エ ベ レ ス ト 街 道 ト レ ッ キ ング ル ク ラ ~ ク ム ジ ュ ン 2004.3.16~ 3.22 左 エベレスト 8848m、 右 ロ-ツェ 8516m シャンボチェの丘から 2004.3.20 3月16日、カトマンズ~ルクラ~パクディン 2004年3月16日早朝、カトマンズ空港は深い霧に包まれていたが、空が明るくなり山の稜線が 見え始めた9時過ぎ、ようやく搭乗アナウンスがあり、1時間30分遅れの9時50分、私たちはルクラ 行きの小型飛行機に乗りこんだ。 機は動き始めスピ-ドを早めたと思う間もなく、地面を離れ、空に舞い上がった。 しばらく赤レンガの建物が密集したカトマンズ上空を飛んでいたが、東に向きを変え低い山岳地帯 の上に出る。 山はまばらに木々が 生え、時折棚田のようになった耕地も見える。山肌は赤色、しかしそれも 次第に緑の針葉樹に覆われるようになる。高度を上げるにつれて、波のようになった無数の山々が 近づいてくる。機は高い山に近づく と、その斜面を這い上がるように上って行く。それを越えると 新しい山が現れ、機はまたそれに向かって上って行く。いつのまにか機は山と山の間を飛んでいた。 眼下に渓流が見える。 まもなく厚い雲の中に入り、視界まったくきかなくなる。しばらくすると突然雲が切れ、瞬間アッ と驚くような景観が眼に飛び込んできた。それは雲海に浮かぶ白いヒマラヤの峰々だった。 前方遠くランタン.リルン、シシャパンマ、ガウリ.サンカ-ルなどヒマラヤを代表する山塊群が 見えてきたのである。鋭い山顚を空に突きあげた白い雪山は、横一直線にどこまでも広がりを見せ ていた。 エベレストはどこにあるのか探してみたが、よく判らなかった。しかし私は窓に顔をくっつける ようにして、いつまでもその景観に見とれていた。”ああ~これが地球の屋根なのだ!”そんな思い だった。 やがて機は下降し始め再び雲の中に入ったが、まもなく雲が切れると前方に大きな高原が見えて きた。 その一角に白い帯のようなものが置かれている。ルクラの滑走路と思われる。機は機首を下げ、 真っすぐに白い帯の中に入っていった。そこは滑走路といっても高原の中に置かれた1本の道の ようなところで上方に向かってかなりの傾斜がついており、その傾斜地の最後が飛行場の降り場に なっていた。 眼の前にはロッジや民家が立ち並び、私たちはその前の道路に降り立った。まるでバスの停留場の ようなところである。 ルクラの村を行くトレッカ- 2004.3.16 ルクラ ロッジ前にて 時計を見ると10時50分、50分でルクラに着いたことになる。一昔前までは、カトマンズから 1週間以上かけてルクラまで歩いてやって来るトレッカ-もいたらしいが、今はほとんど小型飛行機 を利用している。 ロッジ前では数名のシェルパやポ-タ-たちが出迎えてくれていた。彼らにやや大きめのバッグを 預け、私たちはロッジでしばらく休憩する。 お茶を飲みながら、ガイドのスカンナャさんからトレッキング中の注意点を聞く。 「これから2泊3日の予定でシャンポチェを目指します。ルクラは標高2830m、シャンポチェの ホテルは標高3970m、その高度差は約1100mあります。個人差はありますが、高山病にかかる人も 出てくるかもしれません。一番大事なことは水を多くとることです。1日3リットルは飲んでくだ さい。と言っても3リットルの水を持ち運ぶのは大変ですから、途中のロッジでお茶をたくさんとる ようにすればよいでしょう。次に自分のペ-スでゆっくり歩くこと。遅れたから先の人に追いつこう として、急に足を速めたりしないでください。私が先導しますが、私より先には絶対出ないように、 最後尾には添乗員の土屋さんがつきます。そしてトレッキング中の酒は禁止します。酒を飲むと高山 病にかかりやすくなりますので、これだけは厳守願います。」 ガイドの話をまとめると大体以上の通りだが、最後の言葉に少しひっかかってしまった。実は バッグの中にウイスキ-をこっそり忍ばせてきたのである。 彼の話を聞き終わった時、飛行機の爆音を聞いた。また新しいトレッカ-を運んできたのだろう。 11時35分、いよいよシャンポチェに向けて出発。このル-トはエベレスト街道と呼ばれている ところ。 ネパ-ル側からエベレストに向かうことのできる唯一の道である。 エベレスト街道トレッキングマップ(イメ-ジ) (ルクラは一番下の左) メンバ-はツァ-参加者、男性8人と女性3人の11名、シェルパはコックを含み6人、ポ-タ-2人、 それにガイドと添乗員の土屋さん、総勢21名。荷物はすべてゾッキョの背中に乗せて運んでもらう。 ゾッキョはヤクと牛の雑種のことである。動きは遅いがヤクより温和で、同じように強い力を持って いるという。 シェルパ頭はマンバドウ.バハドウ.タマンさん、30代後半ぐらいか。しかしこの名前、簡単には 覚えられそうにない。略してエムビさんと呼ぶか、シェルパ頭のことをサ-ダ-と呼んでいるので、 それに従うことにした。 隊のシェルパはこのサ-ダ-の指示に従わねばならない。シェルパたちはキャラバン中、その行動 や日当にいたるまで、すべてサ-ダ-の命令下に置かれる。このサ-ダ-の資格を取るのはなかなか 難しいらしい。人間もできていなければなならいし、何より長年に亘る経験が求められるという。 シェルパはコックを兼任しているイツァ.タマンさんを除いてはみな10代から20代前後、ミニ. シェルパである。本格的なシェルパはこの時期、エベレストや高山に出払ってしまっている。私たち のようなトレッカ-にはミニ.シェルパで十分である。 ポ-タ-二人はゾッキョを連れて先発して行った。私たちはルクラの村をゆっくりと歩き始める。 大きな荷物を背中に背負った村人、外国人トレッカ-、シェルパ、ポ-タ-、ゾッキョなどの隊列で、 道はかなり混雑している。足早の人たちに出会うと、道脇に寄って道を譲ることもある。時間は十分 にある、ゆっくり歩こう。村の家々はみな石でつくられている。屋根だけはトタンのようなもので 葺いてあるが、あとは石垣で囲ったような家のつくりである。 村の通りに大きなチョルテンとマニ石が置かれてあった。これはチベット族の魔除けらしい。村に 悪魔が入らないように、そして旅行く人たちへの安全を祈るものだという。マニ石には、チベット語 で経文が一文字ずつ丹念に彫り込められてあった。 チョルテンとマニ石 2004.3.16 山道を歩いて行くゾッキョ ルクラの村の出口に女性の胸像が建てられていた。