方に純白のドレスをまとったような山が現れて
    きた。
標高7220mのカロ-ラ山らしい。その稜線は時に険しく、時にやさしくなったりする。見る
    角度によって刻々と姿かたちを変えていくのだ。その美しさに見とれる。夢中でカメラを向ける。
      いくら眺めていても飽きない景観だ。いよいよヒマラヤの奥深くに入ってきたかという感慨をもつ。

                                   カロ-ラ山とヒマラヤの白い山塊群

                            

                  
               
       14時20分、カロ-ラ峠に到着する。ここは標高5050m。昨年ツア-客の一人が突然 倒れてしまった
      ところだ。バスから降りると一瞬”ファッ”とした感覚が身体をはしる。空気は下界の半分位。
      しかしさほど息苦しさは感じない。大きく深呼吸しながらゆっくりと歩いて行く。

              眼の前には標高7220m、巨大なカロ-ラ山が聳えている。見上げると山頂付近は絹のようななめ
      らかな雪に覆われているが、次第に雪は粗くなり下腹部は無数の氷の塊が不気味に下り落ちている。
       カロ-ラ山の氷河らしい。その氷河が眼の前に迫ってきている。
        
       スゴイ!今にも襲いかかってきそうな凄い迫力である。上部の急斜面では氷河が崩壊、雪崩となっ
       て襲いかかってくることもしばしばあるという。氷河の切れた辺りから黒い岩肌を伝わって幾筋
       もの水が滴り落ち目の前で小さな滝と
 なっていたが、これも大河の源流の一つになるのであろう。
      天気は目まぐるしく変わる。雲は激しく流れ動き、晴れているかと思うとたちまち黒い雲に覆われ
       て辺りは暗くなり、そしてまた青い空が見えてくる。さすがここは標高 5000mの高山である。

                             カロ-ラ山(標高7220m)から流れ落ちる氷河 
                                    カロ-ラ峠  標高5050mより


              

                  

       30分の散策を終え、14時40分カロ-ラ峠をあとにしてギャンツェに向かう。

       ここからは下りに入る。後ろを振り返るとカロ-ラ山は遠くなり、代わりに褐色の 山々が 連なっ
     て見えてくる。
道の両側はゴロゴロとした石や岩がころがる大原野。 その中に細い河筋が一本の
      帯のように流れている。時々麦畑も眼につくようになる。このやせた大地でも麦だけは育つようだ。


       疲れのためか少しウトウトしてきた。気がつくとギャンツェに着いていた。  時計を見ると16時。
     ここは標高3950m、カロ-ラから一挙に1100m下ってきたこと になる。ここで白居寺を見学する。


            白居寺は14世紀に建てられたチベット寺院。創建当初はサキャ派に属していたがのちにゲルク派、
      シャル派などと共に各派が共存する仏教学問の中心地として発展してきた。
      パンコル.チョルテンと呼ばれる、チベット寺院最大の仏塔をもつ。チョルテンの高さは34m、8階
    建て、108の部屋がある。蜂の巣のような大小の窟には、それぞれ仏像が 安置され、色鮮やかな
      壁画が描かれていたが、中でもヒンズ-教の影響を受けたと思われる仏像は興味深かった。
      白居寺の近くにあるギャンツェ.ゾンにも立ち寄った。ギャンツェ.ゾンは14世紀に創建されて以来、
    長い間この地方の城塞として繁栄してきたが、1903年イギリス軍との激しい戦いで敗れ、現在は
     遺構として下の街を見下ろすかのように高い丘の上に建っている。

                  ギャンツェ白居寺のパンコル.チョルテン

                            

                                      ギャンツェ. ゾン                                         白居寺の仏像 
                  
                  

        17時10分ギャンツェを離れ今日の宿泊地シガツェに向かう。ここからシガツェまではほぼ平坦な道。
      視界は大きく、広々とした平原には馬やヤクで畑を耕す農家の人たちの姿や、ところどころ小さな
       集落も点々と眼につくようになる。のどかな田園地帯を ひたすら走りつづけ、19時10分シガツェ
     に到着。市内のレストランで夕食後、20時20分ホテルにチェックインした。
 

               5月15日 シガチェ滞在 今日もシガツェに連泊して市内及び周辺を観光する。

        ホテル出発時間の10時30分にロビ-に降りていったが、添乗員の今岡さん、ガイドの陸さんが
       居ない。どうやら女性のNさんを連れて病院に行っているらしい。

      そういえばNさんはこの旅行中、とくにラサからはずっと苦しそうにしていた。昨日の昼食は
    まったくとらず、レストランの外で食べたものを戻していた様子。それに気づいた今岡さんが彼女
    のところに行き、何か話しかけていたようである。私はその様子を遠くからそれとなく見ていた。
    その日の夕方ホテルに着き、ロビ-で彼女に話しかけた。

       「どうですか気分は?」
         Nさん「今までの旅行でこんなにシンドイ思いをしたのは初めてです。私バス酔いすることもあり
          ますが、やはり高山病でしょうか?」

              「おそらくその両方だと思います。酸素をお吸いになったらどうでしょうか、頭がスッキリ
       するかもわかりません。酸素を吸う装置が部屋に置いてあるはずです」


      Nさん「そうですか、頭がスッキリしますか!頭がスッキリして、早く気分が良くなりたいです」
        
といって少し明るい顔を見せてくれた。私はその前に今岡さんに相談してみてください、と言い
    残して指定された自分の部屋に入った。


       その晩彼女は今岡さんに相談したらしいが、病院で診察を受けることを勧められたようだ。
      20分後今岡さんが戻ってきた。彼は
   「出発が遅れて申し訳ありません。Nさんは今どうのこうのという状態ではありませんが、これ以上
     高所に行くのは無理だと診断されました。
    ここで別の車を用意してラサまで戻り、そこでもう一度診察を受けて、問題がなければ日本に帰国
    することに なるでしょう。」とコメント。

     彼女は現在埼玉に住んでいるが、出身は香川県、金刀比羅宮のある琴平。時々実家にも
帰省します、
    と話してくれたことがある。南国育ちらしく明るく、しかし控えめで感じの良い女性であった。

    旅行はまだ半ば、これからが本番というのにさぞ残念であったにちがいない。

       10時50分 ホテル出発、すぐ近くにあるゲルク派6大寺院の一つであるタシルンボ寺を訪ねる。 

                        
                タシルンボ寺

                        

                                                         タシルンボ寺の千仏壁画

           
                   
         タシルンボ寺は1447年ゲルク派の開祖ツォンカバの弟子であるダライ.ラマ1世により創建。
        ダライラマ5世以降は歴代のパンチェン.ラマによる政治、宗教の中心として繁栄してきた。
        現在も約1500人の僧侶が生活しているという。

             伽藍の中でひときわ壮大な弥勒仏座象は高さ26m、金銅仏としては世界最大である。

         私たちは僧院の中をゆっくり歩きながら、大弥勒殿や歴代パンチェン.ラマの霊塔を見て廻った。
        修復中の僧院の屋根では10数人のチベット族の人たちが、何か歌を唄いながら仕事をしていた。
        その声が辺りに響きわたり、何とものどかな気持にさせられた。

        昼食後、シガツェからギャンツェ方面に24km行ったところにあるシャル寺を訪ねる。
         シャル寺は、チベット族が暮らす小さな村に建てられたシャル派のチベット寺院。 創建は1087年。
        建物は中国、宋や元の時代の様式も採り入れられている。今まで見てきたどの寺院よりも規模は
        小さいが、院内は静かで荘厳な雰囲気が漂い、置かれた仏像もどこか日本の古寺にあるものと通じ
      るところあり、親しみを感じる。


