松本清張の記念碑を訪ねて 2023年3月27日~30日(亀嵩、岩見銀山) 松本清張の作品は膨大で全国広範囲に亘る。それぞれの風景描写も巧みで楽しい、現地に 行ってみたくなるほどだ。 さほど数は多くないが、ごく一部の小説にまつわる記念碑が全国に点在する。その多くは 現地の人たちの要請により清張自身が揮毫したものが石碑として建てられている。 なかには彼が色紙にして贈ったものを、受贈者本人が石碑にして刻んだものもある。 今回私が訪ねたところは、名作”砂の器”の舞台となった奥出雲の亀嵩、岩見銀山街並みと、 中村ブレイス前に造られた歌碑などである。 砂の器の記念碑 亀嵩湯野神社 早朝千葉を出発、6時発の新幹線のぞみに乗車、岡山で特急やくもに乗り継ぎ宍道まで行き、 そこから木次線に乗り換えて夕刻、亀嵩のひとつ先の出雲横田に降り立った。乗り継ぎ間隔が 長く、自宅を出てから11時間かかっている。 木次線は宍道から備後落合を結ぶロ-カル線。備後落合から先は芸備線につながるが、こち らも本数は木次線よりさらに少なく、乗り継ぎ間隔も長いロ-カル線である。 宍道からしばらくは手を伸ばせば届きそうな狭い山間のなかを走っていたが、やがて視界 広がりのどかな田園地帯に入る。 辺りはちょうどサクラが満開の時期を迎え、家々の前や土手に植えられたものが華やかに 花開き眼を楽しませてくれる。その上には波状にうねる山々の間から無数のヤマザクラが顔を 覗かせ、山野をまだら模様に染めている。 集落の屋根は赤い石州瓦や他の地域でつくられた黒い瓦で葺かれ、春の陽光に光り輝いて いた。 赤い石州瓦や黒い瓦で葺かれた集落の屋根 この奥出雲は辺境の地にあり暗いイメ-ジを抱いていたが、意外と明るい。檜皮葺の家など 1件もない。道路もよく整備されて車の移動が便利になり、情報も自由に入ってくることから、 ここで暮らす人たちの生活も豊かになっているのだろう。 列車は木次を過ぎてこの鉄道路線の後半に入り、日登、下久野、出雲八代、出雲三成を通過、 亀嵩駅の前に来たところでカメラを向けた。 亀嵩駅(中にそば屋あり) 松本清張がひとり旅で備後落合で宿をとっていたとき、老夫婦がズ-ズ-弁で長々としゃべる 話し声が聞こえ、なぜこの出雲地方で東北地方と同じ言葉が使われているのか不思議に思った という。ズ-ズ-弁は語尾がはっきりしないため、亀嵩も東北の亀田も(秋田県の羽後亀田)同じ ように「カメダ」に聞えるのである。これが小説「砂の器」のヒントになったといわれる。 しかし、いまこの出雲地方でズ-ズ-弁をしゃべる人はほとんどいないのではないか.....。 私が泊まった宿の人も、タクシ-の運転手も、道端で出会った高齢の人も標準語で話してくれた。 もっとも老人仲間では、昔のズ-ズ-弁でしゃべる人たちがいるのかもしれないが.....。 この日は出雲横田で宿をとった。4畳半の部屋だったがこぎれいで、客との応対も気持ちよく 料理も美味しかった。 出雲横田の浪速旅館 駅前の通りは白壁の家が建ち並び、駅舎は神社のようなしめ縄で飾られ、神話の国らしい 出雲の雰囲気を感じる。 出雲横田駅 翌日3月28日は、タクシ-で湯野神社に行った。 神社横には松本清張が揮毫した「砂の器舞台の地」と刻まれた記念碑が置かれ、朝日を浴び ていた。 小説”砂の器”は昭和35年(1960年)読売新聞に連載されたものだが、この記念碑は23年後の 昭和58年(1983年)に建立された。それから40年の歳月を経ている。 しかしこの碑は石で造られているためさらに永く残り、地元の人たちやここを訪れた人たちに よって、これにまつわる話が半永久的に伝えられていくことであろう。 松本清張の作品は膨大にあるが、そのなかでも”砂の器”はベストワンに挙げたい不朽の名作で ある。 昭和49年(1974年)には脚本 橋本忍、山田洋次、監督 野村芳太郎によって映画化され 大ヒット、さらに評判を高めた。映画”砂の器”は、日本映画のなかでも屈指の名画である。 砂の器の記念碑(亀嵩の湯野神社) 神社の鳥居から上を見上げたとき、映画"砂の器”で亀嵩の三木巡査を演じる”緒形拳”が、 放浪してきた父子を探すためこの階段を駆け上がって行ったシ-ンを思い出した。 映画”砂の器”で緒形拳が駆け上がって行った階段 湯野神社は出雲風土記などによると、千数百年前につくられた古い歴史のある神社だという。 境内は天をつくような無数の杉に覆われている。階段を上ると奥に拝殿が見えてきた、一礼。 