名前はパサン.ラム.シェルパ。 1993年4月22日ネパ-ル人女性として初めてエベレストに登頂したが、下山中死亡したシェルパ だという。彼女にはその功績が称えられ、2002年ネパ-ル政府から国民栄誉賞が贈られている。 シェルパは一般に山岳ガイドの代名詞のようにその名が呼ばれているが、正しくはこのヒマラヤ山系 に住むチベット系の種族のことである。 道は山裾に沿って走っている。小石のゴロゴロした道である。しばらく行くと左下に段々畑が見え てきた。その中に農家が点々と散らばっている。チャムリカルカという村らしい。道脇にサクラ草の 群落、可憐なな姿に心和む。 女性シェルパとして初めてエベレストに登頂したパサン.ラムさんの像の前で 2004.3.16 シェルパたちはそれぞれ適当な間隔をおいて、私たちの中に入っている。これもサ-ダ-の指示 なのだろう。一番年の若いパサン.ゲル君は、Mさんにピタッと寄り添って歩いている。Mさんの カメラ機材を持っているためだ。シェルパに荷物を頼むことは出来るが、別に費用がかかる。彼らは 全額ではないが、その何割かを日当代としてもらえる。そのためかどうか、パサン君は嬉しそうで ある。ニコニコしながら歩いている。 パサン君に聞いてみた。”君の住んでいるところはどこ、家は近いの?” 彼は「ルクラから歩いて3日ぐらい」と、いとも簡単に答えてくれた。私はビックリした。 ”3日も歩いてきたの、どこに泊まったの?” 「ハイ、ルクラまで歩いて来ました。途中野宿することもあるけど、親戚の家もあるので」 --- 。 よく考えてみれば、それは当たり前のことなのかもしれない、彼らにとってフツゥ-のことなのかも しれない。ヒマラヤ山地に住んでいるかぎり、頼りになるのは自分の力だけである。。たまにヤクや ゾッキョ、ロバの力を借りることは出来るが、車などはまったく役にたたない、そんなものが通れる 道などありはしないのだから --- 。 私は前年の2003年1月、ネパ-ルの西に位置するアンナプルナ山麓をハイキングしたことがある が、その時やってきた少年シェルパたちは、この辺りのヒマラヤ山地から、ポカラの先まで歩いて 来た、と聞いて驚いてしまった。なんとその距離は500km位、それを半月かけて歩いて来たという のだ。その時も少年シェルパに聞いてみた。 ”どうして車を使わないの?” 、少年シェルパはニコニコしながら、 「そんなことは出来ません、私たちが歩いて来た道のほとんどは山道です。車など通れる道は少ない のです。車はお金もかかるし、何よりもサ-ダ-が許してくれません。歩くことはシェルパとして 訓練にもなるのです」。 私はその言葉に納得せざるをえなかった。それにしても500kmも歩いて来たとは --- 、彼らの健脚 ぶりに感心するほかなかった。 道は上ったり下ったり、何回もくりかえしている。大小の石がゴロゴロして歩きにくいが、さほど 難しい道ではない。まだハイキング気分だ。 やがて道は尾根近いところを巻き始めた。いつか下は渓谷になっている。渓谷を隔てて対岸は山に なっていて、その山の中腹に小さい集落が見えている。左下を流れているのはドゥ-ド.コシ川、 白いしぶきを飛ばしながら、大小の石の間を奔騰している。そろそろヒマラヤの山懐に入って来た のだ、という雰囲気を感じる。広い河岸に出たところで小休憩。 タバコに火をつけ、一服しながら辺りを眺めてみる。空は曇っていてまだ遠くの雪山は見えない。 渓谷の両岸は深いマツの木で覆われ、谷底に青いドォ-ドコシの流れがある。この川は上流に ボ-テコシ、イムジャ.コ-ラ二つの川を併せて流れて来ている。そして、さらに東のヒマラヤから 流れ下るアルン川と合流、いずれはガンジス川に呑み込まれベンガル湾に注いで行く。ガンジス川 源流の一つなのである。 10分後再び歩きはじめる。相変わらず山道を上ったり下ったり、平地はほとんどない。 しばらく行くと、前方の山中腹に民家が見えてきた。その前でこちらに大きく手を振っている青年が いる。近づいてみると、何とシェルパのスレジュ.コナル君だった。彼は私たちと一緒にルクラを 出発したはずなのに、いつのまにか先に着いていたのである。時計を見ると13時45分。ルクラから 2時間10分かかっている。民家に見えたのはタドコシという村のロッジだった。ここで昼食。 タドコシのロッジ 2004.3.16 山道を行くゾッキョのキャラバン 私はヤレヤレようやく昼食にありつけると思ったが、そうではなかった。昼食の準備は何もされて いなかったのである。コックのイツァ.タマンさんが、ザックから庖丁を取り出し、じゃがいもの 皮をむき始めるのを見て、はじめて昼食はこれから準備することを知ったのである。私はここは ヒマラヤの山中、やむをえないだろう、そう自分に言い聞かせた。 昼食がようやくできたのは1時間後、出されたのは、カレ-風味のじゃがいも、人参、高菜を混ぜ 合わせた煮物、ガ-リックス-プ、それにチベットパン。腹も空いていたこともあったが、なかなか 美味しかった。 15時20分、タドコシ出発。しばらくやや平坦な道をのんびり歩いていると、後ろからすごい スピ-ドでやってくるパ-ティ-に出会う。私たちは道脇に寄ってやり過ごす。メンバ-は20人位、 全員黒色に赤、黄の線の入ったトレ-ニングウエア-に身を包み、大きなザックを背負って歩いて いる。私はカタコトの英語で彼らに声をかけてみた。 ”貴方たちはどちらから来られましたか?”と尋ねると、「コ-リィア」、そして”どちらの山へ?” と聞くまでもなく、エベレスト!と、誇らしげな答えが返ってきた。私はサンキュ-!と言って、 しばらく彼らのうしろ姿を見送っていた。あの韓国人のパ-ティ-の中で、エベレスト頂上に アタックできるのは何人だろう、おそらく大半はル-ト工作、ル-ト上のキャンプの 設置、キャンプ への荷運び、またベ-スキャンプでの炊事、通信、その他の雑務に追われる人たちにちがいない、 登頂の準備にⅠヵ月以上はかかる、アタック出来るのは早くて4月末、順当にいって5月になるだろう --- 、そんなことを考えながら --- 。 それにしてもこの道は、やはりエベレストへの道なのだ!、ということを改めて感じる情景だった。 彼らをやり過ごししばらく行くと、右遠く山顚に雪を戴いた山が見えてきた。標高5579m、この エベレスト街道の南に聳えるクスム.カングル西峰らしい。