パキスタンの旅で出会った人たち 1996年パキスタンのフンザ対岸にあるナガ-ル村を訪ねた。ここは剣俊なカラコルム山脈に 囲まれた、まさに天涯の地のような集落である。ところどころに散らばる民家の前では、子供 たちが笑顔を見せながら手をふってくれていた。最初に出会った家から最後の家まで... やがてホッパ-氷河の台地に着くと、子供たちがワット集まってきた。みなニコニコしながら 私たちを見上げている。 5年後の2001年9月再びこの地を訪ねて来たとき、このなかの一人の子供が私の顔を覚えて いて周りの風景を案内してくれた。思いがけない再会であった。 ナガ-ル村(北部山岳地帯) 1996年8月 ナガ-ルの子供たち(ホッパ-氷河の台地にて) フンザ(北部山岳地帯) 2001年9月再度ホッパ-氷河を訪ねてホテルに着いた途端、グラリと車が傾いてビックリ、何と 前輪が外れたのである。あの断崖絶壁のところだったらどうなっていたか…胸をなでおろした。 他のドライバ-は 「オゥ-、ラッキ-!」なんて言っていたが、とんでもない。しかしここはパキスタンの山奥、 文句を言ってもはじまらない。 私が乗ったジ-プドライバ-と 2001年9月 前輪が外れたジ-プ ジ-プを修理するドライバ-たち 午後はフンザで長い歴史をもつガネッシュ村を訪ねた。 この土壁の中には23家族115人が暮らす。村には17世紀のモスクが建ち、広場には共同 で使う洗濯場や地下冷蔵庫が置かれていた。 中に入るとフンザ帽を被った老人たちがひなたぼっこをし、大勢の子供たちが遊んでいた。 ほとんどの子供は裸足である。しかし着ている衣服はみな小奇麗だ。人なつっこい笑顔で 私たちに「ハロ-、ハロ-」と呼びかけてくる。なかなか可愛い子供たちだ。カメラを向け ても嫌がらない。 家の中から私たちを見つめる幼い子供たち 2001年9月 ひなたぼっこをしている老人たち 外で遊ぶ子供たち 中には屋根に上っている娘や塀の上からも、また家の壁の窓から顔を出して私たちを見ている子供 もいた。実にワイルドな子供たちである。どこか懐かしい気分になる。 塀の上から私たちを見る子供 2001年9月 すこし年長の娘にカメラを向けると気軽に応じてくれた。なかなかの美人である。 すこし年長の娘 2001年9月 フンザの象徴バルチット城は、かってのフンザのミ-ル(王)の城。700年の歴史がある。 建物は15世紀チベット風に改築、20世紀にはイギリスによつて改築されたという。 屋上に上がってみると衛兵の姿があった。といってもここの看守だろう。当時を偲ばせる ような粋な衛兵の恰好をしていた。笑顔を見せながらウエルカム、ウエルカム!と言っていた が、カメラを向けると急に真面目な顔になった。 2016年10月この城を訪ねた時も彼が看守として務めていた。顔に15年の年輪は感じられた ものの立派な髭をたくわえた風貌は威厳を増し、古武士のような風格を感じる。懐かしさの あまり 「私は貴方を知っている、15年前にも会っている」...と言うと、いかめしい顔が人なつっこい 笑顔になり、握手を求めてきた。 2001年9月 バルチット城の看守 2016年10月 この年は中国からパミ-ル高原を越えてフンザまで来たのだが、9.11事件のあおりを受けて 旅行は中止、急遽帰国することになった。 フンザからバスでギルギットに着いてホテルで一旦休憩となったが、少し時間があったので辺り を散策した。 広い空地に出たところで、屋台で椅子に腰かけているオジさんに声をかけられた。 テ-ブルには鍋やヤカン、コップなどが置かれ、大きな鍋には煮込み料理がつくられてあった。 「あなたはどちらから来た?」 「日本からです」 「オウ-日本人、グッド!」…急に笑顔になった。さらに 「いつギルギットに来た?」…と聞かれた。 