伊 豆 踊 子 歩 道 の 旅
2011.11.21~11.23
浄蓮の滝 伊豆湯ヶ島 2011.11.22
私は一昨年、まもなく冬が来ようとしている晩秋に、2泊3日の予定で伊豆に出かけてみた。
踊子歩道と呼ばれる湯ヶ島から湯が野にいたる山間の遊歩道を、折からの紅葉を見ながら
のんびりと歩いてみたかったからである。
10数年ぶりに訪れたこの地は、多少新しい家々や施設がつくられてはしていたが、やはり伊豆の
山間部の田舎らしい雰囲気が残っていて懐かしかった。
早朝千葉をたち、東京から新幹線、伊豆箱根鉄道、バスと乗り継いで湯ヶ島の”昭和の森会館”
を訪ねた。まだ9時前ということもあってか、来館者は私一人であった。
この会館は昭和天皇在位50年を記念し、皇室にゆかりの深い天城山の国有林を
”昭和の森、天城山自然休養林”に指定されたのを機につくられたもの。館内にはそれに関する
情報や歴史を紹介した ”森の情報会館”や”伊豆近代文学館”などがある。近代文学館には
井上靖と川端康成の文学コ-ナ-が設けられて いる。地元ゆかりの文豪ということもあってか、
井上文学のほうが大きくスペ-スを占めていた。
井上靖の文学館、記念館、文学碑は、伊豆周辺をを中心に旭川市、北上市、金沢市、米子市、
鳥取県日南町、滋賀県渡岸寺など各地に点在するが、資料の豊富さではここが一番だろう。
彼の小説は長編、短編併せて400作近く書かれているが、ジャンルは非常に広い。恋愛、
事件もの、自伝などをモチ-フにした一般小説、歴史、時代、西域ロマン小説、紀行文などその
範囲は多岐に亘る。これだけ ジャンルの広い作家は他に知らない。
初期の作品には豪放磊落な男性像が浮かび上がる。女性の描き方もすばらしい。また憂愁の
影をもったロマンティストな詩人でもある。私は彼の大フアン、そのほとんどを読んでいる。
彼の本ばかり夢中で読んだ時期もあった。スト-リ-の面白さもさることながら、その抒情
ゆたかな文章に魅せられてしまうからだ。
私が何度かシルクロ-ドに行くきっかけとなったのは、彼の詩や西域ロマン小説に拠るところ
が大きい。私の人生でもっとも影響を受けた人である。
文学館の入り口付近に、映画”しろばんば”、”あすなろ物語””伊豆の踊子”の写真が展示されて
あった。
”しろばんば”は井上靖の自伝風小説。彼が幼少のころ、親の手から離れ祖祖父の妾おぬい
婆さん、 さきこ姉さん、祖父、祖母、叔父などに温かく見守られながら、伊豆の山村湯ヶ島で
友人たちと 自由 奔放に遊んだ情景が、抒情豊かに描かれた作品である。昭和30年に映画でも
上映されたが、この小説の書きだしの部分が ナレ-ションで始まる。
「その頃、といっても大正4,5年のことで今から40何年か前のことである。冬の夕方になると
村の子供たちは、暮れはじめた空間を綿くずでも舞っているように浮遊している白い虫を追い
かけて遊んだ。それが”しろばんば”である。」
洪作少年に島村徹 、おぬい婆さんに北林谷栄、さきこ姉さんに芦川いずみが演じている。
映画 しろばんば 昭和37年上映 監督 滝沢英輔
彼の自伝風小説は”しろばんば”の他に、夏草冬濤、北の海、あすなろ物語などがある。
あすなろ物語は、恋人同士の心中、祖母との死別、女性へのほのかな慕情など、そうした少年
時代の鮎太がいろいろな人に出会い、経験を積み重ねながら成長していく姿を、生き生きと
描いた小説である。
友人たちと遊び呆けていた少年鮎太は、ある日知人から「あれは明日は檜になろう」 と頑張って
いる”あすなろう”という木だ、と教えられる。アスナロ(翌檜)はヒノキ科の一種。
漢字が示すように ”あすなろう”、明日は檜のような立派な木になりたいという意味が込められて
いる。
映画”あすなろ物語”は黒沢明が脚色、監督は堀川弘通。当時黒沢明の監督助手を務めていた彼が、
監督として初めて撮った作品である。写真の左は根岸明美、鹿児信哉、右は久保明、久我美子。
映画 あすなろ物語 昭和30年上映 監督 堀川弘通
” 伊豆の踊子”は川端康成の短編小説。大正7年(1918年)、彼が19歳のときはじめて伊豆の
旅に出て旅芸人の一行と道づれになり、その思い出を大正15年(1926年)”伊豆の踊子”として
書いたものが、文芸春秋に連載された。”雪国”と共に私たちにもっとも馴染みのある小説である。
映画は昭和8年から49年まで6回上映されている。私は古くからの映画好きだが、これほど
何回もリメイクされた映画は他に知らない。
昭和8年には五所平之助、昭和29年、野村芳太郎、昭和35年、川頭義郎、昭和38年、西河克巳
昭和42年、恩地日出夫、昭和49年、西河克巳がそれぞれ監督を務めている。
写真の上は吉永小百合と高橋英機、左は内藤洋子と黒沢年男、右は石浜朗と美空ひばり。
中でも昭和38年に上映された”伊豆の踊子”はよく覚えている。踊子の吉永小百合が下田の防波堤.