下りにかかるとその山も見えなくなり、 まもなくガット村にさしかかる。この村をぬけたところに、大きなマニ石、マニ車が置かれてあった。 やはりチベット語で大きな文字が彫り込められている。私たちはその右側を通って行く。左側を歩く と災難があるらしい。 16時30分、今日の宿泊所、パクディン.ロッジに着く。ここは標高2650m、ルクラより170m 低いところにある。一瞬、上ったり下ったり随分歩いてきたが、結果的には下って来たのだ、と 思った。しかしここを通過しないと目的地には行かれないのだ、と思いなおすことにした。 このロッジの主人は、シェルパとして山に出かけていた。迎えてくれたのは奥さんと娘さん、なか なか気さくな人である。彼女たちを交え、食堂でお茶を飲みながら雑談する。Kさんが切り出した。 「来年僕一人でカラパタ-ルに行きたいと思っているけど、どうしたらいいのだろう、手続きなど 判る 人は?」聞いていたガイドのスカンニャさん、何やら奥さんに訪ねると、彼女パア~と明るい 顔で胸を叩いている。どうやら娘にガイドさせたら、ということらしい。娘もお母さんの言葉で ニコニコしている。 娘は背丈170cm位、身体はガッシリ、堂々たる体格である。全身日焼けしているが、なかなかの 美人。そして、Kさんの荷物はすべて私が担いであげる、とも言っているようだ。さすがシェルパ の娘、頼もしいかぎりである。 ヒマラヤでのトレッキングは単独ではできない、必ずガイドが必要だという。カラ.パタ-ルは 標高5545m、エベレスト.ベ-スキャンプが5350mだから、それよりも高いところにある。 ネパ-ル側からエベレストを眺めるには最高のところらしいが、一番心配されるのは高山病だろう。 しかもルクラから歩いて、健脚の人でも往復2週間以上ははかかると思われる。高山病のことを考え れば、もっとゆっくりとした日程が必要かもしれない。 Kさんは、新潟県の新発田出身、飯豊連峰や朝日連峰によく出かけている山のベテランらしい。 見るからに山男らしい風貌をしている。彼なら、体力は十分だろう、と思った。 このロッジの宿泊客は私たちだけ、本来は相部屋なのだが部屋に余裕あり、私はクジ引きで一人 部屋に当った。夕食後部屋でウイスキ-を2~3杯あおって眠りに就く。 3月17日、パクディン~モンジョ~ナムチェバザ-ル 8時、パクディンのロッジ出発。快晴。ロッジ裏からクスム.カングル峰の頭ががクッキリ見えて いる。青空に高く突き上げた白い陵角が美しい。村の民家の前でシェルパ族の子供に出会う。通り 過ぎて行く私たちをじっと見つめていた。バイバイ --- 。 クスム.カングル西峰 5579m 2004.3.17 シェルパ族の子供 村をぬけるとのどかな丘陵地帯に入る。山の斜面にはマツやモミのような針葉樹が生い茂る。 時々農家が点在する集落を過ぎる。シャクナゲが眼につきはじめた。農家の前、河岸、丘の上に やたらに生えている。岩にへばりついて咲いているのもあった。葉身は長楕円形で葉先が鋭くとがり、 花びらは赤色と、赤白混ざったものがあり、日本のシャクナゲよりかなり大きい。周りの緑と赤い 大地に映えて美しい。一緒に歩いていたパサン君が「ラリ-グラス!}と大きな 声で教えてくれた。 シャクナゲはネパ-ルの国花だという。 シャクナゲ 2004.3.17 上り道にさしかかる。岩山の道を巻きながら上って行く。上りきるとまた下りになる。前方に吊り 橋が見えてきた。眼下はドゥ-トコシ川、太陽の光で青く照り映えながら流れている。吊り橋は太い 針金を編んでつくられており、その上を歩くとゆらゆらと揺れる。一人ずつ、一列に並んで渡って ゆかねばならない。かなり長い橋である。 ドゥ-トコシ河 2004.3.17 山道を登ってゆくトレッカ- 吊り橋を渡るトレッカ- 吊り橋を渡りドゥ-トコシを見下ろす山の肩に出ると、正面に高い山が見えてきた。山頂から 山腹にかけて白い氷河が流れている。パサン君が私のそばにやってきて、 「ク-ンビラ!」と大きな声で教えてくれた。いかにもこれがヒマラヤの山なんだ、と言いたげで ある。”高さは?”と聞くと 「5761m!」、手の指で示しながら正確に教えてくれた。言い終わるとまたMさんのところに走り 寄っていった。まるで主人に仕える忠僕のように --- 。この山もヒマラヤの中で高い方とは言えない が、ヒマラヤの青い空に浮かび上がっている三角形の山容は、富士山を彷彿させてくれるようで 美しい。 ク-ンビラ 5761m 2004.3.17 すでにトレッキングを終えて山から下りて来る人も多勢いる。アジア系の人が多いが、ヨ-ロッパ系 の人にもかなり行き交う。それに、シェルパ、ポ-タ-、ゾッキョなどにも頻繁に出会う。前方から やってきた日本人らしき3人の青年に声をかけてみた。 ”どちらの山からですか?” [カラパタ-ルからです。」3人の中の一人が答えてくれた。やはり日本人だった。 ”ヘェ~、カラパタ-ル!、スゴイですね。 エベレストは見えましたか?」 「見えました、素晴らしい景色でした。しかし疲れました、ホントに疲れました。空気が薄くて ねえ~、何とか頂上まで登ることは出来ましたが、非常に苦しかったです。」 ”いや~それは大変でしたね、で、今日は山から何日目ですか?” 「5日目です、もっと余裕をもって計画を立てればよかったのですが、なにしろ休暇を取って来て いますので」。 ”でも良かったですね。ありがとうございます、道中お気をつけて”。 カラパタ-ルからの風景は写真でしか見たことがない。一番手前にヌプツェ、その左向うに エベレストが聳えている。その左にチャンツェ、ク-ンツェ、その右にロ-ツェなどヒマラヤを 代表する高峰が並び立つ。まさにそこは氷の世界、無数の氷河が流れ落ちる景観は圧巻だろう。 一度行ってみたいとは思うが、自分の力では諦めるしかない。 下の写真はネパ-ルから買ってきたもので、パソコンの前の壁に貼り付け、いつも眺めている。 左 エベレスト8848m、右 ヌプツェ 7855m、 カラパタ-ルより 9時20分、ベンカ-ル村に着く。ここでティ-タイム、しばらく休憩。添乗員の土屋さん、お茶を お替りするように勧めてくれる。高山病を防ぐには水分をたくさん採ることが必要なのだ。何かと 気をつかってくれる。彼女はいつも最後尾についている。一番足の遅い人に合わせてくれているので ある。 彼女は幼い頃から山好きの叔父について、日本の山に親しんできたという。