「先程です、これからイスラマバ-ドに行きます」…と言うと 「そうか、もう行くのか」…というような顔をした。カメラを向けると 「オ-ケ-、オ-ケ-」…気軽に応じてくれた。何とも親しみを感じる。 ギルギットの広場で出会ったオジさん 2001年9月 2004年6月~7月再びパキスタンを訪れたとき、フンザ山麓に流れる用水路を散策した。 リンゴ、アンズ、スモモ、サクランボなどの木々が生い茂るのどかな道だ。道脇や林の中にある 実は誰が採ってもいいらしい。 家の前で遊んでいる子供たちが、”ハロ-!、ハロ-!”と大きな声で呼びかけてくれ、何とも 心和む気持になる。弟を抱きかかえ、私たちを見つめる子供もいた。空気はいいし果物も豊富、 フンザは長寿の里として知られているが、なるほどと思う。 私たちに声をかける子供たち 2004年7月 弟を抱きながら私たちを見つめる子供 さらに2016年10月パキスタン旅行したとき、フンザに建てられた 「ハセガワ・メモリアル・パブリック・スク-ル」を訪ねた。この学校は故長谷川恒男さんの 遺志を継ぎ、彼の妻や友人、支援者たちの尽力によって1995年建設が始められ1997年開校 された。 校門を入るとすぐ、校舎の壁に嵌めこまれた長谷川スク-ルの記念プレ-ト、および 校章が眼につく。記念プレ-トには彼のプロフィ-ルや足跡が書かれ、校章には交差する パキスタンと日本の国旗が描かれていた。そこからは長谷川恒男さんや彼の妻、日本人への 感謝のメッセ-ジが感じられる。 校舎入り口近くにある校長室の前には、額縁に入れられた長谷川恒男さんの写真が飾られて あった。ある日の彼の登山姿だろうが、その微笑んでいる表情からはいつも生徒たちをやさしく 見守っているような雰囲気が伝わってくる 長谷川スク-ルの記念プレ-ト 2016年10月 長谷川恒男の写真 校内は大勢の学生たちで賑わっていた。イベントがあり、他の学校からも集まってきている らしい。そのほとんどは女学生、美人が多い。私たちを見ると 「ハロ-、ハロ-」…愛想よく挨拶してくれる。カメラにも笑顔で応じてくれる。嫌な顔は いっさい しない。撮った写真を見せると、やはり 「サンキュ-!」…明るい声が返ってくる。気持のいい学生たちだ。 長谷川スク-ルの女学生 2016年10月 長谷川スク-ルの女学生 ほどなく私たちは校長室に案内してもらう。校長先生はまだ若々しく、ある人によると38歳 らしい。机の上には小さなパキスタンの国旗と日ノ丸が置かれてあった。 校長先生のお話は、 「英語教育を通じて学生たちが広い視点に立ち、自分たちおよび世界の歴史、文化、習俗を学ぶ ことによって豊かな人間性を培い、地方でも都会でも対応できるバランスのよい人間に育てて いくことに重点をおきたい。もちろん神への尊敬もそれに入る。 現在生徒数は936人、先生は65人、うち女性徒が半分以上を占める。この学校は学費の他に三菱 法人、大勢の日本人の支援者たちによって運営されている。皆様はじめ日本の方々に深く感謝 したい」…というような主旨ではなかったかと思う。 私が2004年7月にこの学校を訪ねたときの生徒数は564人、先生は30人だったが、現在は その倍近くに増えたことになる。幼稚園児から短大生までを教育する学校として、これからも 益々の発展を願うばかりである。 校長先生のお話のあとは「たかつきたけし」記念図書館、コンピュ-タ-室、ルハ-ブと 呼ばれる民族弦楽器を弾く先生の部屋にも案内してもらった。 ちなみにツァ-メンバ-の高橋さんは校長先生と旧知の仲らしく、この日も笑顔で握手を交わす 姿が見られた。 校長先生と握手する高橋さん ルハ-ブを弾く先生 イベントのテ-マは「宇宙のことを考えよう週間」と題するものだった。すでに大勢の生徒 たちが校庭に設られた椅子に座って待機しており、私たちはその最前列に案内された。 