湯野神社の拝殿 拝殿の横に周ると一段高くなったところに本殿が見え、その床下に空間があった。 映画”砂の器”で、寝ていた放浪者の”加藤嘉”が駆けつけた巡査の方を見ていたシ-ンは、 おそらくこの床下ではないかと思われる。放浪者は半身起き上がって驚きながら巡査の方を 見つめ、巡査はやさしい眼を向けていた一コマである。 映画”砂の器”で撮影されたと思われる床下の空間 神社の裏道を降りて行くとのどかな風景が広がっていた。日本の里山らしい懐かしさを感じる。 湯野神社裏の風景 湯野神社から約3km余り先にある亀嵩駅に向かう。 広い道から横道に入ると古びた家々が建ち並ぶ通りがあり、村上旅館が眼に入った。 老舗の古い旅館だが料理がおいしいというので先日予約の電話をいれたが、今は営業して いないということだった。 建物は木造づくりでレトロな雰囲気がある。しかし扉は締め切られ営業している気配は なかった。 小説”砂の器”にも出てくるが、この旅館主の先祖の村上吉五郎は江戸時代そろばんの技術を 習得し、雲州そろばん作りを始めた腕のいい大工だったという。 村上旅館の外観 再び広い道を歩いてゆくと、亀嵩小学校の前に亀嵩駐在所があった。小説では蒲田操車場 で殺害された三木巡査が勤務していたところである。建物は新しく最近建て替えられたものだ と思われる。 亀嵩駐在所 さらに歩いて行くと亀嵩算盤合名会社の白い建物が見えてきた。広い敷地に横長に建てられ ている。大正11年(1922年)創立だから、100年余続く老舗の算盤会社である。 今どきソロバンと思われるが需要はあるのだ。そろばん教室は全国にあるらしい。 確かに頭の体操になるし、暗算は”そろばん”を頭に浮かべて計算する。 亀嵩の雲州算盤は美しい。そろばん玉はカバノキ、ツゲ、イス、黒檀、紫檀、梅などの木で つくられるという。 小説”砂の器”の舞台となった亀嵩の方言は、この地域の”方言の話者”により校正されたが、 その際、亀嵩算盤会社の当時の代表社員若槻氏も協力したという。この縁により、著者と若槻 家との交流が始まったといわれる。 亀嵩算盤合名会社の社屋 やがて亀嵩駅に着いた。 駅舎の壁には松本清張の小さな写真が貼ってあった。亀嵩駅のホ-ムで撮られたものである。 昭和58年(1983年)とあるから「砂の器記念碑建立」の日にこちらに来られたのだろう。 この時彼の年齢は74歳。それから40年の歳月を経ている。写真はかなりくたびれていた。 駅舎にはそば屋があったがこの日(火曜日)は休業日とあって営業していなかった、残念。 近くに食堂はもちろんコンビニもない。ザックに残っていたわずかな菓子をつまんで昼食と する。 亀戸駅(表側) 1時間20分待って電車がやってきた。1両のワンマンカ-である。とりあえず木次まで行く。 その先は乗り継ぎになる。時間は13時24分。 木次行きワンマンカ- 14時08分木次に着く。30分の待ち合わせ時間があったので駅近くを歩いた。 ちょうどサクラが満開となり、河畔そばの土手では大勢の人たちで賑わっていた。灯篭が 飾られ屋台も立ち並び、家族連れや若者たちが春の花見を楽しんでいた。 木次の河畔で花見を楽しむ人たち 木次の散策を終えて電車で宍道まで行き、山陰線に乗り継いで夕刻大田市に着く。 ホテルに入り、この日と明日にかけて連泊する。 3月29日朝大田市駅前からバスに乗り大森代官所跡に降りて、中村ブレイス前に立ち寄る。 中村ブレイス 玄関前には松本清張が揮毫した石碑が建てられてあった。 1986年3月清張77歳の時、この会社を訪れてその仕事に感銘を受け、その想いを色紙に して社長夫妻に贈った言葉を刻んだものである。色紙を石碑にして建て替えたのは社長夫妻 だそうだ。 「空想の翼で駆け 現実の山野を往かん」.....この句は中村ブレイスへの激励の言葉だろうが、 万人にも通じる名言のようにも想える。ただ、この意味を文章で表現するのは難しい。 この歌碑がもつイメ-ジを、想像するだけでよいのではないか...。 空想の翼で駆け 現実の山野を往かん ”松本清張” これは石碑である、壊れない、永久に残る。ここの社員はいつもこの言葉を心に刻み、仕事 の糧にするであろう。 中村ブレイスは義肢装具メ-カ-。人工乳房や手や指の人工補正具を制作する会社である。 入り口には簡単な掲示板が掲げてあった。 中村ブレイス掲示板 中には入れませんと書いてあったが、前に立つと自動ドアが開き清張が揮毫した色紙と彼の 写真が見えた。是非撮りたいと思った。