山が大好きで、今でも暇 さえあれば山歩きを楽しんでいると聞いている。足の遅い人に合わすには、山歩きに相当の力がない と出来ないにちがいない。リ-ダ-として先導しても、彼女なら出来るだろう、 山男ならず、山女 なのだ--- と思った。 席を立つ時、”ソロソロ行きましょう”と大きな声を出すと、シェルパたちが笑顔を見せながら 一斉に私の方を振り向いた。一瞬通じたのかな、と思った。何か一つ日本語を覚えて欲しかったので ある。 しばらく歩いて行くと、再びク-ンビラが見えてきた。その山麓に明日私たちが泊まる、パノラマ. ホテルがあるらしい。吊り橋を渡り、道はドゥ-ドコシの右岸に沿う。左下から渓流の音が高く聞こ えている。渓流には大きな石がゴロゴロしており、その間を激しい流れが白いしぶきを飛ばしながら 下り落ちている。 村人に出会うと両手を胸に会わせ、「ナマステ」と挨拶してくれる。こちらもそれに応じる。 ナマステはインド、ネパ-ルで使われる挨拶語で、日本の「こんにちは」と同じ意味。朝でも昼でも 夕方でも「ナマステ」でよい。 10時30分、モンジョに着く。山の斜面から下にかけて、かなりの民家が立ち並んでいる。ここの ロッジで早めの昼食。 モンジョは標高2840m、ルクラとほぼ同じ高さである。目的地まで距離的には2/3来ているが、これ からが本格的な登山になる。シャンポチェまで、まだ1100m登らなければならない。 昼食を含め1時間半の大休止のあと、12時モンジョ出発。 ザックを背負い、”ソロソロ”と私が言いかけると、誰かの「ユ、キ、マ、ショウ!」という声が 聞こえた。実にタイミングがよい、見ると声主はパサン君だった。ベンカ-ルでの休憩時、教えた 日本語を覚えてくれていたのだ。なかなか面白い少年である。 モンジョの村を出るとすぐにジョサル村への吊り橋にかかり、渡るとサガルマ-タ-国立公園の 入り口になっていた。ここで入園手続きを行う。エベレストは英語だが、ネパ-ルではサガルマ-タ- と呼ぶ。チベットではチョモランマである。この公園は1243㎢の広さがあり、1979年ユネスコ世界 自然遺産に指定されている。 サガルマ-タ-公園入口 2004.3.17 公園の手続きを終え、ジョサル村をぬけると、また吊り橋にかかる。今度はドゥ-トコシの左岸に 出る。しばらく行くと、またまた吊り橋が見えてきた。遠くから見ても非常に高い。この吊り橋は エベレストの最初の登攀者のヒラリ-がつくったもので、ヒラリ-ブリッジと呼ばれている。この 手前の河原でしばし休憩。 石の上に腰かけ、辺りを眺めてみた。吊り橋の両岸は大岸壁が切り立ち、その下のドゥ-トコシの 激しい流れがゴ-ゴ-と辺りの静けさを破るかのように高い音響を轟かせ、周囲の山塊に谺していた。 まさにここは、ヒマラヤの山中にある大渓谷である。 ヒラリ-.ブリッジの架かる渓谷 2004.3.17 13時15分、河原での休憩を終わり、この吊り橋を渡って再び右岸に出る。ここからは急坂になる。 ナムチェバザ-ルまでの高度差は約600m、今までのようにはゆかない。気をひきしめる。道は川筋 に沿って折れ曲がって行くが、間もなく、二本の川が激しい勢いでぶっかり合っている合流点に出た。 上から写真を撮る。真っすぐに川筋を見せている方がドゥ-ドコシ、その横腹に直角にぶっかって いる方がボ-テコシである。両岸を大岩石で囲まれた二つの川は青く澄み、白い泡立を見せながら 迸り流れていた。 ドゥ-トコシ(左)とボ-テコシ(右)の合流点 2004.3.17 眼下にあったドゥ-トコシ、ボ-テコシの合流点も遠く離れていった。道は急坂を巻き始めている。 一歩一歩ゆっくりと登って行く。ストックを使い、時には空いた手で石をつかみながらよじ登って 行く。道がゆるやかになるとホットする。そうした時は立ち止まって一息入れる。そしてまた歩き はじめる。ひたすらに歩く。ガムシャラに歩いて行く。もう景色を見る余裕はなくなってきている。 ましてやカメラを構える気もない。早くナムチェに着きたい、そして楽になりたい、ただそれだけで 足を運んでいる。 いつのまにか私は一人になっていた。皆に遅れているのではない、前方に居るのは二人だけ、 Kさんと、Eさんだ。あとは皆後方にいるはず。先程から前方にいる二人に追いつこうとしているが、 なかなか縮まらない。その差は50m位ある。新発田出身のKさんは山男、足の速いのはわかる、 しかし山形出身のEさんは70歳で私より7歳先輩、毎日歩いていたとは聞いていたが、その健脚ぶり には舌を巻く。そのEさん、山男のKさんにピタッとくっついて一緒に歩いている。なんとか追い つきたい、自分では足を速めているつもりだが、その差が縮まるどころか、いつの間にか二人の姿は 私の視野から消えていた。 キツイ急坂を上りつめると、道は尾根に出た。左手にボ-テコシの大渓谷が見え始める。 ナムチェも近いはずだ。気をとりなおし更に上を目指す。やがて遠く木々の間から集落が見えてきた。 一瞬ナムチェバザ- ルだ!、と思った。やっと来たかという思いだった。さらに上部に出ると ナムチェの形がはっきりしてきた。 ナムチェバザ-ルは、ボ-テコシの渓谷に落ち込んでいる、山の頂に近いところにある集落であった。 その落は大きく抉られている大斜面に、身を寄せ合うように一つのかたまりとなって建ち並んでいた。 上から見ると、折からの明るい陽光に照らされた、赤、青、緑の家々の屋根が美しい。 ナムチェ.バザ-ルの風景 2004.3.17 尾根から下って行くと、間もなく集落への道に入っていった。道行く村人に出会うようになるが、 そのほとんどは女性ばかり、男はみな山岳ガイドとして山に出払っていて、村には居ないのかも しれない。 ここは別名シェルパの里、強いシェルパの出るところとして知られている。またヒマラヤ登山の 拠点で、エベレスト街道では最大の集落である。古い統計では人口は1700人位と書かれている。 300戸位の家があるのだろう。 ここにも村の端に大きなチョルテンとマニ石が置かれてあった。この厳しい自然の中で暮らす村人 にとって、このチョルテンやマニ石は心の大きな支えになっているにちがいない。言いかえればこの 塔は、村人の気持を一心に受け止めている象徴なのであろう。 ナムチェバザ-ルのチョルテン 洗濯するナムチェの人たち 路傍の石に座って休んでいると、 「ああ~疲れた、くたびれた」と言いながらTさんがやって来た。顔を見るとそれほどでもなさそう だ。