ほどなく校長先生が舞台に現れてこのイベントの開会の挨拶と主旨についてスピ-チされ、 私たちが来校していることも伝えられたのではないかと思われる。 スピ-チする校長先生 2016年10月 椅子に座って待機する生徒たち 校長先生のスピ-チが終わると、リハ-ブをもった先生と女学生7人が出て来た。そして 日本語で「おはようございます」…と挨拶したあと、 「♪どうもありがとうございました、ハセガワ、どうもありがとうございました、ハセガワ♪」… と手拍子しながら大きな声で歌いはじめたのである。「ありがとう音頭」というものらしい。 私はビックリした、思わず胸を衝かれた。”ハセガワ”は、生徒たちにとって日本人を代表する 呼びかたなのだろう…この歌には日本人への感謝の気持が込められている…長谷川恒男さん の遺志でつくられた”学校”が、今なお大きな力で引き継がれている…と感じたからである。 それにしてもこの異国の地で、この山峡の村で、こんな情景を眼にするとは思ってもみなかった。 「ありがとう音頭」を唄う先生と女学生たち 次に出て来たのが先生と男子生徒たち。舞台下の私たちの眼の前”でフンザ踊り”を披露 してくれた。生徒たちは羽根をつけたフンザ帽、ネクタイをつけたワイシャツにズボン、 先生はフンザ帽に民族服、その姿でリズムカルに、コミカルにテンポよく踊って見せてくれた。 フンザ踊りを披露する先生と生徒たち フンザ踊りを披露する先生と生徒たち そして別の女学生と先生が舞台に立ち、日本の唱歌「春が来た」を合唱してくれた。 「♪はるがきた、はるがきた、どこにきた~♪」…この歌は1910年(明治43年)につくられた 文部省唱歌。私たちの世代も子供の頃によく口ずさんだ歌である。最近の日本ではめったに 聞かれなくなったが、彼女たちの歌声に懐かしい思いがした。 この歌も、”フンザ踊り”も、先程の”ありがとう音頭”も、私たちのために演じてくれたのだと いう。 ”春が来た”を唄う女学生たち 校舎の一角 私は明るい気持になった。清々しい気持にさせられた。いずれは社会に羽ばたく生徒たちよ、 子供たちよ、娘たちよ、 「長谷川スク-ルは君たちの母校だ、フンザは君たちの故里だ、それを誇りに、健やかに、幸せ になっておくれ...」。 学校を辞して、私たちは水路に沿って村の小道を散策することになった。 水路は学校の下の方にあるのだが、山側に真っすぐ伸びる道を歩いて周りこんで行かねば ならない。もちろんそのほうが水路の端から端まで散策できる。 歩きはじめてほどなく、道脇の空地で手斧を振り上げている男が眼に入った。よく見ると、 何と長い鉄の棒を切断しているではないか。機械を使えば簡単なのだろうが、薪割りのこの スタイル、山間の村ならではの光景だ。どこか懐かしい。カメラを向けると、おだやかな顔で OKしてくれた。 手斧で鉄の棒を切断していた村の人 2016年10月 バルチット城を見学したあと、私は一人になってブラブラ歩きながらホテルに向かった。 城の下は小さな店が軒を並べるバザ-ルになっていた。店先に見えるのは絨毯、帽子、装飾品、 手提げカバン、スカ-フ、蜂蜜、干しアンズ、クワの実、ア-モンドなど。通りかかると愛想 よく声をかけてくれる。店に入るよう勧める人もいたが、しつこくはない。おだやかでのどかな 雰囲気だ。私は蜂蜜と干しアンズを買ったが、蜂蜜はとても美味しかった。 フンザのバザ-ルの一角 2016年10月 上部フンザ~クンジェラブ峠入口(最北部山岳地帯) 2016年10月 グルミット村は上部フンザ・ゴジャ-ルの中心にある。 家々は丘の斜面に段々状に点在しているが、それぞれ石で囲まれた平坦な土地に建てられ、 長い塀をもっているところが多い。私たちはこのグルミット村を散策した。 村の入り口から砂利石を踏みながらゆっくり上って行く。