                                                                  シャル寺

                             

                                                シガツェ郊外の農村風景  

                  
                 
        このシャル寺の見学でシガチェの観光をすべて終え、14時30分帰途に就く。

        車窓からヤクを使って畑を耕している農村風景をぼんやり眺めていると、突然空は黒い雲に覆われ
       て強い風が吹き始め、辺りのポプラの木がなびき伏し、パラパラと雨が降り出した。しかし黒い
       雲に覆われているのは上空だけ、遠くの空は青い。5分もしないうちに青い空はこちらにやって来て、
       たちまち晴れてきた。やはりここは標高3900mの高地、天気は急変する。約1時間の農村地帯を
       通りぬけ、1530分ホテルに着く。
メンバ-の人たちは街のバザ-ルに出かけていったが、私は
       部屋に残り休憩。乾き物を肴にブランデ-を飲む。私にとって至福のひとときである。

                  516日  

         3900m   4100m 4300

        シガツェからサキャ~シェカ-ル

           840分、ホテル出発、今日から旅の後半に入る。今日の血中酸素濃度は89%、この高所(3900m)
      にあっては非常に良い。

       起床した6時頃は曇っていたが、この時間青い空が見えてくる。視界大きく辺りは低い 草木が生え
       る原野。
    原野の向うに長い雪山の連なりが続いていたが、やがて赤い岩山が次から次に現れてくるように
    なる。赤く見えるのは酸化した土なのか、それとも赤い草木に覆われているのか。
この風景を見て
    いると、乾燥した砂漠性気候を感じる。これが チベットなのだと改めて思う。
                                 

                    中尼公路の風景 (シガツェ~サキャ)

                       

            上海から5000kmの石碑               ヨ-ロッパの青年男女

           

          1015分、トイレ休憩。上海から5000kmの石碑あり。道端で45人の子供たちが、何やら
        叫びながら跳びはねたり、走りまわったりして遊んでいた。
サイクリングでやってきた、
     ヨ-ロッパ系の青年男女のところに走りより戯れている。
実にワイルドでたくましい。その昔
    野山を走りまわっていた自分の子供の頃を思い出す。

     それにしてもこの青年男女はどこからやってきたのか、そしてどこに行くのだろう…もしか
    したらラサから自転車に乗りこの中尼道路を走り抜け、ネパ-ルのカトマンズに行くつもりかも
    しれない。
        その距離は約920km、エベレスト.ベ-スキャンプに立ち寄ると、それに200kmが加算される。

         元気いっぱい青春を楽しんでいるこの青年男女に、心から拍手を送りたくなってしまう。

               イレ休憩を済ませ山道を登って行くと、やがてツォ-ラ峠に着く。ここは標高4500m。
        道路をまたいで張られた無数のタルチョが風にはためいていた。チベット圏の峠には必ず
    タルチョが見られる。旅行く人の安全と幸福を祈るチベット族の旗である。旗にはビッシリと
    経文が書かれているが、この経文が風にはためいて天に登り下界に住む人たちの幸せを護って
    くれると、チベット族の人たちは信じているのであろう。


            ツォ-ラ峠を越えて下りに入り、左に折れて南方面に向かう。50分後、1140分サキャ南寺に
    着く。


                        サキャ南寺                                  サキャからカツォ-ラ峠

              
 

       サキャ南寺は1268年元朝時代に建てられたサキャ派の総本山。

    13世紀チベットがモンゴル帝国元朝の支配下に入った時代、サキャは元朝の庇護を受け、チベット
      仏教の主流として、また政治的にもチベットを支配してきたが、元朝の滅亡と共にサキャ派は分裂、
      現在はチベット仏教の一派として残されている。
寺院は正方形の堅固な城壁に囲まれ、寺院という
       よりは城塞のような感じ。しかし院内にはインドから 贈られたホラ貝や古い仏像、霊塔が安置され、
      重厚な雰囲気が漂う。
やはりこの寺も 日本の古寺に通ずる雰囲気を持っている。  
       昼食はサキャのレストランでとる。


            1330分、車はサキャを離れて来た道を戻り、中尼公路に入り急峻な山道をくねくねと 折れ
    曲がりながら登ってゆくと、やがてカツォ-ラ峠に着く。時計は15時15分。

    トイレ休憩と写真タイム。ここは標高5220m。空気は平地の半分。しかし身体が慣れてきたためか、
    澄みきった空気がさわやかに感じる。大きく息を吸ってバンザイ!

                     
  カツォ-ラ峠にて 標高5220

           

               

                 517日 

           4300m          5200m     4390
                  シェカ-ルからエベレスト.ベ-スキャンプ~オールドティンリ-

        今日はいよいよエベレスト.ベ-スキャンプに行く日。 今回のコ-スで一番期待していた日で
        ある。このツア-に参加した最大の動機はこの日にあったと言ってもよい。

              私は7年前の20043月エベレスト街道のトレッキングに参加し、標高4000mのシャンポチェの
                6812m    8518m   78555m
        丘からアマダブラム、ロ-チェ、ヌプチェ等ヒマラヤの白い峰々の向うに、丸い頭だけを出した
        エベレストを見たことはある。しかしそれはあまりにも遠く小さく、世界最高峰を見たという実感
        はなかった。ところがエベレスト、ベ-スキャンプではそれが間近にに見られるというのだ。
        何としても見たい。もし天侯が悪くその姿を見ることが出来なかったら、今まで見て来たチベット
        高原やヒマラヤ山塊群の美しさもかすんでしまう。旅の楽しさも半減してしまうのだ。

              昨晩は何回も眼を覚まし、その度に窓を開け暗い夜空を見上げた。夜空は黒い雲に覆われていた
    が、流れる雲のすき間から時々満月に近い月が顔を出しており、それに一縷の望みを託していた。

      早朝6時、ホテル出発。中国では全国どこでも北京時間に合わせているため、実際の現地時間は
       午前4時頃である。まだ外は真暗、シェカ-ルはヒマラヤ山中の小さな村、街の灯りはまったく
    ない。
      車は南に向けて夜の闇の中をひたすら走る。山間にさしかかり、急峻な山道を左に右に折れまわり
        ながら登って行く。どうやら辺りは雪が降り積もっているらしい。雪灯りが窓を通してぼんやりと
      見えている。高所に行くにつれて寒くなる。ぶ厚い綿のシャツの上にセータ-、さらにジャケット、
        カッパと重ね着しているが、それでも寒さが身に沁みる。

            725分、車はやがて高い峠の上に出た。標高5100mのパンラ峠である。

                     パンラ峠(標高5100)にて

                 

        ようやく薄明かりが見えてきた。峠に立ち周囲を見渡す。大きな眺めである。周囲は目線の高さ
        に白い雲が帯のように流れ、その上に万年雪を戴いたヒマラヤの山塊群が連なっている。しかし
       上空はどんよりとした曇り、エベレスト方面は厚い雲がかかり、その姿はまったく見えない。
        ここは天気が良ければエベレスト、ロ-ツェ、マカル- が見える絶景のポイントらしいがみな
        雲の中、果たしてベ-スキャンプからエベレストは望めるのか…ただエベレストの反対方向に、
        遙か遠く朝日に照らされて金色に 輝く雪峰が見えており、その景色が少し気持を明るくさせて
        くれた。
  

        パンラ峠から下りに入る。やがて辺りは明るくなり、雲のすき間から青い空も見え始めてくる。
        車は未舗装のガタガタ道を大きく左右に揺れ、時には大きな石に跳びはねる。
        朝日が昇り始め、周囲の赤い山々をさらに赤く染めてきた。時々チベット族の小さな集落も見え
        始めてくる。
        ゴロゴロと石がころがる大原野に幾筋かの小さな河の流れ、朝日に
キラキラと輝き美しい。
        しかしまだスッキリとした天気ではない。エベレスト が見えるはずの前方は依然として厚い雲に
        覆われている。