元気そうである。そのうち次から次にメンバ-の人たちが下りてきた。全員揃ったのが、 15時45分、ドゥ-ドコシ吊り橋から2時間30分かかっている。その後30分歩いて16時15分、ロッジ に着く。 ロッジで雑談していると土屋さんがパルスメ-タ-を持ってきた。血中酸素濃度を測るものである。 ここは標高3450m、多少頭が重たい。指を入れてみると、90をいったりきたりしている。 結果的には88と判定された。平地を100とすると、12%血中酸素が落ちているということになる。 しかしこの高さでは良好である。メンバ-の中では一番良いほうだった。夕食後部屋でウイスキ-を 1~2杯飲んでみたが、どういうわけかあまり旨くなかった。やはり多少高山の影響と、疲れもあった のかもしれない。 3月18日、ナムチェバザ-ル~シャンボチェ 今日は宿泊地としては最終地点のシャンボチェを目指す。距離は短いが標高差は約500mある。 かなりの急坂が予想される。 8時前出発。すこし雲はあるが晴れている。まずナムチェ真上の展望台に向かう。そこにはビジタ- センタ-が置かれているらしい。その入口から道は急な上りになる。上を見上げてみたが、平地 らしいところはまったくない。上り一方の急坂である。上って行くにしたがい、だんだん視界が大き く開けてきた。下はナムチェの集落、右後方のいくつか重なりあった山脈の向うは、ルクラの方角 らしい。前方に白いヒマラヤの峰々も見え始めてきている。9時展望台に着いた。朝日に照らされた コンデ.リ(6187m)が美しい。その左手前のク-ンピラも朝日を浴びている。ク-ンピラは シェルパ族の守護神が棲む聖山として崇められ、登山禁止の山になっているという。そして遠くに エベレストの頭、その右にロ-ツェが聳えている。ただ光の加減ですこし霞んで見える。 コンデ.リ 6187m ビジタ-センタ-展望台より 2004.3.18 ビジタ-センタ-にはヒマラヤの山々、そこに棲む動物や花々などの他にエベレスト初登頂の シェルパ、 テンジン.ノルゲイの服も展示されてあった。 展望台からシャンボチェを目指してさらに上りはじめる。尾根を巻いてゆくと、広々とした高原の 台地に出た。低い草木が点在しているが、みな紅葉している。展望の良い尾根を上って行く。 チョルテンの前に出たところで足を止めて周囲を眺めてみる。石を積み上げてつくられたチョルテン にタルチョがつけられ、折からの風にはためきゆれていた。タルチョは、チベット仏教の経文が書か れた旗のこと。朝日を浴びていたコンデ.リも、今見ると山顚付近に帯のような雲がかかり、その上 から白い頭を覗かせていた。 再び上り始める。かなり息苦しくなってきた。空気の薄さをじかに感じる。多少頭もクラクラする。 前に2~3人、後ろにも何人かの人がついてきている。しかしみな苦しそうだ。 前方にホテルが見えてきた。もう少しだと思うがなかなか前に進まない、5~6歩進んで一息入れる。 そしてすこし歩いてまた休憩。そんなことを繰り返しながら、やっとホテルに辿り着くことが出来た。 時計を見ると11時。 シャンボチェの丘手前に立つチョルテン、後方はコンデ.リ2004.3.18 シャンボチェの丘は標高3970m、ここにパノラマ.ホテルがある。最近建てられたものらしい。 設備もよくなかなか清潔なホテルだ。天気さえ良ければ、360度ヒマラヤの絶景を見渡すことが 出来る。食事もシャレタ洋風料理が出され良かった。この近くにもエベレスト.ビュ-ホテルがある が、ネパ-ルのヒマラヤ山中で、ホテルと名のついている建物があるのは、シャンボチェの丘ぐらい だろう。 シェルパたちはこのホテルには泊まらない、どこかに行ってしまった。今晩はナムチェかこの先の クムジュンに下りてロッジか民家に宿をとり、明日朝またここに戻ってくる。そんなことは私たち にはとても出来ないが、彼らの足であればそれぐらいのことは朝飯前なのだろう。 昼食はガ-リックス-プ、サンドイッチ、ウインナ-、ポテト、豆にフル-ツポンチ。 その後周囲はガスが出始め、山はまったく見えなくなってしまった。外での散策は諦めて部屋で 一眠りする。 夕食はマッシュス-プ、スパゲティ、ポテト、野菜、フル-ツサラダにデザ-ト。 レストランにはケ-ス内にウイスキ-、ビ-ルなども置かれてあった。隣の席にいたTさんに ”アレッ、ビ-ルが置いてある”と話しかけてみたところ、「アア~そうですね、ウ~ン---」と言った きり黙ってしまった。その隣のIさんも横目でケ-スを睨んでいる。Tさんもかなりの酒好きらしい。 私は彼等がビ-ルを注文してくれれば、自分も --- と思っていたのだが、その期待は見事に外れて しまった。ムリもない、酒は禁止されている、しかもここは3970mの高地、高山病の危険がある。 やむをえない、それでは部屋で --- と一旦は頭をかすめたが、思いなおした。今日の酒は我慢する ことにした。 部屋に帰りベッドに入ると、いつの間にか眠りについていた。ヒマラヤの山懐に抱かれた眠りである。 3月19日、 シャンボチェ~クムジュン往復 朝6時、朝食の前にホテルの外に出てみた。冷気が辺りを包み非常に寒い。しかし視界は良く、 コンデ.リク-ンピラが朝日を浴びて美しい姿を見せていた。タムセルク(6623m)も眼の前に 大きな姿を現し、その左にカンテガ(6799m)の頭も見えているが、どちらも西斜面にあるため光 が当っていない、不機嫌な黒い岩肌をこちらに向けている。遠くエベレスト方向は霧がかかり、その 丸く見える頭もぼんやりと霞んでいる。しかし、それも一瞬の間ですぐガスに包まれ隠れてしまった。 コンデ.リ(6187m)の一角 2004.3.19 ク-ンピラ 5761m 私たちのメンバ- シェルパ頭のエムビさんと 朝食は、おかゆ、ト-スト、ゆで卵。その後8時ホテル出発。シェルパたちは全員揃っている。 ホテルを出てすぐ、高原台地の下斜面で、ヒマラヤンタ-ルと呼ばれる野生の鹿が、岩についている 草を食んでいた。その数20頭ぐらい。この周辺の岩山をエリアとして住んでいるらしい。キジも いたらしいが、気がつかなかった。ネパ-ルの国鳥はキジだと聞いて親しみを感じた。日本の国鳥も キジなのである。気持のよい高原の道を歩いて行く。低い草木が岩山にへばりつくように生えている が、いずれも赤く苔むしている。標高4000mの荒涼とした大地にも植物は生きているのだと思った。 クムジュンへの道を行く私たちのトレッカ- 2004.3.19 . 