で船上の高橋英機を見送るラストシ-ンは、今でも私の頭に焼きついて離れない。私の懐かしい
映画の一つである。
映画の良さはその大半が、監督と脚本で決まると言われているが、私もそう思う。この6人の
監督の内で一番馴染みのあるのは、野村芳太郎。彼は生涯数多くの映画をつくっているが、疑惑、
鬼畜、わるいやつら、砂の器、影の車など、松本清張原作の作品が印象に残る。中でも砂の器は
日本映画を代表する傑作と言っていいだろう。恩地日出夫もいい。その抒情あふれる描き方が
好きだ。
映画では伊豆の踊子しか印象に残っていないが、テレビドラマでは球形の荒野、人間の証明、
飢餓海峡(映画の監督は内田吐夢)などが私の胸をうった。
映画 伊豆の踊子 昭和38年上映 監督 西河克巳
映画 伊豆の踊子
昭和42年上映 監督 恩地日出夫 昭和29年上映 監督 野村芳太郎
この会館の裏庭には”イロハカエデ”が、明るい陽光に照らされ美しく紅葉していた。私は
そこから左手奥に移築 されている井上靖の旧邸を訪ねた。明治時代の趣のある屋敷である。
玄関にはイヌマキが植えられていたが、井上靖の本によると、かって伊豆の人たちは、この
木をアスナロと呼んでいたらしい。
昭和の森会館 裏庭 2011.11.21
井上靖旧邸 明治23年建築、昭和58年移築
庭から帰ってくると館長から”お茶をどうぞ”と勧められたが、先を急ぐからと断ると、頭の
髪をアップに結い、カスリの着物を着て踊子に扮した若い娘が、お茶菓子を紙にくるんで差し
出してくれた。思いがけないもてなしに心和む。
会館を出て本谷川沿いの遊歩道をゆっくりと歩いて行く。明るい落葉樹林をぬけると、うす
暗い林道に出る。ここは滑川渓谷と呼ばれるところ。道が二つに分かれ、その分岐点からすぐ
右に行ったところに、井上靖の文学碑”猟銃”がある。猟銃は”闘牛”と共に芥川賞受賞の対象に
なった作品。猟銃碑には彼の友人で当時の文芸評論家、山本健吉の撰文が次のように刻まれて
あった
”猟銃”は当代文学の巨壁井上靖が郷里伊豆湯ヶ島を舞台に、孤独な一人の猟人の生を描いた
珠玉の短編であり、事実上の処女作でもあった。時すでに彼の齢は不惑、人生の川床を歩く
この中年男の姿は、作者自身の内面を明かすかに見える。彼の天賦の才は、彼を物語作者と
して、漱石以来の名手とした。
しかも彼の内なる志は、自らその才を擲ち、鷗外のごとく、述べて作らぬ歴史へと 向かわせる。
しかも、少年期以来心に育てたシルク ロ-ドへの浪漫的憧憬は年とともに膨らみ、 東洋の
理想を 説いた天心の衣鉢を嗣ぐ者たらしめ、底に燃ゆる詩魂の持続は、遙か若き日の藤村にも
通い合う。言わば近代日本文学の最高の部分がここに集中し、一つの壮大絢爛の世界として花
開いた。
処女作に描かれた白い河床は、何時か蕩蕩たる大河となった。ふるさとびとら、一片耿耿の彼の
志を慕い、併せてその源の一滴を永く記念し、天城の山々を背に、ここに一基の碑を建つると
而爾。
昭和57年4月 山本健吉撰文
井上靖猟銃碑
この小説の初めに、題名も同じ彼の散文詩が綴られている。
その人は大きなマドロスパイプを銜え、セッタ-を先に立て、長靴で霜柱を踏み出しながら、
初冬の天城の間道の叢をゆっくり分け登って行った。-------
その後、都会の駅や盛り場などで、ふと、ああ、あの猟人のように歩きたいと思うことがある。
ゆっくりと、静かに、冷たく----。そんな時きまって私の瞼の中で、猟人の背景をなすものは、
初冬の天城の冷たい背景ではなく、どこか落莫とした白い河床であった---。
これはこの詩のさわりの部分であるが、小説”猟銃”のモチ-フを象徴しているように思える。
この小説の中に出てくる、猟人への三人の女性の手紙は三人三様で、女性の心の奥深いところ
に流れる心理が見事に描かれている。この作品は漱石の”こころ”を彷彿とさせてくれた。