      ”やはりダメか…”そんな 思いが頭をかすめる。車はその厚い雲の方向に進む。ひたすらに走る。

                          
     パンラ峠からエベレスト.ベ-スキャンプ途中の風景

                
     
        

      車の中は水を打ったように静まりかえっている。期待と不安で一言も発する者は誰もいない。
        みな固唾をのんでその瞬間を待っているのだ。―私たちはいつのまにか見上げるような高い山々
        の谷間の中を走っており、その高い岸壁にさえぎられて遠くを望むこと は出来ない。
      ”やはりダメか…”そんな思いがまた頭をよぎる。
とその時、突然天空に立ちはだかるような大き
        な景観が眼に飛び込んできた。

      「アッ!エベレストです、エベレストが見えてきました!」今岡さんの大きな声が車内に響き渡る。
        静まりかえっていた車内はその瞬間”ウォ-!”叫び声にも近いどよめきが広がった。
半ば諦め
        かけていた世界の最高峰が、眼の前に現れてきたのだ。しかしベ-スキャンプ
 まではまだ距離が
        ある。
      「雲がかからないうちに、先にここで写真を撮りましょう。」と今岡さん。
私ははやる気持を抑え
        ることが出来ず、跳び降りるようにバスから降りた。

         この巨大な山は、圧倒的な迫力で間近に迫ってきている。
           ”ワァ-、スゴイ!”感激が全身をはしる。そして胸から湧きあがるような感動を覚えた。
        再びバスに乗り、エベレストのベ-スキャンプに着き、さらに近づく。

          世界の最高峰エベレストは、澄みきったヒマラヤの空にひときわ高く聳え立ち、堂々たる貫録で
        その雄大な姿を私たちの眼の前に見せてくれている。
私はこの巨大な山に向かい夢中で何枚もの
      カメラのシャッタ-を切り、そのあとは しばらくの間食い入るようにこの山の姿を 眺めていた。
        標高8848m、富士山を二つ重ねてなお1300mも高い。仰ぎ見るほど高く巨大で荘厳な雰囲気さえ
        感じる。チベット族が信じる神の山なのであろう。

                                  
                                           エベルト北壁(チョモランマ)  標高8848

                            エベレスト.ベ-スキャンプ(標高5200m)より  
           
                            
            
               /
     
             山頂付近は強風のためか、白い雪煙が激しく吹き上がっている。そこはすべての生物を

            拒絶する岩と雪と氷の世界。空気は下界の3分の1、時には風速30mから40mの風が吹き

          荒れ、気温はマイナス30度Cからマイナス50度Cにもなる極寒の地である。人間の生存を

            拒む世界だ。


             黒い岸壁の谷間には何本もの氷雪が帯のように流れ落ち、滝のようにも見える

               アイスフォ-ルや一面の雪に覆われた山腹は、強い陽光に光り輝いていた。さすがその姿は

                       世界の山男たちを魅了し続けてきただけの風格と威厳を感じさせられるものがあった。

         5月はヒマラヤ登山のベストシ-ズン、今頃はこの山に憧れ、世界から大勢の登山家たちが

            ここにやって来ているにちがいない

                              エベルト北壁(チョモランマ)  標高8848

                         エベレスト.ベ-スキャンプ(標高5200m)より   
                                             
                        

                   
           
        私はこのツァ-に来る前に何冊かの山岳紀行誌を読んできたが、それによるとエベレスト登頂
       をめざす登山家たちが基地とするベ-スキャンプは、今私たちが立って
 いるところよりさらに
        500m位登った5700m地点にあるという。彼等がそのBCに入山するのは3月中旬から下旬頃。
        BCを拠点としてシェルパや登山家 たちがル-ト工作しながら、C1(キャンプ1)、C2C3C4
        C5と前進キャンプを設営、その都度荷揚げをしていく。荷揚げしていくのはポ-タ-たちだが、
        ポ-タ-が行け ない高所になるとシェルパたちがやり、登山家たちも手伝うことがある。

        その間登山家たちやシェルパは、何回も登ったり降りてきたりして高度順化をしてゆく。

        つまり、高所に長く居ると身体へのダメ-ジが大きくなるので、時々下のBCに降りて休養、
     徐々に身体を慣らしながら、登頂へのアタックの日に備えるのである。

         最終キャンプ(C4C58000m前後)を設営するまでには、1ヶ月から1ヶ月半位をかける。
       
 アタックの日が決まったらBCから体調の良い登山家たちがシェルパを伴い、前進キャンプづたい
      に最終キャンプに行き、BCと連絡をとりながら指示を待つという。

        アタックする日は天候にもよるが、日本の過去の例では5月初旬から中旬が多く、下旬に登頂した
        記録もいくつか見られる。しかし6月に登頂した記録はない。6月に入るとモンス-ンが到来、
        登山はできなくなってしまうからだ。モンス-ンが終わる10月頃にはまた登山シ-ズンが始まる。

        今日は517日、天気も良い。今頃は何人かのクライマ-たちが、山頂を目指して登っているかも
        しれない。

           1953年 ニュ-ジランドの登山家、エドモンド.ヒラリ-とシェルパのテンジン.ノルゲイが
       エベレストに初登頂して以来、大勢の登山家たちがこの山に挑み登頂に成功している。
日本の昨年
        までの登頂者は142人というから、世界では1000人を越えているかもしれない。

        今年も525日、NHKの取材班がネパ-ル側から登頂している。世界で一番高い山というのが登山家
        たちの憧れの的となり人気を呼び、これだけ多くの登頂者を出しているということになるだろう。

        しかし一方で、この山は多くの登山家たちが命を落としている山でもある。私たちがこのベ-ス
        キャンプにやってきたのは517日だったが、その5日前の
512日、日本の高名な登山家 
        尾崎隆さんがこの北壁の頂上直下で体調を崩し下山したが、8600m付近で亡くなってしまったと
        いう。
         彼は1980年日本人として初めてエベレストの北壁(チョモランマ)の登頂に成功した登山家3
      の中の1人である。エベレスト
あるいは世界の名峰に登頂したのち、やはりヒマラヤや世界の
        名峰で命を落とした高名な 日本人登山家は数多い。


         それについては、1970年、松浦輝夫と共に日本人としてネパ-ル側からエベレスト 初登頂を果た
        し、のちマッキンリ-で行方不明になった植村直己、1973年、1980年、
1982年と3回のエベレスト
        登攀に成功したが、登攀3回目の帰路下山中に遭難した
加藤保男、上述した尾崎隆、1996年田部井
        淳子に次いで日本人女性として2人目のエベレスト登頂を 果たしたが、下山中猛烈なホワイト
        アウト(吹雪や霧で視界がまったくきかなくなる現象) に遭遇して道に迷い凍死した難波康子、
        1973年エベレスト登山を経験し、1977年~1979年ヨ-ロッパ.アルプス3大北壁の冬季単独初登攀
        を達成したが、その後1991年カラコルムの ウルタル(7388m)で雪崩に遇い遭難した長谷川恒男、
        1977年、日本人として世界第2位の高峰カラコルムのK28611m)に初登頂したが、1997年、
        やはりカラコルムのスキルブルム 峰(7360m)で雪崩に遇い遭難した廣島三朗などの諸氏が私の
        記憶にあり、難波さんを除き当時の山岳ファンにとって憧れの登山家たちであった。