辺りにはのんびりと牛が草を食み、 紅葉したアンズやポプラが眼を楽しませてくれる。遠くには険俊な雪山も見える。山間の のどかな散歩道だ。 塀の上からこちらを見ている主婦がいた。そばには主人もいる。カメラを向けると「オ-ケ-」 にっこり笑顔を見せてくれた。女性でスカ-フを被っていないのは珍しい。イスラム教では ないのかも?…。 塀の上から私たちを見ている夫婦 2016年10月 木陰の石に腰かけ、ころころと笑いながら話しあっている女性たちがいた。なかなかの美人 たちだ。カラフルな衣装を着ておしゃれである。大学生か?…年頃の娘のようだ。 早速A・Sさんがそばに寄ると一人が席を外した。座る場所をつくってくれたのだ。彼女たちは 笑顔を見せながら彼の話しかけに応じていた。その様子を見ていた女性のS・Tさんも中に 入って写真に収まった。 彼女たちもスカ-フで頭を隠してしていない。フンザの人たちと同じく、リベラルなイスマイル 派なのだろう。 若い女性たちと一緒に写真に収まるA・SさんとS・Tさん 2016年10月 小高い丘に着いて引き返していたとき、学校帰りの女学生たちに出会った。 女学生はブル-の上着に白いスカ-フを巻いている。なかなか清楚だ、日本でいえばセ-ラ- 服にあたるだろう。すれ違うときはみな 「ハロ-、ハロ-」…明るい声で挨拶を交わす。私がカメラを向けると眼を輝かせながら並ん でくれた。撮った写真を見せると大きな声で 「サンキュ-!」…これはマナ-なのだろう。学校で教えられているのかもしれない。 そう言えばこの地域は教育のよく行き届いたところだと聞いている。識字率100%、文盲は まったくいないといわれる。 グルミット村の女学生たち 2016年10月 男子生徒と一緒に下校してくる女学生に出会って驚いた。あるいは先生同士かもしれないが、 男女が一緒になって歩く姿はとてもイスラム圏とは思われない光景である。ふつうイスラム圏の 女性は家に閉じこもり、旦那の友人にさえ顔を見せない地域もあるというのに、この村は何と 開放的であることか…。 男子生徒と一緒に下校する女学生?(あるいは先生同士)2016年10月 下校するグルミット村の女学生たち 2016年10月 グルミット村の女学生 坂道を下り駐車場に近づいたとき、家の前の空き地でこちらを見ている娘に気づいた。 やさしそうな可愛い娘だ。赤い服が辺りに映えている。私が声をかけると近づいてきてくれた。 撮った写真を見せるとやはり 「サンキュ-!」…明るい声が返ってきた。こちらが撮らせてもらってるいるというのに…。 家の前で妹を連れた娘 2016年10月 このグルミット村の散策は楽しかった。何かほのぼのと明るい気持になった。見知らぬ人でも 笑顔を見せて接してくれる、彼女たちのやさしい心遣いがそんな気持にさせてくれたのだろう…。 グルミット村からさらに上部のフサイニ村に着く。そこには長い吊り橋がかかり、橋には 等間隔に木材の板がつけられていた。ふと気がつくと、遠く対岸の橋からゆっくりした足取り でこちらにやってくる人影が見える。肩には大きな丸太を担いでいるようだ。 その姿がだんだん大きくなる。地元の人らしい。彼は橋を渡りきり、私たちの眼の前に来ると ひとまず丸太を下に降ろした。私は試しにその丸太を持ち上げようとしたがビクともしない。 いやはやスゴイ、この丸太を担いでこの吊り橋を渡ってくるとは… 大きな丸太を担いで吊り橋を渡ってくる地元の人 2016年10月 パス-のホテル庭では高橋さんがホテル従業員の写真を撮っていた。頭に被っているのは フンザ帽、胸には日の丸のワッペンを縫い付けている。この姿を見ればパキスタン、とくに フンザが好きな日本人だということが分かる。現地の人たちも親しみを感じてくれるはずだ。 この旅で何回も眼にしてきた彼の姿である。 彼が手にしているのはポロライドカメラ。