佐藤春夫が激賞した小説である。
ここの分岐点から右方向に行くと樹齢400年と言われる”太郎杉”のところに出られるが、
あきらめて真っすぐに道をとる。気持のよい山道が続く。木立の間から射しこむ光をうけて、
渓谷の川面がキラキラと照り映える。河の流れの上にかぶさる落葉樹の紅葉が美しい。
しばらくすると視界ひらけ、川幅広くなる ー そろそろ天城峠に通ずる下田街道に近いようだ。
渓谷を離れ林をぬけると、下田街道に出た。ここでしばし休憩。
滑沢渓谷から天城峠への風景
下田街道の車道を横切ると、天城峠に通ずるつづら折りの道にさしかかる。ゆるやかな坂道を
歩き始めしばらくすると、左手に川端康成の”伊豆の踊子文学碑”がひっそりと置かれてあった。
注意してみないと見過ごしてしまいそうなところである。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く
染めながら、すさまじい早さで私を追って来た。---
これは伊豆の踊子の書き出しの部分、「雪国」の”国境の長いトンネルをぬけると雪国であった”
と同じように記憶に残る印象的な名文である。
ゆっくりと歩いて行く。右手前方には伊豆の山々が、遠く近く波のように幾重にも重なり
合い続いている。 眼下には、ブナ、カエデ、ヒメシャラが生い茂る落葉樹の木立の間から、
川の流れが見え隠れしている。
折からの紅葉が美しい。行きかう人は誰もいない。静かである。聞こえるのはサア~サア~と
響くせせらぎの音だけ。なんとも清々しい気分だ。
この辺り、映画”天城越え”の舞台になったところかもしれない。遊郭から着のみ着のまま裸足
で逃げてきた娼婦と、下田から家出して来た少年がこの辺りで出会う。娼婦ハナは
”あにさん、ここどこ?”と
少年に 声をかける。少年は美しい女性に心を奪われる。彼女に慕情を抱いたのだ。それは
母親に求める愛と、やさしい女性への思慕が入り混じっているようなものだったかもしれない。
二人は道連れになりながら歩いていたが、前方から浮浪者のような男がやってきてすれちがう。
すると彼女は少年に
”急に用事を思い出したから、ここでさよなら”と言って、男のあとを追って行く。一文無し
だった彼女は男に身を売ったのである。。
翌日男の死体が発見される。犯人として彼女が捕えられるが、証拠不十分としてこの事件は
迷宮入りとなる。しかし彼女は、取り調べの激しさから獄中で衰弱死してしまう。
そして30年後、真犯人の家を訪ねる老いた元刑事がいた.---。
娼婦役を演じたのはデビューして間もないころの田中裕子。あでやかな着物姿で、艶やかな
演技を見せてくれた彼女に、私も心を奪われた。その幼さの残る色っぽさが、なんとも可憐で
愛おしく感じたのだ。
”天城越え”は私の心に残る映画の一つである。この映画は1983年上映された。
監督は三村晴彦、原作は松本清張。
九十九折りの道をゆっくりと登って行く。川の流れも見えなくなる。まもなく前方に旧天城
トンネルが見えてきた。天城峠である。ここは標高710m。
天城峠は1904年(明治37年)に完成したトンネルによって出来た峠。全長445m。
このトンネルが出来る前は、ここから西へ約4km位のところにある二本杉峠が使われ、
それより前は古峠が天城越えの峠として使われたらしい。
いずれにしても天城越えは、大変な難所であったにちがいない。今は国道414号線に新しい
トンネルが出来ているので、ここは旧天城トンネルと呼ばれている。切り石でつくられた
トンネルとしては、日本に現存する最長のものだという。新天城トンネルができる1970年まで
は、内陸部と南部を結ぶ重要なトンネルとして利用されてきた。
旧天城トンネル
トンネルをぬけると下り道になる。足を速め20分ぐらいで寒天橋を渡ると二階滝のところに