従業員に許可を得てその写真をカメラに収める。 しかし、ガラスに反射して光が入ってしまった。 松本清張の色紙 左はおそらく社長の奥さん、右は松本清張 中村ブレイスを離れ、大森の入口から街並みを眺める。路地の両側には古民家が整然と建ち 並んでいた。中村ブレイスは古民家を60件位を改修再生したというが、この通りにあるのかも しれない。 大森の街並み 街中に入り、龍源寺間歩(坑道跡)に向かってゆっくりと歩いて行く。3km余あるらしい。 通りには古民家の他に白壁の武士屋敷、銀行、郵便局、寺院、旧裁判所、商家などが軒を 連ねる。自家製のごまどうふの店もあつた。 人通りは少ない、静かである。歴史を感じる。中世の街にタイムスリップしたような気分に なる。 旧裁判所 古民家 古民家通りをぬけると視界開け、山を背にした家々の周りに咲く、満開のサクラが眼に入る。 さらに行くと岩見銀山銀の店・工房があった。銀細工を展示販売する店らしい。 家の周りに咲く満開のサクラ 銀の店・工房 ここからゆるやかな坂道になる。鬱蒼とした樹林が辺りを覆うようになり、道沿いに小さな 渓流が走る。少し疲れたが、やがて龍源寺・間歩(リュウゲンジ・マブ)の入口に着く。 岩見銀山の坑道は、鎌倉時代の1309年に発見され様々な変遷を経て1943年閉山されるまで、 700余の坑道が穿たれたといわれる。そのうち現在一般に公開されているのは、龍源寺間歩と ツア-形式で週末のみ見学できる大久保間歩である。 龍源寺間歩の入口付近 坑道入口は受付から降りた下にあり、付近にはガイドの話を聞く10数人の観光客がいた。 受付の手続きを済ませ坑道に入って行く。 龍源寺間歩入口 入口から足早に歩いて行く。坑道にはライトが照らされ歩きやすいが、天井が低くなって いるところは腰をかがめながら進んで行く。坑道の岩石は石英安山岩で、この鉱脈に沿って 銀が蓄積されたといわれる。 入口から少し進んだところ 途中横に穿たれた坑道もあった。ひおい坑と呼ばれるところで、鉱脈を追って掘った坑道だ という。人が這って行くような狭い坑道なのだろう。地図によると、こうした横坑はたくさん 見られる。この間歩には垂直に掘られた100mの竪坑もあるらしい。 坑道の長さは600mだが、見学できるのは157m。出口まで連絡通路を通り116m歩くと外に 出られる。歩程計273m。 鉱脈を追って掘られた坑道(横坑道) 外に出て様々な樹木が生い茂る森林の道を歩いてほどなく、山腹に高く立つ神社が見えて きた。佐毘売上神社(サヒメヤマジンジャ)らしい。16世紀に創建された鉱山の護り神で、地元の 人たちは親しみをこめて、”山神さん”と呼んでいるという。深山に佇む風格を感じる。 佐毘売上神社 のどかな里山を歩いて大森バス停まで行き、そこから岩見銀山世界遺産センタ-を訪ねて ひと通り見たあと、バスに乗り大田駅に着く。これで今回の旅は終わった。 のどかな里山 石見銀山 世界遺産センタ- 松本清張 鳥取日南町の記念碑 2013.4.18 私は先年といっても今から10年前になるが、2013年4月鳥取日南町矢戸にある松本清張の 記念碑を訪ねたことがある。 この記念碑は、生山駅から7km歩いた道脇の木立にひっそりと佇んでいた。日南町矢戸は 彼の父親の故郷である。 石碑には自筆で「幼き日 父の手枕で聞きし その郷里 矢戸 いまわが目の前にあり」と 刻まれている。石碑の除幕式は昭和59年(1984年)4月18日に行われた。 鳥取日南町にある松本清張の記念碑 昭和30年に発表された”父系の指”の一節には、父親への想いが次のように綴られている。 私は幼いころから何度も父から矢戸の話を聞かされた。矢戸は生まれた在所の名である。 父の腕を手枕にして、私は話をきいたものであった。 「矢戸はのう、ええ所ぞ、日野川が流れとってのう、川上から砂鉄が出る。大倉山、船津山、 鬼林山なぞという高い山がぐるりにある。船通山の頂上には根まわり五間もある大けな栂の 木が立っとってのう、二千年からの古い木じゃ、冬は雪が深い。軒端まで積もる」。 その話をきくごとに、私は日野川の流れや、大倉山の山容や、船通山の巨大な栂の木の格好 を眼の前に勝手に描いたものであった。その想像の愉しみから、同じ話を何度もきかされても、 飽きはしなかった。 松本清張が将来小説を書くきっかけになったのは、幼いころに聞かされたこの話が原点に あったからなのかもしれない 石碑の原本は色紙に書かれている。 ― 了― |