        それにしても、登山家たちはどうしてヒマラヤや世界の高峰に登ろうとするのか…。

             そこは極めて危険なところであり、常に死が隣りあわせになっているところだ。もちろん死を
    恐れない登山家はいないだろう。死の危険があってもそこに挑もうとする、何か山男の強烈な
    思いがあるにちがいない。それはそれまで培ってきた自分の力量を試してみたいというよりは、
    そうした自分の生き方に対する自分自身への挑戦であるのかもしれない。

      つい最近、NHK取材班がエベレストに挑み、登頂に成功した記録映像をテレビで見た。
       その番組には日本人として初めてエベレストに登頂した松浦輝夫さんと田部井淳子さんも出席して
        いたが、
     ”どうしてエベレストに挑もうとしたのですか”というスタッフの問いかけに、
松浦さんは
      ”やはりエベレストは世界で一番高い山ですから”、田部井さんは「そこに行かなければ、そこだけ
        にしか見られない景色があるから」と答えていた。
      この言葉は多くの登山家たちの気持を代弁しているようにも思う。一言で云うならばそういうこと
        になるのかもしれない。しかし彼らが心の奥に潜めている心情は、この言葉だけでは窺い知ること
        はできない。彼らの心情はもっと深いところにあるのではないのか、また山への向かい方も登山家
        それぞれに違った思いがあるだろう。

         そうした高みを目指して行く登山家の心情を知る上で、最近読んだ沢木耕太郎の”凍”は、参考に
        なった。そして久しぶりに面白い本を読んだという気がした。 

        これは世界的クライマ-、山野井泰史さんが、ヒマラヤの高峰”ギャチュンカン”に挑んだ時の
        ノンフィクション小説であるが、登山家の山への向かい方と心情がよく描かれていた。

        以下は小説”凍”と、山野井さん自身が書いた垂直の記憶”から得たものである。

         山野井さんは1965年東京生まれ。10歳の頃から登山を始め、高校を卒業後谷川岳の 一ノ倉沢や、
       カリフォルニアのヨセミテ公園の岸壁でフリ-クライミングを実践。
1988年には北極圏バフィン島、
        1990年には南米パタゴニアのフィッツロイで大岸壁の単独登攀を成功させ、1991年からはヒマラヤ
        に入り、同年パキスタンのブロ-ドピ-ク
8047m)やガッシャブルム2峰(8034m)、1994
        にはチベットのチョ.オユ-
 8201m)、2000年にはパキスタンのK28611m)、2002年には
        チベットのギャチュンカン(7952m)他数多くの世界の高峰の氷壁を登攀した山男である。 
        彼の情熱はすべて山に注がれている。

                       谷川岳一の倉沢

                               

            彼は時には、日本有数の女性クライマ-である奥様の妙子さんや友人を伴うこともあるが、
         その多くは単独登攀である。それは多くの登山家がとる山の稜線を登るノ-マルル-トで頂上を
        目指すのではなく、垂直の氷壁を無酸素でよじ登ってゆくのだ。それもロ-プをほとんど使わ
         ないアルパイン.スタイルのソロ。無酸素のため、短時間で頂上を極めなくてはならない。
        
 2002105日彼が37歳の時、エベレストとチョ.オユ-の間にあるギャチュンカン7952m)
         北壁に挑んだときは、それまで彼が経験したことがないほど難渋を窮めたという。

          そこはまさに垂直の氷壁。強風が吹き荒れ、気温マイナス30Cからマイナス50Cにもなる
       中で岩石や氷塊の落下に注意し、オーバ-ハングになったセラックを乗り越え、ひたすら頂上
         を
目指してよじ登ってゆく。簡単にピパ-グ出来るところはどこにもない。10cm、時に
                  10
cm位
突き出た岩場に足をかけ、わずかにせり出した岩場の天井にピッケルやアイスバイル
         で金具を打ちつけ、そこにロ-プを通して下に降ろし、網目のようにロ-プを結んで腰かけ、
         小さなテントを被って仮眠をとる。一歩間違えれば1000mから2000m下の谷底に一気に落ちて
         しまう。しかし彼は4日後の108日、ズバぬけた登攀技術と強靭な精神力でギャチュンカンの
         頂上に立った。


          ところが下山は登るとき以上に困難を窮めた。奥様の妙子さんは重い高山病と凍傷にかかり、
        7500
m付近で彼の帰りを待っている。彼自身も重い凍傷にかかり、体力は極限状態、思うよう
         に手足が動かない。果たして生きて帰れるのか激しい疲労感におそわれながらもホワイト
         アウトの中を下り抜け、妙子さんが待っている7500mのところまでは降りてきた。

         が、そこからがさらに大変だった。二人とも凍傷がさらにひどくなった手足を使い下り続けた
         が、12時間経っても300mしか下りられない。
         やむなくそこで10cm足らずのテラスに二人ともお尻の半分をひっかけるようにしてピパ-グ。
       気温はマイナス40度C。 闇の中から”ゴォ-ッ!”という雪崩の音が頻繁に聞こえる。
         とその時雪崩が襲ってきた。しかし二人はそれに耐えた。その後も何度か雪崩が襲ってきたが
         それにも耐えた。

          そして翌10月10日下降開始。真っすぐ下降していたその時、二人はまともに雪崩の衝撃を
         受けた。彼の身体は何の抵抗もないままどんどん下に流されていく。意識もなくなりかけて
         いた。... 数秒後彼は逆さになっていた自分の身体を懸命に立て直し、ロ-プを引っ張り
       ながら妙子さんを大声で呼ぶが何の応答もない。すでに彼女は谷底に落ちてしまったのか、
      それとも吹雪と風の音にかき消されて声が届かないのか…ところが彼女は落下しながらも
         奇跡的に岩陰の下で止まっていたのである。そして上から 彼が引っ張るロ-プをハラハラしな
         がら見ていた。ロ-プを引っ張り続けると岩角でロープが擦り切れてしまうと思ったからだ...。
                ともかく二人はロ-プで結び合っていたためか、奇跡的に谷底への転落をまぬがれていたので
       ある。

         ― その後視力をほとんど失ってしまった二人は、悪化した凍傷の手足を使いながらその後も
         何度も襲ってくる雪崩に悪戦苦闘、意識もうろうとしながらも1013日、出発時の設営テント
         に辿り着くことが出来た。二人は長時間高所の氷壁で一切酸素を使わず、体力のギリギリまで
         を使い果たし、奇跡的に生還したのである。しかし登頂に4日、下山に5日、往復9日間かかっ
         てしまい、当初予定していた下山より
3日~4日遅れの帰着となった。彼が雇ったキッチンボ-イ
         は、二人は既に遭難したと
思って関係方面に捜索の準備を依頼していたらしい。この登山で
         彼は凍傷になった両手足10本の指を切断、妙子さんも既に2本しかなかった指を切り落とされ、
         両手足20本の指をすべて失ってしまった。

         彼は単に頂上に立つだけの登山は、あまり意味がないと考えている。今や8000m峰を 何度も
         登った登山家は数多いが、それを追いかけることは色あせたつまらないものに見えてしまう。
       それは単なるピ-クハンティングにすぎないのだ。彼は誰もとったことのない未知のルート、
         あるいはまだ果たされたことのない難しいル-トに挑むことをひたすら求める。一つの目標に
      向かって進む。それをやり遂げ次のステップに進む。
さらに激しい情熱を燃やしより困難な
      ところに自分を追い込み、自分で自分の力を験そうとする。そのチャレンジ精神はとどまる
         ところがない。
そこには人よりも優れたクライミングを、または名を残すようなクライミング
       を求め、自分の登攀技術を験してみたいという思いがあるのかもしれない。しかし彼は理想の
         クライマ-像に憧れ、そのために絶えずトレ-ニングを続け、ひたすら高みを目指してきた。
         ただ登りたい、より高いクライマ-になりたいという、ひたむきな思いがそれを持続させて
         きたのであろう。