着く。20メ-トルぐらいの滝だが二段に落ちてなかなかの眺めだ。さらに山道をひたすら歩い
て行くと右手に車道が見えてきた。そこに降りてしばらく休憩。バス停の標識あり、鍋失と書い
てある。
ここで遊歩道への道を間違え、そのまま車道をとり、水垂というところまで歩いて河津七滝に
通ずる踊子歩道に入ろうとしたが、入口に通行止めと書いてある。どうも釜滝から初景滝まで
ガケ崩れで通れなくなっているらしい。
やむをえずそのまま車道を歩き続け、湯が野の街に入る。街を貫いているのは河津川。川の
両側には湯煙りが立ち昇り、温泉街らしい雰囲気を感じる。川べりの狭い道を歩いて行くと
福田家の前に出た。川端康成が泊まってこともある旅館らしい。玄関前には踊子の碑が建てられ
てあった。
伊豆の踊子碑
小説”伊豆の踊子”の中で、対岸の共同湯から素っ裸になった踊子が、河岸に飛び降りそうな
恰好で立ち、両手をいっぱいに伸ばして何か叫んでいた情景は、この辺りから描かれたもの
らしい。
映画では旅芸人の男が”まだ子供だからね”と学生に語りかけていたシ~ンが思い出されてくる。
この旅館には随分前に泊まったことがある。踊子の恰好をしたおばあちゃんが出てきて、
”ようおいでくださいました。他の旅館ではなかなか一人で泊まるのは難しいですが、ここは
一人でも大丈夫です。どうぞごゆっりして下さい”と笑顔をみせながら、迎えてくれたことを
覚えている。今日は福田屋ではなく、ここからすぐ近くの国民宿舎”河津”で宿をとった。
昨日(2011.11.21)は昭和の森会館から湯が野温泉までを歩いたが、今日はここからバスで
昭和の森会館まで行き、そこから湯が野温泉まで歩くことにする。8時30分宿を出てバス停に
行く。
湯が野は ”伊豆の踊子”の一番ゆかりの深いところ、ということもあってか、辺りにはそうした
看板や、踊り子をイメ-ジした像があちこちに見られる。
湯が野の街をを流れる河津川と周辺の風景
伊豆の踊子の看板
バスで昭和の森会館に着いたのは9時40分。そこから右手の遊歩道に入る。 しばらくうす暗い
道が続く。道の両脇には低い常緑樹の木がやたらに眼につく。シラカシに似ているが光沢が強い。
帰宅後調べたらイヌガシだった。
クスノキ科の木で、3~4月頃暗紅紫色の花を咲かせるらしい。上を見ると紅紫色の実をつけた
カラスザンショウが、大きく葉を広げ梢を空高く伸ばしていた。大木になったヒメシャラも数多く
見られた。赤味をおびた樹肌がよく目立つ。
カラスザンショウ
イヌガシ
暗い林道をぬけると明るい落葉樹林の中に出た。ゆるやかな台地の上に、紅葉したオオイタヤ
メイゲツ、ブナ、オオモミジ、フサザクラ、イロハモミジなどが、青空に映え眼に清々しい。
アマギツツジも あった。葉は大きな菱形状の形で、7月頃に大きな花が咲くらしい。伊豆半島
特産のものだという。
アマギツツジ
オオイタヤメイゲツ
そこを離れ、再び暗い林道に入る。しばらく歩いて行くと、横道利一の”寝園”の文学碑があった。
歩道から10mぐらい上に登ったところである。彼は明治31年生まれ、出身地は会津の東山温泉。
菊池寛に師事し、川端康成とも交流のあった有名な作家だが、私は彼の本は読んだことがない。
横光利一の文学碑 ”寝園”
小説”寝園”は昭和5年東京日日新聞に前半が連載され、後半は昭和7年文芸春秋に連載完結
された。
杉林を通り抜けると視界広がり、明るい農村地帯に出てきた。畑の向うに農家が一軒。
家の前に植えられているのはアマギツツジか。伊豆の田舎らしい風景である。まもまく島崎藤村
”伊豆の旅”文学碑の前に出る。
島崎藤村”伊豆の旅”文学碑
小説”伊豆の旅”は知らない。藤村の本で読んだのは”破戒”と”夜明け前”、あと頭にあるのは
千曲川の旅情を詠んだ、”小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ---”で始まる詩と、抒情歌と