いつも近くにいる人に気軽に話しかけ撮影の許可を 得る。写真を撮るとすぐ印画紙にフ-フ-と何回も息を吹きかけ、画像が浮かび上がってきた ところで相手に渡す。もらった本人は自分の写真を見てニッコリする。とくに幼い子供は喜ぶ。 あどけない笑顔を見せる。互いに心が通い合う瞬間だ。 ホテル従業員の写真を撮る高橋さん 2016年10月 クンジェラブ国立公園の入口に着き、パスポ-トを提示する。この辺り日影になっているせい か、かなり冷える。手続きを終え外に出てみると、銃を持った警察官がいたので写真の許可を 求めたところ、 「オ-ケ-」…にこやかにに応じてくれた。この一帯も厳しい管轄圏にあるはずだが、そう した緊張感は感じない。観光客とみてやさしくしてくれてるのだろう。彼らと一緒にカメラに 収まる。 クンジェラブ入口検問所の警察官と一緒に 2016年10月 バブサル峠~スカルドゥ~フ-シェ村(北部山岳地帯) 早朝ナランを出て3時間のドライブのあと標高4173mのバブサル峠に着く。 薄く新雪が積もる峠にはテント、小屋、売店などが設置され、かなりの人出が見られた。その ほとんどはパキスタン人。カメラやアイフォンを持つた若者や家族連れも多く、私たち日本人 が珍しいのか、 「ワン・ピクチャ-、ワン・ピクチャ-」と言いながら一緒に写真を撮りたがる人もいた。 なかなか陽気な人たちである。私は許可を得て家族連れとその幼い娘、そして銃を持った 警察官をカメラに収めた。 新雪が積もったバブサル峠 2016年10月 銃を持った警察官 幼い娘 観光に来ていたパキスタン人の家族 アスト-ル渓谷を走りデオサイ高原へ向かう途中、河畔で農家の家族たちが掘り起こした ジャガイモを大きな袋に詰め込んでいた。 ジャガイモはナス科の植物で、原産地は南アメリカの高地。硬い痩せた土地でも育つのだろう。 掘り起こしたジャガイモを袋に詰め込む農家の人たち 2016年10月 スカルドゥに着いた翌日河畔を散策していると、スピ-カ-から大きな声が響き渡ってきた。 シ-ア派の人々から崇拝される第3代イマ-ム・フサインを偲ぶ詩の朗読だという。その声は むせび泣くような嗚咽から次第に大きくなり、感極まって嘆き悲しむ号泣に変わっていった。 これは演技ではない、まさに真にせまっている、本当に泣いていたのだそうだ。 この10月12日はシ-ア派ムハッラムの祭の日に当り、私たちの興味はその行進を見ることに あった。ホテルから外に出ることはできなかったが、そのパレ-ドがホテル前を通るというの である。しかしなかなか現れてこない。 ところが午後2時過ぎ、ついにやってきた。遠くから太鼓の音が聞こえはじめ、行進してくる 群集が見えてきた。群集は次第に近づきホテル前に近づいてくる。 車には棺らしきものが載せられ、その上のフサインを象徴すると思われる赤い人形を取り囲ん だ多勢の人たちが、横断幕を掲げながらゆっくりと眼の前を通り過ぎて行った。 男たちは右手と左手を交互に使って胸を叩き、ときに手を高く振り上げながら行進しでいたが、 その様子は想像していたものとは違い、実に静かで整然としていた。この宗教行事はもっと 激しく熱狂的なものだと聞いていたからである。しかし、この山岳地帯にひっそりと暮らす彼ら の穏やかな人柄がそうさせたのだろう。 ムハッラムの祭で行進する人たち(スカルドゥ)2016年10月 ムハッラムの祭で行進する人たち ムハッラム祭とは680年イラクのカルバラ-の戦いで、ウマイヤ朝の軍隊に包囲され殉教した シ-ア派第3代のイマ-ム・フサインを偲んで哀悼を捧げる祭礼のこと。ムハッラムは、 イスラム暦(太陰暦)における1番目の月の名称。イランではこの宗教行事をア-シュラ-と呼ぶ。 (日本百科全書より) スカルドゥからフ-シェ村に行く途中マチュル-村を通過するとき、スコップをもって道路 整備をしていた村の人たちが、私たちに笑顔を見せながら手を振ってくれた。