        自分の生活費と山に行く費用は、アルバイト、富士山の強力、出版社から依頼された原稿料
         などで稼いできた。スポンサ-はほとんど受けたことがない。スポンサ-をつけるといろいろ
         と制約があり、自分の思う登山が出来ないからだ。かってNHKから年末年始にかけて彼が
         エベレストに登る姿を撮影したいという依頼があったが、それも断ってきた。それは彼が求め
         る登山とはかけ離れており、つまらないと思ったからである。

              私はそこにすべての情熱を燃やしている山男の、”ひたむきな姿”に惹かれてしまう、心から
      拍手を送りたくなってしまう。それは、山だけに自分の人生を投じている、そうした彼の生き
     方に何か”美”を感じるからである。


         ここで、関東の名門である山岳会渓流会に所属し、戦後を代表する登山家の一人でもあった
         松涛明氏が、死を眼の前にして書いた手帳のメモを披露したい。
この資料は10数年前、伊豆
      の湯ヶ島にある”井上文学館”から送ってもらったものである。

              昭和23年12月から24年1月にかけて、松涛氏と後輩の有元克巳氏は、当時積雪期 未踏の
         槍ヶ岳北鎌尾根から穂高岳にかけての縦走中、深い積雪に阻まれて遭難、半年後の7月になっ
         て二人の遺体が発見された。遺体のそばの岩の割れ目には、包装紙に包まれた手帳が残されて
         いた。

          ― 松涛明氏の手帳より

                                   一月五日   フーセツ 千丈沢ニスリップ、

                               上リナホス力 ナキタメ共ニ下ヘ下ル、

                              ラッセルムネマデ

                                          一月六日   フ-セツ 全身硬ッテ力ナシ、

                                  何トカ湯俣迄 ト思ウモ、有元ヲ

                                捨テルニシノビズ、死ヲ決ス……

                                                   有元ト死ヲ決シタノガ六時 …… 

                                                     今十四時仲仲 死ネナイ  

                                                       漸く腰迄硬直ガキタ、全シンフルエ、

                                                    有元モ  HERZ 

                                  ソロソロクルシ、ヒグレト共ニ凡テ

                              オワラン 

       松涛氏は当時27歳、後輩の有元氏と共に短い生涯を終えた。私はこのメモを初めて見たとき、
        全身が震えるような感動を覚えた。彼はそこに友人を残し、一人で下山すれば助かったかもしれ
        ないのである。いや、普通の人であればそうしたであろう。しかし、彼は敢えてそうしなかった。
        そこに友人を置き残すことに忍びず、自分の生よりも友人とともに死のほうを選んだのである。―
      この手帳は松涛氏の後輩への篤い思いやりと責任感、当時の山男らしい”純粋さと美学”を伝え
        てくれている。

              その後この手帳は登山会に強い衝撃を与え、今もなおオ-ルドクライマ-たちに、静かな感動を
        抱かせ続けているにちがいない。

        この手帳のメモは、井上靖の小説”氷壁”の終末で主人公の魚津恭太が、北穂高岳滝谷で落石に
        撃たれて負傷、煌々とした月光のもと死をむかえる情景と重なる。
   

        小説”氷壁”より

                            D沢ニ三時半ニハイル。落石頻々、ガス深シ。

                       4時三十五分グライ、ツルム(搭状岩峰)付近

                              ニテ大落石ニ遇ッテ負傷。

                             涸沢岳ヨリ派出セル無名尾根ノ露石ノ陰ニ退避、失神。

                              意識ヲ取リ戻ス、七時ナリ。大腿部ノ出血多量。

                             下半身痺レテ苦痛ナシ。

                             ガス相変ワラズ深シ。

                             意識間歇的ニモウロウトスル。

                            コノ遭難ノ原因ハ明ラカナリ。― ガス深キヲ

                             敢テススミシコト。落石頻々、異常ナルヲ

                             顧ミザリシコト。一言ニテ言エバ無謀ノ一語ニツク。

                             高名ナ登山家デ避ケ得ラレル遭難ニオイテ一命ヲ棄テシモノコレマデニ
                多シ。

                            自分自身マタソノ轍ヲ踏ムコトニナッタ。

                            ガス全クナク、月光コウコウ。二時十五分ナリ。

                            苦痛全クナク、寒気ヲ感ゼズ。

                             静カナリ、限リナク静カナリ。

       ここにも、山で負傷して死を覚悟した山男が、自分の死を静かに受けとめる山男らしい心情が
        見事に描かれている。この一節は、松涛氏の手帳からヒントを得て綴られたものと思われるが、
        井上靖らしい詩情豊かな文章である。


         私たちは40分のエベレスト.ベ-スキャンプの滞在を終え、ここから約1km離れたロンボク村
        に向かい、ロンボク.ゴンパ(寺院)の近くで昼食をとった。昼食後も私は 一人になり、しばらく
        エベレストの姿を眺めていた。ベ-スキャンプより少し遠いが、なかなかのビュ-ポイントである。
        この巨大な山の全景を見ることのできる最後の地点だ。

      12時40分バスに乗る前、もう二度と会えないかもしれないエベレストの方を振り向いた。

           惜別の思いをこめて、”遙かなるエベレストよ、 さようなら”……。

                                      ロンボク村にて
 

                         

        車はロンボク村を離れ来た道を戻り、中尼公路に出て17時過ぎオールド.ティンリ-のホテル
        に着く。
ここは標高4390m、今まで宿泊したホテルの中では最も高所にある。夕食までには少し
        時間あり、早速部屋でブランデ-を飲む。

               外はまだ明るく、窓から夕陽に染まるヒマラヤの山々が見えている。飲むほどに酔いがまわり
      ”アァ~今日は良かった!”という感動が、改めて胸の奥から湧き上がってくるのを覚えた。
  

        518

          4390m       5050m  3750m  2350
        オールド.ティンリ-から~タンラ峠~ニェラム~ジャンム

         今日はここ標高4390mのオ-ルド.ティンり-から標高5050mのタンラ峠を越え、一気に標高
        2350
mのネパ-ルとの国境に近い街、ジャンムに下って行く日。その標高差2700m。

       早朝ホテル前を散策する。ここは世界第6位標高8201mのチョ.オュ-を望む絶好のビュ-
        ポイントだが、生憎その方向は厚い雲がかかり、その姿を見ることは出来なかった。
昨日の夕刻、
        一時見えたこともあるらしいが残念。今日の血中酸素濃度は88%、昨日と変わらず安定している。

        9時、ホテル出発。ここオ-ルド.ティンリ-からは道はよく整備され、振動少なく、バス車内
        では初めてゆっくりメモをとることが出来た。

             視界大きく大原野の中を走る。車窓の左側はやや近く、右側は遙か遠くに、赤土色の山々が
        連なり続く。山麓から平原にかけては、黄色の低い草木がビロ-ド状に覆う。右側手前は澄ん
        だ小さな河が這うように流れている。流れは大地の中を2本になったり、3本になったりする。
        大原野さらに大きくなる。横幅10数kmぐらいか。日が差し始める。右側前方に、朝日を浴
        びてキラキラと光る雪山現れる。山の上はぬけるような青空。左側は朝日の影となった黒い山々
        が連なり、山裾に幅の広い帯状になった雲が流れている。突然辺りは暗くなってきた。
         ゴオ-ッ!という轟音と同時に風強くなり、バスの屋根を激しく打つ音がする。アラレか雹か…
        どうやら車は黒い雲の中に入ったようだ。