しても唄われた”椰子の実”ぐらいか。
小説”破戒”は1906年の作。信州の田舎町で教師を務める瀬川丑松は、父の戒めを守り
自分の素性を 隠していたが、悩み苦しんだ挙句、自分は新平民であることを同僚や生徒に告白
する。あえて 父の戒めを破ったのだ。当時明治政府によって一応四民平等の原則が立てられ
ながらも、以前封建的な因州に支配されていた社会の風潮に憤りを感じ、世に訴えた名作として
強く印象に残っている作品である。
今はそうしたことは言われなくなったが、私が子供の頃でも四本の指を示し、あの家は部落民
だとかヨツとか呼ばれ、村八分になっていた家の同窓生を知っている。今から60年ぐらい前の
話だが、その頃でもこうした風潮は根強く残っていたのである。この本を読んだのは、おそらく
20代の頃ではないかと思う。
1962年に上映された映画も覚えている。
監督は市川崑、主演は瀬川丑松に市川雷蔵、お志保に藤村志保。
”夜明け前”を読んだのは10年ぐらい前になる。藤村の父をモデルにしている作品。
時代は幕末から明治維新、国文学者 平田篤胤に師事し、ひたすら新しい世を期待していた
青山半蔵は、明治維新になっても、自分の思いとはあまりにもかけ離れた世に愕然とし、ついに
発狂してしまう。
大きく世の中が 移り変わっていく、明治維新前後の変革期に生きた、一人の男の姿に強い衝撃を
うけた。日本歴史文学史上の代表的な作品と言われている名作である。
小説”夜明け前”は昭和4年に中央公論に連載され始め、昭和10年に完結している。
藤村は明治5年生まれ。
時計を見ると12時少し前、ここで宿でつくってもらった弁当を開く。川からはすこし離れて
いるが、遠く近く伊豆の山々が見渡せるところ。のどかな農村地帯が広がっている。時々吹いて
くる風も心地よい。
昼食のあと、再び歩きはじめる。山道を通り抜けて左に道をとると、下田街道に出た。
土産物屋の横から下に降りて行くと浄蓮の滝が見えてきた。
浄蓮の滝
本谷川 ワサビ田
滝は狩野川の上流部、天城山の北西麓を流れる本谷川にある。落差25m、幅は7mだが、
滝壺に一気に落ちてくる景観は圧巻である。かって滝の付近に浄蓮寺という寺があったことから
”浄蓮の滝”と名づけられたという。
滝の脇には演歌歌手の石川さゆりが、1986年から唄い始めた”天城越え”の歌碑が立っていた。
沢に沿って遊歩道がつくられており、一番奥までワサビ田が広がっている。
浄蓮の滝を見たあと元来た道に戻り、天城山荘の横から川沿いの道を歩きはじめると、すぐ
踊子の碑の 前に出た。碑には昭和8年、映画”伊豆の踊子”を初めて撮った、五所平之助の筆に
よる短歌が刻まれてあった。
五所平之助による踊子の碑
”踊り子といえば、朱の櫛......あまぎ秋”
短い句のなかに、秋の伊豆を行く、踊子たちの旅芸人の姿が浮かび上がる。踊子の朱の櫛と
あまぎ秋が重なり合い、当時の情景と伊豆の秋の風情を感じる。昭和54年の筆だから、彼が
この映画を撮ってから46年の歳月を経ていることになる。五所平之助の映画を見た記憶は
ないが、彼が監督した”たけくらべ、晩夏、猟銃、女とみそ汁”などの題名ぐらいは知っている。
1931年日本最初のト-キ-映画、”マダムと女房”の監督として有名。古い時代の日本映画を
代表する映画監督である。
明るい林道に入る。林道脇には澄みきった本谷川が流れている。視界広くなり、河岸を埋める
落葉樹の紅葉が鮮やかに映る。空気もさわやか、気持の良いハイキングだ。湯ヶ島温泉に近づく、
時計は14時30分。
本谷川と周りの風景
まもなく湯ヶ島温泉街に入る。ここで”上の家”と呼ばれていた、井上靖の祖父、祖母の家の
前からすぐ先を左に曲がり、”しろばんば”の碑を訪ねた。場所は旧井上靖邸跡にある。彼は