なんとも心和む 気持になる。 私たちに笑顔を見せるマチュル-の村人 2016年10月 12時カラコルム最奥の集落フ-シェ村に着き、レストハウスで弁当を開く。今は休業中だが 夏場は多勢のトレッカ-で賑わうところらしい。 フ-シェ村は険俊な高峰に取り囲まれた山間にあった。まさに天の涯のようなところだ。 冬の寒さは想像を絶する。 ここから先トレッキングで北上し、サイチョウのキャンプ地からゴンドゴロ・ラ(峠)まで 行くと、K2はじめカラコルムの高峰が見えるというが、氷河や氷壁が立ちはだかる険しい コ-スで、とても私たちが行けるところではないらしい。 村の入り口に歩いて行くと、丸太ん棒に腰かけて遊んでいた少年たちが一斉にこちらを見て 「ハロ-、ハロ-」...と話しかけてきた。眼はいきいきと輝いている。 「チャイニ-ズ?」...と聞くから 「ジャパニ-ズ」...と答えると、うなずいた。彼らにすれば日本人も中国人も同じ顔に見える らしい。そしてさかんに自分の顔を指差している。写真を撮ってくれと言ってるようだ。 撮った写真を見せると 「オウッ、ベリ-ナイス!」...写真が珍しいわけでもないだろうに、おどけてみせてくれた。 なかなか人なつっこい少年たちだ。 村の入り口で遊んでいた少年たち(フ-シェ村) 2016年10月 スカルドゥからインダス河上流沿いにギルギットへ向かう途中深い渓谷を走っていたが、 ふと気がつくと、峡谷にロ-プが張られ、それにつけられた吊り台に乗って渡ってくる 人影が見える。 若者のようだ。真下には激流がたぎっている。しかし若者はゆっくりロ-プを手繰りよせ ながらこちらの川岸に着いた。インダス川では以前にもこうした光景を見たことがあるが、 何かを運ぶためのロ-プなのだろう。彼らにとっては生活のためかもしれない。しかし驚く ばかりだ。 ロ-プで渓谷を渡ってくる若者(下のロ-プの左よりに白い人影)2016年10月 インダス渓谷~スワ-ト渓谷~ペシャワ-ル~タキシラ~イスラマバ-ド フンザ川沿いに走って行くとラカポジ・ビュ-ポイントのレストランがあるが、そこで昼食を 終えてブラブラしていると、若者たちが陽気に話しかけてきた。一緒に写真を撮りたいと 言ってるらしい。近寄ると彼らの一人が私の肩を抱き、持っていたスマホを眼の前に掲げて パチリ。 買ったばかりのスマホが珍しいのか、嬉しいのか?...それにしてもなんという人なつっこさだ。 ラカポジ・ビュ-ポイントで出会ったパキスタンの若者たち 2016年10月 ラカポジ・ビュ-ポイントからしばらく下ったギルギット川とインダス河の合流地点の先で、 馬術の練習をしている人がいた。ガレ地の中で、砂煙を上げながら円を描くように何度も馬を 走らせていた。彼らも騎馬民族の末裔か?...と思うほどにカッコよく見えた。 馬術の練習をする青年 2016年10月 長い時間カラコルム・ハイウエ-を南下していたとき、ふと渓谷にかけられたロ-プを渡って くる若者が眼に入った。このロ-プ渡りは何日か前にも見たことがあるが、やはり吊り枠に 乗ってロ-プをたぐり寄せながら近づいてくる。こちらの岸壁に着くと何かを載せ、また向う 岸へ滑りだして行った。荷物を運んでいたものと思われる。 このロ-プ渡りも、滔々と流れるインダス川も、そこに架かる山峡のつり橋も、その景観は どこか”悠久の時”を感じさせてくれる。 こちらの岸に近づいてくる若者 2016年10月 向う岸へ渡って行く若者 カラコルム・ハイウエ-を外れスワ-ト渓谷に入り坂道を上っている時、数台のトラックが 止まっていた。先へ行けない。どうやら先頭の大型トラックがエンコしたようだ。見ていると、 ドライバ-が油の入ったバケツを持ってきて自分のトラックの蛇口に入れ始めた。