           大地は雪に覆われた白い大平原。その中に一頭の馬とそれを引く人間の姿が、ぼんやりと浮かび
        あがる。忽然と黒い霧の中から現れ、遠く黒い霧の中に消えていった。

           
       オ-ルド.ティンリ-からタンラ峠に至る中尼公路からの風景 車窓より

            

       やがてその激しい嵐の中をぬけ、ふたたび青空が広がる大平原に出る。
         ― チベット族の集落見えてくる。四角い建物、赤い屋根に白い土壁。草原に十数頭の馬、 
         のんびりと草を食む。陽光は明るく山を照らし、まばらに黒い雲が影を落とす。
                  車はいつのまにか平原から渓谷に入っている。渓谷は大きくなったり小さくなったりする。
         9時50分トイレ休憩。といっても青空トイレだ。強烈な臭いのする中国式トイレよりはこのほう
         がずっと気持がよい。
上海から5248kmの標識あり。ここはチベット高原の南、東西で言えば
     真中からやや西よりに位置しているところ。空は晴れ渡り風もなく空気は清々しい。
          身体が慣れてきたためか空気の薄さもあまり感じない。山裾にいくつかの塔が立ち並んでいる。
         遠い昔の建物の跡か。
    
         再び車に乗り、九十九折りの山道をうねりながら登って行くと、青空に鋭い陵角を突きあげた
         雪峰が見えてくる。山の向うはネパ-ルか


                                              タンラ峠に至る中尼公路からの風景 

           

           10時、羊群道をふさぐ。羊飼いの少年、笑顔で手を振ってくれる。こちらもそれに応じる。
                風景は草原、渓谷、原野と移り変わり広い高原に出ると、右にシシャパンマ.ベースキャンプに
        行く道が見えてくる。シシャパンマは標高8012m、8000m峰14番目の高峰である。

               田部井淳子さんが、女性として初めてエベレストに登頂したのは1975年だが、1981年には日本
      女子登山隊の隊長としてこのシシャパンマにも登頂している。


                                                タンラ峠に至る中尼公路からの風景 

               

           ここからさらに高度を上げて行くと、やがて眼下には黄色い大平原が広がるようになり、正面
        には万年雪を戴いた長大なヒマラヤの山塊群を見るようになる。
その中にシシャパンマの白い
         頭も見えている。雄大な景色である。


                                                         遠くにシチャパンマの白い頭   

          

             8000m峰は世界に14座あり、すべてヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に集中している。
             標高の高い順からから挙げていくと、

  1.エベレスト           8848m    ヒマラヤ山脈 
2.2               8611m   カラコルム山脈
  3.カンチェンジュンガ
         8586       ヒマラヤ山脈
    4.ロ-ツェ           8516m    ヒマラヤ山脈 
   5.マカル-           8463m    ヒマラヤ山脈
   6.チョ.オユ-         8201m   ヒマラヤ山脈
   7.ダウラギリ          8167m   ヒマラヤ山脈
   8.マナスル           8163m   ヒマラヤ山脈
       9.ナンガパルパット     8125m   ヒマラヤ山脈    
10.アンナプルナ       8091m  ヒマラヤ山脈
    11.ガッシャ-ブルムⅠ峰  8068m  カラコルム山脈
   12.ブロ-ドピ-ク     8047m  カラコルム山脈
      13.ガッシャ-ブルム2峰  8034   カラコルム山脈
   14.シシャパンマ     8012m   ヒマラヤ山脈

       となる。

    このうち今まで私が曲りなりにも見た山は、エベレスト、カンチェンジュンガ(遠望)、ロ-ツェ
      (遠望だがやや近い)、ダウラギリ(遠望)、マナスル(遠望だがやや近い)、ナンガパルパット、
      アンナプルナ、シシャパンマ(遠望)である。

       
1050分、タンラ峠に着く。 標高5050 m 。
           やはりこの峠にも多くのタルチョが風にはためいていた。峠にはチベット族の露店あり、テ-ブル
      の上には様々なアンモナイトが並べられてあった。

       アンモナイトとは、古生代から中生代にかけて生存した貝によく似た化石動物の総称。
    約4000万年前、インド大陸がユーラシア大陸の下に潜り込むようにぶつかり、海の底にあった
       かってのヒマラヤは押し上げられるように隆起し、現在のヒマラヤ山脈が 形成されたらしい。
       そのためエベレストを含むヒマラヤの山々には、今でも多くの アンモナイトが見られるという。
       約4億年前海底に存在していた生物の証である。ただこの化石は日本に持ち帰ることはできない。


                  5000mを越える峠はここが最後である。 

                                       
タンラ峠(標高5050m)にて

             

                                    古生代から中生代のアンモナイト

                  

         11時、この峠を離れて下りに入り、車はニェラムに向けて走って行く。
        ヒマラヤの雪山さらに遠くなり、ゴロゴロとした石が一面を埋める河原が見えてくる。河原に
        は青麦が植えられた広い畑がつくられ、その中にカラフルな衣装を着たチベット族の女性が動い
        ている。

               磊磊(ライライ)とした河原の中を這うように小さな河が流れ、ヤクや羊の群が、その周りに
       生える藻のような低い草木を食む牧歌的な風景がしばらく続く。

       狭い渓谷に入り高い断崖の道をくねくねと曲がりながら下ってゆくと、やがてニェラム の街に
        到着。時間は12時、タンラ峠から1300m下ってきた。
 1215分レストランで昼食。 

        ここニェラムは標高3750m。1時間の休憩のあと標高2350mのジャンムに向けて出発。

                                             タンラ峠からニェラムへの風景

                    

       しばらく行くと景観は一変し、樹木 が生い茂る 渓谷に入る。
    久しぶりに眼にする緑がみずみずしい。”イヨ-ッ!”と思わず声をかけたくなってしまう。

       この辺りは標高3000m位。日本では森林限界をはるかに超えているが、ここは亜熱帯気候、常緑樹
      の中に落葉樹も混じり日本の深山の風情を感じさせてくれる。対岸の斜面には赤いツツジもチラホラ。
      眼下には激流が、巨石の間を白い飛沫を上げながら下り落ちている。ひたむきに流れ下っている。

                       
3750m   2350
                              ニェラムからジャンムへ                        眼下の渓流   

             

          1335分、霧の中に入り視界悪くなる。 垂直に切り立った大岸壁や周りの木々が ぼんやりと
        浮かび上がる。まるで深山幽谷の山水画を見ているようだ。
         対岸の岸壁には、 赤や白の花をつけた樹木がかすかに見えている。どうやらシャクナゲらしい。
         視界明るくなり、はっきりそれと判るようになる。シャクナゲの大群落だ。岸壁にへばりつく
    ようにシャクナゲの群落が延々と続く。
         下をのぞくと、林の中に紫色のサクラソウが点々。可憐なその姿に心が和む。車は渓谷の道を
    どんどん下って行き1445分、標高2350mのジャンムのホテルに着く。
        今日はオールド.ティンリ-から約230km、標高差2700mを一気に下りてきた。