子供のころ、祖祖父が愛した戸籍上の祖母”かの”(映画ではおぬい婆さん)と一緒に、邸内の
土蔵で暮らしていた。その石碑の表には”しろばんば”の書き出しの部分が、裏には詩人の
大岡信氏の文章が刻まれてあった。
しろばんばの碑に題す 大岡信
井上靖は文壇の巨匠と仰がれながらも、一方では満天の星のもと、ただ一人宇宙と対坐する
ことに至上の喜びを見出す、魂の永遠のさすらい人だった。彼の謙虚でしかも限りなく勤勉な
精神が生んだ業績は巨大だったが、その仕事の根源には、世間的な意味での栄達とは無縁な心、
わが好むところを好むままに追求して飽くことを知らぬ、自由で孤独な夢想家の心が住んで
いた。井上靖の中には、朴訥な自然児が終生息づいていたのである。
この自然児を揺籃期にはぐくんだのは、伊豆湯ヶ島の地にほかならない。
しろばんばは、そのような心がどのようにして誕生し、成長していったかを語る自伝小説で
ある。
井上靖の生涯と業績を思うとき、おぬい婆さんと洪作少年がこの地で営んでいた一風変わった
生活が、いかに重要な意味をもっていたかを思い見ずにはいられない。
洪作は遊び仲間と同じ腕白少年だが、同時に沈着な内省家である。彼は幾重にも閉ざされている
自分の生活圏から、徐々に世界を開けて自分を押しひろげ、大地を踏みしめて歩みはじめる。
大正時代の伊豆の小村湯ヶ島で一少年が営んでいた、つましくも夢多き幼少期の生活がひろく
豊かな世界との接触の一歩一歩だったのを見ることは、この小説の読者に、あるそう快で暖かい
読後感と、そして励ましを与えるであろう。
しろばんばの碑
上の家と呼ばれていた井上靖の祖父、祖母の家 ” しろばんば”の碑入口
井上靖がもつ雰囲気を象徴するような美しい文章である。大岡信は静岡県出身、2003年には
文化勲章を受章している。井上靖は明治40年(1907年)生まれ。学生時代から詩の他に、
”三原山春夫、初恋物語、流転”などいくつかの小説も書いている。京都大学を卒業すると毎日
新聞に入社、主に学芸欄の記者として務めていたが、昭和25年”闘牛、猟銃”で芥川賞受賞、
それを機に本格的な作家活動に入る。43歳の遅い文壇デビュ-である。2歳年下の中島敦や
太宰治は既にこの世に居なかった。
平成3年、83歳で亡くなるまでの40年間、400作近い小説を書き続け、数々の文学賞を受賞した。
ノ-ベル賞候補者に上がったこともある。昭和51年、69歳の時には文化勲章を受章している。
”しろばんば”は、文壇デビュ-10年目にあたる昭和35年の作。遺作となったのは”孔子。
しろばんばの碑を離れ宿のほうに向かう。この辺り狩野川が、本谷川と猫越川に分かれている
ところ。そのため何本かの橋が近距離に架けられてある。宿は猫越川沿いにあるはずだがよく
判らない。二つ目の橋を渡っている時、うしろから来た女学生に「こんにちは!」と声をかけ
られた。元気のよい明るい声である。彼女に宿の方角を聞いてみることにした。
”こんにちは、この近くに木太刀荘があるはずだけど、どっちの方?”
「木太刀荘はあの橋を渡って向うの方」 ”あの橋はさっき渡ってきたんだけど?”
「アレッ?アッそうか、こっちの方、わたし案内してあげる、わたしの家の近くだから」
と言ってくれたので、宿まで案内してもらうことにした。 学生服を着たなかなか可愛い
娘である。すこし話しかけてみたくなった。
”中学生?”「ハイそうです。14歳です。」
”14歳と言えば川端康成が書いた伊豆の踊子も14歳、同じ年だね、中学2年生?”
「でもわたし早生まれだから中学3年生です。オジさん旅行ですか?」.
”そう、一人でぶらりと出かけて来たんだ、この辺りは昔大島からやってきた旅芸人が
通ったところだし、井上靖が子供のころ遊んだところなんだよ......ところで”しろばんば”
という本知ってる?”