他のトラック から油をもらったらしい。何とものどかな風景である。 エンコしたトラックと様子を見る人たち 2004年7月 30分後ようやく動きはじめた。ヤレヤレ、しかしこんな情景はどこにでも見られるものでは ない。旅をしていると、思いもかけないことに遭遇するものだ ブトカラ遺跡からミンゴ-ラの街に近づくにしたがい、車多くなる。そのほとんどはオ-ト 三輪タクシ-と、タクシ-、小型トラックも走っている。タクシ-や小型トラックには大勢の 人が詰め込まれ車の上にも、横も後ろも、あふれんばかりの人たちがむらがりぶらさがって いた。ビックリ仰天、この国の人たちの凄まじいエネルギ-を感じる。 大勢の人を乗せて走るタクシ-、小型トラック 2004年7月 ミンゴ-ラのバザ-ルに入ってまたビックリ。車のクラクションが絶え間なく響きわたり、 スゴイ喧騒に驚いてしまったのだ。そんな通りを髭を生やし、ダブダブの民族服を着た大勢の 男たちが歩きまわり、その間をオ-ト三輪や車が自由自在に走り回っていた。うっかりすると ブチ当たって轢かれそうになる。 私は案内された絨毯屋の店先でその様子を眺めていた。ここでも大勢の人を満載にした車、 自転車に乗った人、大きな荷物を背負った人たちが通り過ぎて行く。通りには肉、野菜、果物、 香辛料、衣服、絨毯、工芸品などの店が雑多に立ち並び、軒先で声高に怒鳴り合っている人も 見かける。 ミンゴラ・バザ-ル 2004年7月 ホテル前から出ていたゴンドラに乗ってスワ-ト河の対岸にある中州まで行ってみた。 6人乗りのゴンドラで囲いはなく、時々吹いてくる風が心地よい。爽やかな気分になる。 中州には飲み物や菓子類などの売店があり、河畔で涼む人や、水遊びしている少年もいた。 スワ-ト川に架かるゴンドラ 2004年7月 スワ-ト川中州の売店 中州で涼む人たち スワ-ト渓谷の田園地帯が広がる一角に、シャンカルダ-ル・ストゥ-パと呼ばれる古代の 仏塔が建っているが、その下の空地で遊んでいた2人の子供を見てビックリした。 何と私が子供のころに遊んだピンコロシャンではないか.... ピンコロシャンは長短2つの棒で遊ぶ。短い棒を長い棒でピンと空中に跳ね上げ、遠くへ飛ば してころがすことから、そう呼んでいた。終戦直後の子供の遊びであった。 子供たちは、私が子供の頃とほぼ同じ方法で遊んでいた。もしかしたらピンコロシャンの ル-ツはここにあったのか...そう思うほど懐かしかった。 ピンコロシャンで遊ぶ子供たち ペシャワ-ルの旧市街、キサ・カワニ・バザ-ルに出かけたときには、まだ朝の9時過ぎだ というのにカラフルなバス、車、オ-トバイ、オ-ト三輪、馬車やロバ車があわただしく行き 交い、人間はその間をぬうように横切っていた。車も、馬も、人間もそれぞれ勝手な方向に 動きまわっていたのだ。しかも警笛が絶え間なく鳴り響き、ものすごい喧騒だ。エネルギ-に 満ち溢れている。ミンゴラ・バザ-ルもそうだったが、ここはそれ以上である。これはまさに 異国の風景だ…驚き感動すら覚えてしまう。 キサ・カワニ・バザ-ルの馬車 2004年7月 キサ・カワニ・バザ-ルの通り 通りには肉、野菜、果物、衣料品、絨毯、置物、工芸品、貴金属、両替屋、香辛料、鞄、帽子、 食堂などありとあらゆる店が立ち並んでいた。木の実を売る店もあった。量りは昔懐かしい竿秤。 竿秤で木の実を量る店の人 店前で料理する人 1996年に来たときは、カイバル峠に向かうためペシャワ-ルを出発した。 カイバル峠は紀元前4世紀にはアレキサンダ-が、7世紀には玄奘三蔵が、そして数しれない 探検隊や隊商たちが往来した、東西文明を結ぶ重要な要衝地だったところだと謂われている。 峠の向うにはアフガニスタンが見えるはずだ...そう胸をワクワクさせながら出発したのだが、 アフガニスタン難民街からブラックマ-ケットを通り過ぎたところで、ストップさせられて しまった。