           部屋に入り、夕食までブランデ-を飲んでくつろぐ。

               18時、夕食のためホテルのレストランに行く。添乗員の今岡さんが”ここは標高2350m、
        そろそろビ-ルぐらいはいいでしょう、どうぞご自由に”と言うと、一瞬酒好きの男たちの顔が
        ほころぶ。
         私はこの旅行中、毎日欠かさずブランデ-を飲んできたが、それによる高山病の影響はなかった。
        今までの旅行よりもむしろ体調は良かった。
それはラサで 3泊、シガツェで2泊して連泊を重ね、
        十分に睡眠と休養をとり、徐々に身体を慣らしてきたためだろう。
        酔いがまわるにつれ、”実は私は…”と思わず口に出かかったが、あやうくくい止めた。
        今眼の前でうまそうにビ-ルを飲んでいる人たちは、今岡さんの注意をよく守り、8日間酒を断っ
        てきたのである。ましてや高山病で苦しみながら、ここまでやってきた人も何人 かいる。
ただ
        K
さん夫婦だけは、うすうす感じていたようである。私の方を見てニヤニヤ笑っている。
Kさんも
        奥さんも大の酒好き、ラサからシガツェまでは飲んでいたようだ。しかし酒のためか食事のため
        か腹をこわしてしまい、34日間は酒を断っていたと聞いている。
しかし今日のKさん夫婦は、
        ビールを飲みながら楽しそうに談笑していた。

                明日はいよいよ中国の国境を越え、ネパ-ルに入る予定。  21時就寝。         

            5月19日

                       2350m   1800m 1350m
                    ジャンムからコダリ~カトマンズへ               

                                            ジャンムの街

                    
        
               845分、ホテル出発。

       925分、国境の街コダリ着。10時、税関にて中国出国手続きをする。
    ス-ツケ-ス をオ-プン、中を入念にチェックされる。出国なのに何故こんな厳しい検査を受け
    なければならないのか…。
        どうも中国当局はチベット情勢に関連する絵画、写真、文書類の国外流失に神経を尖らせている
        ようだ。

               陸さん、任さんとはここでお別れ。二人共ご苦労さまでした、 さようなら。
        
陸さんは59日から、11日間私たちのガイドをしてくれた。大きな事故もなく私たちをネパ-ル
        まで送りだしてくれたことには感謝したい。ただ彼はガイドとしての気配りや礼儀正しさはいま
        ひとつといったところがあり、言葉使いもぶっきらぼうで無骨な男に見えた。それは彼が当局の
        眼を気にするあまり、私たちがそういう印象を受けたのかもしれない...しかしあとで知った
        ことだが、彼は熱心なチベット仏教徒だったのである。

               そういえばいつも彼は大きな数珠を首からぶら下げていた。私はそれは単なる首飾りだろうと
     思っていたが、2年前に自分の葬儀を鳥葬にしてもらう手続きを、ラサの
 セラ寺に申請したと
    いう。
        何が彼をそうさせたのかはよく解らないが、チベット圏に長く住んでいるうち、チベット族の
    生き方に心打たれ、共鳴するようになっていったことは確かだろう。
         私はチベット圏に住む漢族は少数民族ながら実際には政治経済を支配し、幅をきかしているの
        は彼等だと思っていたが、陸さんのような漢族も居ることを知って、改めて彼の人柄を見直す思い
        がした。
  
       
           1035分、中国、ネパ-ル国境にかかる友誼橋を歩いて渡り、ネパ-ル側の税関で簡単な
    審査を受けてネパ-ルに入国。
    2時間15分時計を戻し、ネパ-ル時間に合わす。
 ネパ-ル時間は820分。       
        ネパ-ルに入るとガラリと雰囲気が変わる。中国側の緊張した空気から、何となくなごやかで
    ほっとした気分になる。ポ-タ-たちは英語もペラペラ、ニコニコしながら私たちのス-ツケ-ス
        を取り合うようにして運んでくれる。
        ネパ-ル.ガイドのタパさんがナマステ!”(ようこそ)と胸に手を合わせ出迎えてくれた。
        
タパさんの日本語は滑らか、日本人と変わらないほどだ。日本に5年間住んだことがあるとのこと。
        彼は日本語以外に英語、 中国語、ヒンズ-語、それに母国のネパ-ル語と5ヶ国語が話せるらしい。
 

               ここからは4WD3台に分乗し、カトマンズへ。 ドライバ-も感じが良い。私は後ろの席だった
        が、彼は笑みを浮かべてすばやく席の背もたれを倒し、奥に入りやすいようにしてくれる。
        そうした気配りは、乗るときも降りるときもカトマンズまで変わることはなかった。

          コダリは標高1800m、渓谷沿いの狭い未舗装の道を走って行く。車大きく左右に揺れる。
              昨日見られたシャクナゲやサクラソウはいつのまにか消え、代わりにバナナ、クルミ、ハンノキ、
     アカメガシワなどが眼につくようになり、亜熱帯に入って来ていることを
 改めて感じる。

              対岸に時々滝が見られるようになり、見上げるような高い岸壁から一本の帯のように流れ落ちて
        いる景観は素晴らしい。―10時、渓谷にかけられた吊り橋のところで写真ストップ。

         吊り橋は高さ160m、長さ300m位。歩くとユラユラと揺れ動く。下をのぞくと、白いしぶきを
    飛ばしながら奔り下っている激流が見える。足元がすくむ。対岸に渡り、しばらく休憩。

                                           渓谷の滝と吊り橋

                   
 
     再び車に乗りしばらくすると渓谷大きく広がり、山の斜面に民家が点在するようになる。
    カトマンズの街は近い。

          1240分、ドリケルの丘に立つホテルのレストランにて昼食。ここは標高1524m、カトマンズ
     盆地にいくつかあるヒマラヤのビュ-ポイントの一つ。天気が良ければランタンリルン、
     ガネッシュ、そして遠くエベレストも見えるはずだが、ヒマラヤの山々は春霞のような雲のなか
        に隠れていた。この時季、ネパ-ルからヒマラヤの山を望むのは難しい。ベストシ-ズンは雨季
        が明ける10月から3月まで。


               14時昼食を終え、ここから約32km先のカトマンズに向かう。市内に入ると、生活改善を
    訴えるデモにぶつかり街は大混雑、2時間近くかかり1550分、カトマンズのホテルに到着。
        部屋でゆっくり休養する。

         今回の旅行もそろそろ終りに近づいてきた。明日カトマンズを観光し、夜にはカトマンズ を立ち、
        中国の広州経由で帰国する予定。

          思えば58日成田を飛び立ち、中国西寧からはチベット鉄道で、ラサからはバスでチベット高原
       を走り抜け、エベレスト.ベ-スキャンプにも立ち寄り、ヒマラヤの北側からその一角を越えて、
    519日ヒマラヤの南側に入ってきた。気候的には北側は沙漠のような乾燥地帯、南側は樹木が
        生い茂る亜熱帯気候という印象をもった。冒頭で触れたようにヒマラヤの高い峰々が、北と南を
        まったく違った風景にさせているのである。


                 地形的にも随分違っている。

       ヒマラヤの北側に当るチベット高原は、比較的なだらかな地形のためその中に長大な道がつく
        られ、私たちは車でエベレストの麓まで行くことが出来たが、南側のネパ-ルは地形 険しく、
     ネパ-ル側のエベレスト.ベ-スキャンプ(標高5364m)に行くには、エベレスト街道の出発点
     であるルクラ(標高2804m)から、ドォ-ド.コシ、イムジャ.コ-ラ河が
 流れる渓谷沿いに
        
10日間以上のトレッキングが必要かと思われる。もちろん車が通れるような道ではない。
    ただこれはルクラから真っすぐにベ-スキャンプに向かった場合のトレッキング期間で、通常は
    途中の6000m級の山で高度順化のための トレ-ニングが行われており、実際にベ-スキャンプ
    に入るのはルクラから2週間から3週間後になる場合が多い。

         
          例えば今年5月25日にエベレスト登頂を果たしたNHK取材班は、3月30日ルクラを出発し、
        エベレスト街道の途中にある標高6119mのロブジェ東峰で、高度順化のためのトレ-ニングを
    行っていたため、ベ-スキャンプに入ったのは21日後の4月19日である。
ネパ-ル側の
    ベ-スキャンプからでもエベレストの全景を見ることはできないだろうと想像される。それは
     険しい前山が立ちはだかり、視野をさえぎっていると考え られるからだ。