「知ってるけど、本は読んだことないです。イノウエヤスシはそんなに有名なんですか?」
”そう、日本だけでなく世界的にも知られた文豪です。地元の人ならよく知っていると思う
けど”
「ハイ、お父さんに聞いてみます。」
”ここの小学校にも彼がつくった歌碑があったと思ったけど?”
「ハイ、...でもあの小学校、近いうちには廃校になるんです。たしか来年早々だったと思い
ます」
”随分帰りが遅いんだね” 「ハイ、クラブ活動でバレ-をやっていましたから」
そんな話をしていると木太刀荘が見えるところまで来た。
「あれが木太刀荘です。わたしはこの橋を渡っていきます。」
”ありがとう、家に帰るには遠周りではなかったのかな?”
「大丈夫です、ここからそんなに遠くないですから」 ”じゃあね、バイバイ”
少女は白い足を見せながら橋を渡っていたが、途中でふり返ってもう一度手を振ってくれた。
どうも 遠回りをさせたようである。彼女は今来た対岸の道を足早に歩いていった。それは11月
の夕闇がせまろうとする黄昏時、私は心が洗われるような清々しい気分で、木太刀荘の玄関を
くぐった。
11月23日、朝8時40分宿を出る。今日は帰宅する日だが、午前中はこの近くを散策すること
にした。
最初に向かったのは井上靖氏が眠る熊野山の墓地。天城湯ヶ島温泉会館の近くにある
”井上先生墓地”と書いた標識にしたがい、暗い竹林の道を登って行くこと20分で、熊の山の
共同墓地に着いた。
墓地は伊豆の山々が見渡せる広々とした、小高い台地の上にあった。幾百ともしれない墓石が
遠くまで立ち並んでいる。
井上靖氏の墓地は囲いのない、のびやかな50坪ぐらいの芝生にあった。誰でも自由に近づく
ことができる。この親しみやすさは、おそらく生前の彼の遺志だったのだろう。少年時代、拘束
されることを嫌い、この地でのびのびと過ごした彼の人柄が偲ばれるような墓地だ。長い他所で
の生活を終え、ようやく故里である”しろばんばの地”に帰ってきたのである。奥様も先年98歳で
亡くなられ、共に眠っておられる。
私は、随分前から何回かここを訪ねている。この見知らぬ風来坊に、さぞかし苦笑いされて
いるにちがいない。軽く頭を下げ、手を合わせて一礼。
井上先生夫妻が眠る墓地
”先生、ご無沙汰しています。久しぶりですね。”
「オオッ~君か!よく来てくれた、この前はいつだったかな?」
”ハイ、もうかれこれ10年位になるかと思います。”
「もうそんなになるのか ---その後 、どうかねシルクロ-ドは?」
”ハイ、3年前になりますが、天山山脈からタクラマカン沙漠に行ってまいりました。”
「ホウ~、タクラマカン沙漠か --- 楼蘭には行って来たのかね?」
”とんでもありません、今はとても行けそうにありません、以前は楼蘭へのツァ~
もありましたが、今はそうしたツァ~はなかなか見当たりません。ロブノ-ル
も干上がり、泥沼のような道ばかりで、4WDやトラックでも難しいようです。”
「そうか、それは残念なことだ、僕も行きたかったのだが、チャンスを失って
しまった。あの煌々と月光が降りそそぐ仏塔のそばに立ち、詩でもつくって
みたかったのだが、--- 君はまだ若い、これからだ、もし楼蘭に行く機会が
あったら、あそこの石でも拾ってきてくれないか---。
”ハイ、しかし、先生それはチョット --- ” ---先生の声はそこで消えていた……
これは、晩秋の真昼の夢か、それとも私の心の”つぶやき”であったのか --- 。
この墓地のすぐ近くに、彼が生前詠んだ慰霊詩碑がある。慰霊碑には戦地に行き、帰らぬ人
となった兵士への思いが込められた句が刻まれていた。
”魂魄飛びて ここ美しき 故里へ歸る
帰還の日を夢みながら、戦地で散っていった兵士の魂がここに飛んできて、美しい自分の
故里で眠っている ---とわに安らかに --- というような意味であろう。
井上先生が詠んだ慰霊詩碑
墓地を辞し、下に降りて天城湯ヶ島温泉会館を訪ねる。温泉が目的ではない。昭和の森会館
からこちらに移されてきている、敦煌莫高窟275窟の”弥勒菩薩交脚像”を見たかったからである。