外国人はこれより先立入禁止、という大きな立札が掲げられていたのである。 立札のことはガイドのナジ-ブさんも知らなかったらしい。彼が警察に訊ねたところつい数日 前、軍の高官が射殺されたという…この辺りから先カイバル峠一帯は、政府の法も及ばない 部族社会になっているところである。残念だがやむをえない、私たちは引き返すことになった。 ナジ-ブさんは私を見ると、いつも大声で「オオ、サイトウ!」と、呼びかけてくれていた。 今までで一番印象に残るガイドだった。懐かしい...。 ガイドのナジ-ブさん(右)と 1996年8月 1996年8月イスラマバ-ドのシャ-フアイサルモスクを訪ねたあと外に出てみると、10数人の 女性グル-プが互いに写真を撮りあっていた。ワイワイしゃべりながら楽しそうに見える。 ツア-メンバ-のYさんが 「どちらからですか?」…と話しかけると、 「ラホ-ルから来ました、今日は家族と友人たちで礼拝に来て、記年写真を撮っていたところ です、一緒に入りませんか?」…という返事が返ってきたので驚いた。 イスラム圏の女性はカメラを向けられることさえ嫌がるのに、見知らぬ外国人を誘ってくれる とは…何という開放的な女性たちなのだろう。 彼女たちの厚意により、Yさんと私は一緒に中に入らせてもらうことにした。 ラホ-ルから来た女性たちと 1996年8月 2004年7月旅の最終日はタキシラに出かけた。ガンダ-ラの仏教遺跡が数多く残るところで ある。このときのガイドはフンザ出身のアリさん。彼は日本語が話せる。 2016年10月の旅でもイスラマバ-ドのホテルでアリさんと再会した。 このツァ-の担当ではなかったが、この深夜にわざわざ私たちを出迎えに来てくれたのである。 12年の歳月を経て出会う彼の風貌は多少年輪を感じるものがあったが、私のことをよく覚えて くれていて懐かしかった。 モ-ラ・モラドゥ遺跡でガイドのアリ(右端)さんと 2004年7月 1996年8月の旅でもこのタキシラのシルカップ遺跡を見学していたが、強い日差しにくたびれ て木陰に入り休ませてもらった。涼しい風が心地よい。 シルカップ遺跡の木陰にて 1996年8月 2004年の旅を終え私たちはホテルの部屋に帰り、今井さん、中西さんと 3人でビ-ルを 飲みながらくつろいだ。飲むほどに盛り上がり話しは尽きなかった。3人とも大の酒好き、 しかも、人後におちないシルクロ-ドフアンだったのである。空港へ出発するまでの数時間、 思い出に残る楽しいひとときを過ごした。 ホテルで中西さん(左)今井(右)さんと 中西さんと 2004年7月 1996年8月の最後の日は、レストランで昼食をとりながら雑談に花を咲かせた。2週間も 経つと互いに親しみが湧き、すこしは気心も分かってくる。長い旅の中でともに同じ行動を していると、何となく仲間意識をもつようになるのかもしれない。 このときの添乗員は女性の石川さん、彼女はいつも笑顔を見せながらよく動き、よく気が つき、私たちの世話をしてくれた。そして、ひょうきんなところもある愉快な女性でもあった。 私たちはそれぞれ彼女と一緒にカメラに収まった。すこし気恥ずかしいがその写真を披露させ てもらう。 レストランで添乗員の石川さんと 1996年8月 1996年のパキスタンへの旅は私の初めての海外旅行だったが、この地で出会った人たちの 思い出が、その後何回も海外の旅に出かけるきっかけとなった。 カラコルムの山岳地帯につつましく暮らす人たちの表情は、今でもときどき眼に浮かんで くる。 とくに、いつも温かく迎えてくれたフンザや上部フンザの人や女学生たち、元気に手を振って くれたナガ-ルの子供たち、そして北部の山深くにひっそりと住む人たちの笑顔は忘れること ができない.。 2022年1月3日 ― 了 ― |