      エベレスト街道の一般ル-トで絶好のビュ-ポイントとされるカラパタ-ル(標高5545m)から
        でも、写真で見るかぎりヌプツェ(標高7855m)の向うにエベレストが見えているが、それも
     全体の4分の1程度である。エベルストの全景を、しかも間近に見られるところ は、チベット側
     のベ-スキャンプしかないだろうと思っている。
                                        

                            ネパ-ル側から見たエベレスト(左)右はヌプチェ(7855m)
                                           カラパタ-ルより

                               
   
       チベットとネパ-ルとでは植物の様相もまったく違っている。私が20043月に参加した
      エベレスト街道のトレッキングでは、標高4000m付近でもヒマラヤ.マツと 思われる針葉樹の
     群落が見られたが、今回通ってきた同じ高さのチベット高原では、河原や人家の周辺に植えられ
    たと思われる乾燥に強いポプラやヤナギ、ニレなどが眼に ついたぐらいで、それ以外の樹木は
    まったく見られず、低い草木だけが果てしなく高原を埋め尽くしていた。
それは、チベット側の
    北とネパ-ル側の南の雨量の差が一番大きな要因だと考えられる。

      私は今回の旅行で、漠然とではあるがチベット高原からヒマラヤ越えの風景を頭で描くことが
     できるようになった。そして地球の自然がおりなす営みや不思議さを、何となく身体で感じた
      ような気がしている。

             520       カトマンズ市内観光。

                         ダルバ-ル広場             シバ神の化身と言われる像 

                      

      1045分ホテルを出発、ダルバ-ル広場に向かう。ダルバ-ルは宮廷の意味。15世紀の王朝時代
     に建てられた赤レンガ色の寺院や、王宮が立ち並ぶ広場をゆっくりと散策する。
       広場を行き交う人たちの表情もなんとなく明るい。物売りの子供が人なつっこい笑顔で話しかけ
        てくる。どこで覚えたか日本語が出来る。私につきまとってなかなか離れようとしない。かなり
    シツコイ、しかしあまり邪慳にはしたくない。欲しくはなかったが、クルクルと形のかわる金属
     製の輪を一つ買ってやった。値段は3ドル。年齢を聞くと12歳、なかなか利発そうな子であった。


         こうした物売りの子供を極端に嫌う人もいるが、私は 適当に付き合ってやるようにしている。
        たとえカタコトでも彼らと言葉をかわすことにより、何となく明るい気分になるからだ。異国に
     あって無邪気な子供たちに出会うと、つい声をかけたくなってしまう。もちろん言葉は通じない
     ので、その国のやさしい単語と日本語を混ぜての軽い戯れではあるが...。
もっとも国によっては、
    スキをみてバッグをひったくって逃げて行くとんでも ない子供もいるようだが、ネパ-ルでは
    そうした話は聞いたことがない。カトマンズに来るのは4回目。どこか懐かしい、何となくホット
    した気分になる。

    クマリ館に立ち寄る。ここは女神クマリの化身として崇拝される少女が住む。いわゆるヒンズ-教
     の活仏である。少女は家柄正しい5歳ぐらいの幼女たちの中から選ばれ、初潮が始まる13歳頃には
    交代する。ガイドのタパさんが大声で呼びかけると、しばらくしてきらびやかな衣装を着て帽子を
    かぶり、眼を大きくふちどった少女が二階の窓から顔を出してくれた。笑顔はなく、つまらなそう
    な表情である。少女は、私が7年前にここで見た少女とは既に代わっている。わずか30秒位だった、
    が、7年前よりは長く顔を見せてくれたような気がした。

      ダルバ-ル広場の観光を終え、日本食レストランで昼食をとる。

     レストランの名は ”田村”、日本のしっとりとした小料理屋といった風情がある。以前は日本人
    が経営者
 だったが今はネパ-ル人に代わっていると聞いた。
     私は7年前の20043月ネパ-ルに入り、エベレスト街道トレッキングを終えた最終日、無性に
     日本の味が恋しくなり、ガイドブックを手にして道行く人たちに道順を聞きながら、一人でこの
     店を訪ねて来たことがある。その時は、焼魚とさつま揚げを肴にビ-ルと日本酒を飲んだ。 
     客は私一人、静かな雰囲気の中でゆっくりとくつろいだことを覚えている。 この日も日本酒を
     飲んだ。吟醸酒のなかなか旨い酒であった。

        午後は仏教寺院ソワヤンブナ-ト、ボダナ-ト、ヒンズ-教寺院パシュティナ-トを見学 。

                         スワヤンブナ-ト寺院                ボダナ-ト寺院

             

         18時、夕食を終え、カトマンズ空港に行く。

       520日~521カトマンズから中国広州経由、成田へ

        23時、カトマンズ空港から中国南方航空CZ3068にて中国広州に行き、CZ385に乗り継いで521
    15
20分、定刻より30分遅れで成田空港に着く。
 ス-ツケ-スを受け取り、メンバ-の人たちに
    軽く会釈して千葉行の電車に乗った。

                      トンネルを抜けると、里山の風景が現れてくる。

                            新緑の季節、万物の生命が華やかに躍動する時だ。

                  辺りに広がる田園の緑が眼にしみる。

                             ”やはり日本の風景は美しい”

                             私はそんな思いを抱きながら、車窓に流れる風景を

                            いつまでも見つづけていた。

                                        -了-

        チベット.ヒマラヤ紀行を終えて

     1昨年5月に訪れたこのコ-スは標高4000mから5000mの峠をいくつか越えて行かねば ならず、
     そのためツア-メンバ-の何人かの人たちは高山病に苦しみ、頭痛と吐き気の 症状がひどくなっ
     て旅の途中で帰国せざるをえなくなった人もいましたが、幸い私はそうした影響をさほど受けず、
     近年の私の旅の中では最も感動的な旅になりました。


       あれから既に2年近くが経とうとしていますが、今でも雪を戴いたヒマラヤの白き荘厳な峰々が
    頭をかすめるときがあります。そしてヒマラヤには神々が棲んでいると信じ、その 山麓に暮らす
    チベット族の人たちの素朴な表情を思い浮かべることもあります。


       彼らにとってヒマラヤはまさに聖なる山なのです。

        私は1996年からシルクロ-ドやアジアの辺境地帯に出かけるようになりましたが、
    それはそこに広がる壮大な山の景観に惹かれ、またその周辺に暮らす少数民族の、私たち日本人
    には信じられないような風俗と生活習慣が、異国の文化として私の未知への空想と好奇心をあおる
    からです。そして、貧しいながらも人と人との温かい結びつきが感じられる彼らの暮らしぶりが、
    心安らぐ風景として映るからでもあります。
    それは私たちの世代が幼少期から少年期にかけて食べ物が極端に不足していた時代に経験した、
    貧しいが
、 隣近所で助けあった当時の郷愁に重ね合わせているのかもしれません。

      今までの私の旅は単独行動が制限されたツア-であり、彼らの生活習慣や表情を通りすがりに
    見ただけにすぎませんが、それでも世界には様々な民族がそれぞれ独自の歴史と文化をもち
    厳しい自然環境の中でも知恵を出し合い工夫しながら、それに適応した暮らし方をしている
    ことを知るようになりました。

     かなりの長文になりましたが、この稿を最後まで読んでくださった方々に、厚くお礼申し上げます。

                                                                                                2013年  3月

                                                千葉市 斎藤泰三

                            私のアジア紀行  http://www.taichan.info/