この像の前には次のような解説がついていた。
莫高窟が最初につくられたのは、前秦時代の366年とされている。その後北涼、北魏、隋、唐、
五代、西夏、元など10王朝にわたり、1000年もの間つくり続けられた。しかし明代になると
西域の勢力が 増し、嘉峪関より西を放棄したため、忘れ去られた。
その後1900年に第17窟が発見され、再び脚光をあびる。この像は、現存する莫高窟の中では、
初期の北涼時代につくられ、足をX形に組む交脚像は北朝の像だけにみられる。 井上先生は
この像がとても好きでした。
”弥勒菩薩交脚像”レプリカ 北涼時代(AD397年~439年)
私の古いノ-トに”交脚弥勒”と題する井上靖の詩が書きとめてある。
北魏という北方からやってきた民族の正体はよく判っていない。
4世紀に国を樹てて、大同に都しあの大きな雲崗石窟を鑿っている。
百年にして洛陽に遷都し、ここでは龍門石窟を営み、そして6世紀頃
消えている。本当に消えて跡形ないのだ。
そうした北魏の形見を一つ選ぶとなると、それはおしゃれな交脚の
弥勒さまということになる。
足を十字に交叉した殆んど信じられぬような近代的な姿態は、ふしぎに
雷鳴碧落、隕石、そんな天体に関するものを連想させる。星座にでも
座っているお姿かもしれぬ。
当然のことながら、この弥勒さまはその民族と運命を共にし、星の如く
飛んで 散乱し、また消えている。消えるほかなかったのだ。
だから日本にも伝わってきていない。
私は1997年8月と2001年6月に、敦煌の莫高窟を訪ねている。その頃から、彼がこの像を
好きだったことを知っていたので、興味深くこの像を眺めたことを覚えている。ただ私が一番
好きなのは、盛唐時代につくられた45窟。如来を中心に左右に阿難、迦葉など7体の像が
立ち並んでいる姿は、美術華やかし 頃の唐の時代が偲ばれ、とても印象に残っている。
敦煌莫高窟で一番先に取り上げたいのは、蔵経洞と呼ばれる16窟と17窟。
この窟をつなぐ甬道の壁に、夥しい書画、仏画、経典、古文書が封じ込められていたのである。
しかしこの東洋史を揺るがすような貴重な史料が、いつ頃、誰が、何の目的でここに隠されて
いたのか ---井上靖の小説”敦煌”は、この疑問がモチ-フになっている。
私が敦煌を訪ねた時、すべての古文書、書画などが持ち出され空になった17窟には、16窟を
造った僧侶の像が置かれ、背後には樹下に立つ侍女と尼僧の壁画が描かれていた。
天城湯ヶ島温泉会館から”上の家”の前を通り、ぶらぶらと歩きながら小説”しろばんば”の
洪作たちがよく泳ぎに行った、”へい淵”を訪ねた。街並みを過ぎるとのどかな田園が広がり、
小さな橋の下に長野川が 流れていた。
畑に降り、あぜ道からわさび田の横をすりぬけると、清冽な小川が流れるところに出た。
そこは小さな渓谷となっており、ゴロゴロところがる石の間を、澄んだ水がかなりの勢いで流れ
ていた。おそらくここが”へい淵”なのだろう。
”しろばんば”の洪作たちが泳いだ”へい淵”
しかし多勢の子供たちが泳ぐにしては、あまりにも浅く狭い。洪作たちが遊んでいた当時から、
すでに100年近い歳月が流れている。その間台風などの自然災害などで、”へい淵”も大きく姿を
変えたのにちがいない. --- 私が子供の頃よく泳いでいた郷里の三隅川も、今は当時を偲ぶこと
も出来ないほど姿かたちを変えてしまっているのだ。
昼食を終え、修善寺行きのバスに乗った。私は車窓から流れるのどかな伊豆の風景を、
いつまでも眺めていた。
その昔文人墨客が、伊豆の踊子の旅芸人が、旅人が、村人が、そして六さん率いる洪作と
おぬい婆さんを 乗せた馬車が、 この道を行き交ったのであろう --- そんな思いを馳せ
ながら --- 。
ー 了 ー
2013年 4月 4日 千葉市 斎藤泰三
私のアジア紀行 http://www.taichan.info/
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