8時30分、エベレスト.ビュ-ホテルに着く。このホテルは、1969年ヒマラヤ観光開発(株)を 設立した長野県出身の宮原巍(みやはらたかし)氏が同年建設したもの。建物はすべて石でつくられ、 重厚感が漂う。このヒマラヤの奥深い山地で、このような高級ホテルがあるとはまったく想像して いなかった。 天気が良ければ、テラスからエベレストやロ-ツエを望むことができるということだっが、前方 遠くは靄で何も見えなかった。ホテルの周囲はマツの木が繁り、その間からクムジュンの集落が見え ている。このテラスでコ-ヒ-を飲みながら、メンバ-の人たちと雑談する。 エベレスト.ビュ-ホテルのテラスにて 2004.3.19 シェルパ スレッシュ君と 2004.3.19 シェルパ パサン君と テラスでの休憩を終え立ちあがろうとすると、ソロ、ソロ、ユキマショウ~と言う声が聞こえた。 誰かと思ったら声主はパサン君と他のシェルパたちだった。この言葉を覚えてくれていたのである。 和やかな雰囲気の中でマツの林の小道を下って行く。ここは標高約4000m、マツの木が繁っているが、 この高さのチベットではこのような高い樹木はまったく見られない。山の地形と雨量の違いだろう。 道は落石が多い地帯なのか、辺り一面に石がゴロゴロしている。岩のような大きな石もあれば小さい 石もある。下りて行く途中アマ.ダブラムとカンテガが雲の上に顔を出してきた。高原の斜面の石に 腰を降ろし、しばらく山を眺める。 アマ.ダブラム 6814m 2004.3.19 カンテガ 6799m 右手前方にアマ.ダブラムとカンテガが真白い姿を現し、鋭い山顚を天に突き上げている。 アマ.ダブラムは「母親の首飾り」、という意味があるらしいが、もうひとつイメ-ジが湧かない。 カンテガの意味は「鞍の峰」だということだが、そう言われれば馬の鞍に見えなくもない。それに してもどっしりとした大きな鞍である。エベレストやロ-ツェはまだ姿を現していない。 20分の休憩を終えてクムジュンの入口から右に折れて下って行き、10時30分サナサに着く。 ここは標高3600m。カラ.パタ-ルやエベレストに行くメインの道だが、その昔はチベットへの 交易路でもあった。買物をするのに、片道半月かけてカトマンズに行くよりも、チベットに行く方 が近いのである。今でもヤクやゾッキョが背中に荷物をのせて行き交い、チベットから来た人たち が道端に物を広げている姿が見られ、そのなごりを感じることができた。 サナサの風景 2004.3.19 サナサからクムジュンに戻る。クムジュンは、ナムチェよりもさらに強いシェルパが出るところと して知られている。1953年5月29日、エドモンド.ヒラリ-と共にエベレスト初登頂を果たした テンジン.ノルゲイは、この地の出身である。おそらく、シェルパという名前が世界に知れ渡った のはこの功績によるものだろう。シェルパは山岳ガイドであるとともに、主人に仕えるパ-トナ- である --- というのもテンジンの教えによるものではないだろうか、例えば山頂を極める時、自分が 前に居ても後ろに下がり最後は主人に花をもたせる、ということを --- この教えは、今でもシェルパ 一人一人の身体に流れているのではないかと思う。 やはりクムジュンの村の入口にも、立派なチョルテンとマニ石が置かれてあった。 クムジュン村入口のチョルテンとマニ石 2004.3.19 ここは標高3790m。シャンポチェより200m低いところにある。チョルテンの入口をくぐると、 道は両側を低い石垣で縁どられて、真っすぐに集落へと続いている。集落は山裾の斜面から低地に かけて点在していた。家々はナムチェと同じように石でつくられ、白い土が塗られてあった。低地 には広い耕地もみられたが、その中には無数の小さな石が混ざっていた。麦かトウモロコシしか 出来ないような痩せた土地である。 私たちは村の一角にあるクムジュン.ゴンパと呼ばれる寺の前の広場で、ホテルでつくってもらっ た弁当を開いた。中身は、おにぎり、サラミ、パンケ-キ、チ-ズ、クッキ-、オレンジジュ-ス。 昼食のあと、私たちはこのゴンパの中に入らせてもらった。チベット仏教の寺である。釈迦を中心 に眼を大きく見開いた仏像が置かれ、いかにもヒマラヤの奥深いところにある寺の雰囲気を感じる。 クムジュン村の風景 2004.3.19 クムジュン.ゴンパ この寺には雪男の頭皮があると聞いていた。老僧侶が、祭壇の前に置かれた箱の中からおもむろに 出してきたものを見ると、赤茶けた長いフサフサした頭髪のようなものであった。一見獣の毛に見え るが、にわかにそれが雪男のものであるとは信じられなかった。しかしこれも、ヒマラヤの奥深い 山地に於けるロマンという見方をすれば面白い。この辺り、雪男が出てきても不思議ではないところ なのである。 次にシェルパ族の民家を訪ねる。クムジュンはテンジンとヒラリ-がエベレスト初登頂して以来、 豊かになったらしい。リビングル-ム、仏間、キッチン、ベッドル-ム、倉庫と見させてもらったが、 いずれもきれいに整頓されていた。バタ-茶をごちそうになったが、ドロドロしていて、この味は どうも馴染めない。 クムジュンで2003年5月23日、エベレスト初登頂以来50周年の記念式典があり、1975年女性として 初登頂した田部井淳子さんも参加したと聞いた。 民家を辞してクンデ.ホスピタルに行く。1966年、ヒラリ-によって建てられた病院である。 平屋建ての小さな病院だが、15のベッドをもっているという。この山地にあって病院や学校は最も 大切なもの。クムジュンの人たちは、熱い思いでヒラリ-に感謝しているにちがいない。 シェルパ族の民家 2004.3.19 クンデ.ホスピタル 小雨が降りはじめ辺りは深い霧に包まれてきた。病院を出て次に訪ねたのがヒラリ-スク-ル。 やはりヒラリ-が1960年建てた学校である。2002年つくられた寄宿舎は、日本のODAの援助に よるもの。4・5歳から16歳まで学べる。つまり幼稚園から高校まで、学年に応じて教えていると いう。 全体の生徒数は318人。遠方から来る子供は、寄宿舎で寝泊まりしながら勉強しているらしい。 この日はあいにく休校だったが校長先生に案内してもらった。まだ青年のような若い先生である。 高校の教室を見学させてもらったが、掲示板に貼られていた数学などはチンプンカンプン、かなり 高等な教育をしていると思った。またシェルパは英語が話せるが、こうした学校で教わっているの だろう。男の子は卒業すると、シェルパとしてヒマラヤの高山に出かけて行くのである。 ヒラリ-スク-ル 2004.1.19 ヒラリ-胸像の前で クムジュンから元来た道を戻り、シャンボチェのホテルに帰る。時計を見ると15時。夕食まで 部屋で休憩。 夕刻、「タムセルクが見えてきたよ!」という土屋さんの大きな声で、あわててベッドから飛び出し 外に出てみると、雲の間から夕陽に照らされたタムセルクが、荘厳な姿を現していた。 タムセルク 6623m 2004.1.19 3月20日、シャンボチェ~モンジョ 5時起床、ティ-サ-ビスのあと外に出てみた。明るくなりはじめた空に、まだ星が煌めいていた。 一点の雲も見られない、今日は快晴のようだ。6時、ヒマラヤの山々に日が当りはじめてきた。 荘厳な一瞬である。やがて朝日を浴びて、タ-メ..ピ-ク、パルチャモ、ク-ンピラ、コンデ.リ、 が雄大な姿を現してきた。タムセルクは西岸壁を見せており、日が当っていない。不機嫌な表情で ある。 タ-メ..ピ-ク 6940mと、パルチャモ 6181m ク-ンビラ 5761m 2004.3.20 コンデ.リ 6187m タムセルク 6623m 遠くエベレストも丸い頭を出している。その左手にタウツェ、右手にはロ-ツェが、堂々たる貫録 で聳え立っている。さらにロ-ツェの右手にはアマダブラムが、これまた鋭い山顚を青空に突き上げ ている。スゴイ、スゴイ!というほかはない。気の遠くなるような素晴らしい景観だ。美しい眺めだ。 ヒマラヤの白い峰が、360度の大パノラマで私たちをとり囲んでいるのだ。私はシャンボチェの丘に 立ち止まり、辺りを見廻しつづけた。そして何枚ものカメラのシャッタ-を押した。 左エベレスト 8848m 右ロ-ツェ8516m 2004.3.20 タウツェ 6501m 2004.3.20 アマダブラム 6812m 朝食のあとも、ホテル前でしばらく山を眺めていた。ホテルを載せている台地は大渓谷に臨んで おり、その渓谷のはるか遠くにエベレストやロ-ツェ、アマダブラムが、そして正面にク-ンピラが、 西側にコンデ.リが、東側にタムセルクが、それぞれクッキリと白い稜線を見せている。 そこに立っていると、ああ~自分はまさにヒマラヤの山地に居る、そしてその壮大な景観に魅せられ ている 、ここまで歩いて来てよかった、 --- そんな思いが胸にこみ上げてくるのを覚えた。 ヒマラヤの山をバックに集合写真を撮るとき、ホテルのスタッフから白いスカ-フを、首に巻いて もらった。チベット文化圏では寺の参拝や宗教の儀式、友人の送迎、結婚式などで、「カタ」と呼ば れるスカ-フを挨拶しながら相手に渡す習慣があるという。つまり、そうすることで自分の心からの 敬意を表しているのだそうだ。 ホテル前でパサン君と、首に巻いているのは「カタ」 2004.3.20 ホテル前にて パノラマ・ロッジ 9時、ホテルを出発して帰途に就く。明るい高原の道を下って行く。うしろにク-ンピラが右手に コンデ.リが鮮やかな姿で聳え、私たちを見送ってくれている。立ち去り難い思いで、もう一度後ろ を振り返った。再びこの山々に会うことが出来るだろうか ---そんな思いで ---。 さよなら ---エベレストよ、ロ-ツェよ、アマダブラムよ、カンテガよ、タムセルクよ、ヒマラヤの 山塊群よ---・。 間もなくシャンボチェ空港が見えてくる。滑走路は一応整備されているようには見えるが、 アスファルトが敷かれているわけではない、草が生え、小石もゴロゴロしている。大渓谷を臨む台地 につくられているが、小型飛行機かヘリコプタ-なら利用できそうな小さな飛行場である。観光客が、 シャンボチェの丘にあるホテルへの足場にするには便利だろう。ただトレッカ-はほとんど利用しな いと思われる。山の向うからヘリコプタ-が飛んできた。カメラを向ける。 シャンボチェ空港 2004.3.20 この辺りナムチェから上って来る時は息切らしていたが、下りは楽である。青空の下美しい景色 を見ながら斜面を歩いているためか、さして疲れは感じない。コンデ.リをバックに写真を撮って もらう。 ナムチェへ下山途中 2004.3.20 コンデ.リをバックに 10時過ぎナムチェの街に入ると、路上で土曜バザ-ルが開かれ賑わっていた。道端に野菜や果物、 日用品が、ところ狭しと並べられている中をゆっくりと歩いてみる。昔は物々交換で取引されていた らしいが、今は現金で売買されているという。と言ってもこのナムチェで採れるものはほとんどない、 商品の大半はカトマンズから運ばれる。カトマンズから190km離れたジリまでは車道が通っている が、そこから先は 山道である。重い荷物を背負いながら、あるいはゾッキョの背中に載せて、1週間 から10日をかけてナムチェまで歩いてくるのだろう。地元から買い出しに行く人はその往復になる。 この険しい地形をもつヒマラヤ山中にあってはそれしか方法がないのである。車などは役にたたない のである。チベットからも、いくつもの高い峰々を越えて、ナムチェにやって来る人もいるらしい。 チベットも野菜など採れはしない。おそらく自分で編んだ手織物を持ってくるのだろう。 ナムチェの土曜バザ-ル 2004.3.20 街中のロッジで昼食をとったあと、ナムチェバザ-ルをあとにする。この集落ともお別れである。 この村を出る時、再びこのシェルパの里を訪れることがあるだろうか、そんな想いが頭をかすめた。 ナムチェよさようなら---。 3日前に上って来た急坂を歩きはじめる。どんどん下って行く。やがてドゥ-ドコシとボウテコシ の合流点を見下ろす地点に出る。ヒラリ-ブリッジを渡り河原でしばらく休憩。上を見上げると 渓谷の大岩壁が屹立し、渓流の音はドンドンと今日も高く鳴り響いている。まさに深山の大渓谷の 趣を感じる。 休憩後、ボ-テコシの木橋からドゥ-ドコシの高い吊り橋を渡り、さらにもう一つの吊り橋を渡って、 サガルマ-タ-国立公園の門をくぐる。 ボ-テコシとドゥ-ドコシの合流点に架かる吊り橋 2004.3.20 しばらく歩いて行くとまた橋に出会い、そこを渡るとドゥ-トコシの流れは右に変わる。やがて モンジョのロッジに着く。時計を見ると15時30分。ここの標高は2835m。チャンボチェから一気に 1100m下ってて来たことになる。今日はここで宿泊。 ロッジの中に入ろうとする時、その脇で少年が妹を背負いながら、大きな声で歌を唄っている姿を 眼にした。 少年はは6~7歳位、妹は1歳位、彼は妹に一生懸命歌を聞かせながら時にゆすり、時に前に引き よせあやしている。妹は兄にしがみつきながら、兄の歌に聞き入っている。兄は妹が可愛くてしかた がない、妹は兄を信頼しきり時々笑顔を見せている。何ともほほえましい情景である。 私が幼少の頃、姉が弟を背負っている姿は見たことがあるが、その逆は見たことはない。今の日本 ではそのどちらも見られなくなっている。こうした習慣は、シェルパ族の社会では当たり前のこと かもしれないが、なんとも心安らぐ思いをした。 一旦部屋に入り休憩後外に出てみると、ロッジ前でたき火が焚かれていた。そこでシェルパたちが たき火を囲み手拍子しながら、歌を唄い踊っていた。ミニキャンプファイヤ-である。 歌はレッサンピリリ~レッサンピリリ~、間に何か歌詞が入り、そしてレッサンピリリ~レッサン ピリリ~を繰り返す。歌声は辺りに響き渡り、キャンプファイヤ-の雰囲気を感じる。この歌は前年 アンナプルナのハイキングに参加した時、シェルパたちが唄うのを聞いて知っていた。非常に覚え やすい歌である。私も仲間に入り一緒に唄った。夕食前の楽しいひと時であった。 3月21日、モンジョ~ルクラ 7時45分、モンジョ出発。ドゥ-ドコシを右に見ながら歩いて行く。間もなくモンジョ川の岸に 出て、そこを渡り、尾根を巻いて行く。道は急坂がつづく。しばらく歩いたあと橋を渡ると、今度は ドゥ-ドコシを左に見るところに出た。時々農家を見かけるようになる。なんとなく里に近い感じ である。 農家の前を通ると子供が遊んでいたりする。眼が合うと胸に両手を合わせ挨拶してくれる。 こちらも同じように応じる。そうすることで、こちらもなんとなく素直な 気分になる。子供たちの 表情はとても純真で可愛い。ヒマラヤの山地ならではの情景である。休憩時、Eさんは子供たちに、 持っていた紙で折りヅルを折ってやっていた。 農家の前で遊んでいた子供たち 2004.3.21 シャクナゲが見頃を迎え、常緑樹の緑と鮮やかなコントラストを描いている。道端のサクラソウも 可憐な姿で眼を楽しませてくれる。落葉樹の木々も芽吹き始め、春が近いことを思わせる。 ヒマラヤの春もすぐそこに来ている、そんなことを感じながらのどかな山道を歩いて行く。だんだん ルクラが近づいてくる。ああ~、ヒマラヤのトレッキングも今日が最後なのか --- そんな思いが 頭をよぎる。 サクラソウの花 ベンカ-ルを通り過ぎ、石コロだらけの道を上ったり下ったりしながら行くと、ドゥ-ドコシの 支流の岸に出た。その岸を渡り、パクディンの手前でまた橋を渡る。村のロッジに入り、しばらく 休憩。ここは4日前泊まったロッジ。陽気なオバさんが、お茶、クッキ-と、粟でつくった地元の酒、 チャンまでふるまってくれた。 パクディンを離れ途中1回の休憩をはさみ、1時間15分でタドコシに着き昼食。ここも4日前の レストランである。13時前、昼食を終えてルクラに向かう。ゆるやかな坂道を上ってゆくと視界開け、 民家も多く見られるようになる。遠くにルクラの滑走路が見えてきた。ルクラが近い。足を早め ルクラの入り口から村を通り抜け、15時ルクラのロッジに入った。今日はここで宿泊、明日の飛行機 でカトマンズへ向かう。 ルクラ近い村の風景 2004.3.21 不要になったものは置いてゆくことになった。靴下、帽子、手袋、ボ-ルペン、タオル、ハンカチ、 衣類など、それぞれ思い思いにロッジの床の上に置いた。シェルパたちはクジ引きで、自分の当った ものをもらってゆくのである。自分に親しいシェルパに、特別なものを与えるのは許されない。 公平性が失われしまう。彼らの社会のバランスも崩れかねない。クジ引きであれば文句はいえない、 納得できるだろう。 ロッジに入ると酒好きの男たちは、みなウイスキ-の小瓶を買い始めた。そしてテ-ブルに座り、 せきを切っをたように飲みだした。5日間禁酒していた男たちである。私はポットに1/3残っていた ウイスキ-を、シェルパたちに少しづつ注いであげた。私が一口飲むとポットの中は空になり、 新しい小瓶のウイスキ-を買ってみなと一緒にワイワイやりはじめた。飲むほどに酔うほどに愉快に なる。シェルパも中に入ってくる。互いに注ぎかわし、ますます楽しくなる。言葉はカタコトの英語、 単語が思い出せないときは日本語になる。それでも何となく通じるのである。 コックのイツアさんの出身地はマカル-(標高8463m)の麓らしい、パサン君とラッパ君はルクラ から歩いて3日かかるという。 ”ヘェ~、スゴイ、スゴイ”と言って握手をしたり、肩を抱き合ったりする。そんな他愛ない話ばかり だが、何ともいえない親しみが湧いてくる。。 そのうちシェルパたちがレッサンピリリ~レッサンピリリ~と陽気に唄いはじめ、踊り出した。 私も手拍子でそれに合わせる。宴会は夕食後も続いた。私はいささか飲み過ぎてしまったが、 トレッキングを終えた最後の夜の楽しいひと時であった。 シェルパたちのダンス ルクラロッジで 2004.3.21 3月22日、ルクラ~カトマンズへ 5時30分起床、今日も快晴である。多少頭がクラクラする。昨晩の酒がまだ残っているようだ。 6時30分朝食を済ませ、7時10分ロッジを出る。シェルパたちとお別れである。 彼らと何回も別れの挨拶をした。握手したり、抱き合ったりした。そして手を振ってロッジ前の 空港の建物に向かった。 その途中突然、再び彼らと会うことはないだろう.…そんな思いが胸にこみ上げてきた。 後ろを振り向くと、まだ彼らはロッジの前で整列して私たちに手を振ってくれていた…。 パサン君よ、スルッシュ君よ、名前を覚えれなかった純真な少年シェルパたちよ、立派なシェルパ になっておくれ、コックのイツァさん、ゾッキョで荷物を運んでくれたペンマさん、重たい酸素 ボンベを背負ってくれたラッパさん、そしてシェルパ頭のエムビさん、 ありがとう 、 さようなら 、 さようなら --- 彼らもこれからヒマラヤの山地に帰って行く。昼も夜も歩きづめに歩いて、時には走りながら、 自分の家に帰って行くにちがいない。 春の陽光に輝く神々の峰々よ 純真で心やさしい シェルパたちよ そして、ヒマラヤを愛する20人のパ-ティ-の皆様に ダンニャバ-ド また逢う日まで--- ― 了 ― 2013.6.28 記 斎藤泰三 私のアジア紀行 http://www.taichan.info/ |