ミャンマ-の思い出 2001年11月28日~12月8日 バガンの寺院群 東南アジアの西部に位置するミャンマ-は南北に長い国である。チベット高原の南端から発する エ-ヤワディ-川がヒマラヤ山脈の谷間を流れ下り、ジャングルを貫いて広大なデルタ地帯を 形成しながらマルタバン湾に注いでいる。その長さは2170km、流域は411000平方キロメ-トル に及ぶ。この大河はミャンマ-を北から南に縦断し、この流域に暮らす大勢の人々の生活を支え 続けているのである。 国境は北東に中国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと接し、 約68万㎢の面積をもつ国土には、ミャンマ-の3分の2を占めるビルマ族の他に、シャン族、 カレン族、カチン族、カヤ-族、ラカイン族、モン族、ヤカイン族、チン族、パオ族、 インダ-族など100を越える少数民族が、独自の文化を守りながら暮らしていると言われる。 人口は約6400人。国民の多くは上座部仏教を信仰する敬虔な仏教徒である。 気候は北部が温帯、中部と南部は高温多湿な熱帯に属しているが、乾期の10月から2月にかけて は日本の初夏のように乾燥して過ごしやすい。中部の山岳地帯では朝晩肌寒さを感じるほどだ。 私はツア-で、2001年11月末から112月初めにかけてミャンマ-を訪ねたことがある。 それからすでに13年の歳月を経ているが、ミャンマ-の人たちの素朴な表情が今でも忘れられ ないでいる。また旅行の最初から最後まで世話してくれた、現地ガイドやドライバ-、アシス タントのにこやかな接し方にも心和む思いがした。 当時メモはまったくとっていなかったが、幸い添乗員のスケジュ-ルメモと紙写真があった。 それをたよりに遠い記憶をたどりながら書いていきたいと思う。 11月28日、成田からバンコクを経由して夕刻当時のミャンマ-の首都であったヤンゴンに着く。 空港では女性ガイドのニラ-キンさんが出迎えてくれていた。なかなか日本語が上手い、ヤンゴン 大学で日本語を勉強したらしい。その日は日航ロイヤルホテルで1泊、翌日飛行機で中部山岳 地帯にあるヘイホ-空港に向かった。 現地に着きのどかな高原の道を歩いて行くと、バスの前でドライバ-とアシスタントの少年が 待っていた。二人ともニコニコしながら笑顔を向けている。私たちがバスに乗ろうとすると、 その少年がすばやく踏み台を据えてくれた。私は一瞬”ヘエ~!”…と思った…こんなことは日本 でも経験したことがない。足をかけるバスの位置が多少高いということはあるにせよ、なかなか の心使いだ。ドライバ-は制服だったが、少年は民族服のロンヂ-をまとっていた。 バスに乗りヤシやマンゴ-、バナナ、パパイアなどの木々が生い茂るのどかな農村地帯を走る こと2時間、タウンジ-の街に着く。 ここでカック遺跡に案内してくれる女性ガイドのナン・ティエイ・ピュ-さんと一緒になる。 彼女はパオ族で、法律を勉強している大学生と聞いたように思う。肌の色は一般のミャンマ-の人 よりも白く、日本人と変わらない。パオ族のシンボルなのだろう、彼女はオレンジ色のタオルの ようなものを頭に巻いていた。 カック遺跡は長い間入域できないエリアだったが、つい最近パオ族と政府が和解し、ようやく 観光が許されるようになったらしい。彼女がつき添ってくれないと、カッグ遺跡には入れないの である。 ニラ-・キンさんとパオ族のナン・ティエイ・ピュ-さん 再びバスに乗り熱帯雨林の細い山道をぬけると、やがて明るい草原に出た。菩提樹の森に 囲まれた草原には、数頭の牛に荷物を運ばせて行く農家の人や、大きな荷物を頭に担いで歩いて いる人たちの姿があった。 菩提樹の森 牛車で荷物を運ぶ人 バスから降り歩いて行くと、前方に無数の仏塔が見えてきた。カック遺跡である。 境内では幼い少年僧たちが囲いのレンガ石に座り、珍しそうに私たちを見ていた。まだあどけ ない顔だが6~7歳位だろうか…。ミャンマ-では、男の子が6歳から10歳位になると一定期間 僧院生活を経験するという。期間はそれほど長くはないということだが、昔から守られている 伝統的な慣習らしい。 カック遺跡入り口 僧院生活の少年僧たち 昼食後カック遺跡群の中に入る。まさに仏塔(パゴダ)の林である。いくつあるか分からない。 500羅漢とか千仏とか耳にすることはあるが、その比ではない。数もそうだがスケ-ルが違う。 この仏塔は一つ一つが寺院といってもいいかも知れない。その高さは5~6メ-トルから 十数メ-トルのものまであり、どの仏塔も整然と立ち並び、鋭い尖塔を青空に突き上げていた。 それにしてもよくこれだけ多くの仏塔を建てたものだ。 あとで知ったことだが、このパゴダの建立は12世紀頃、現地住民のパオ族とシャン族が1塔 ずつ寄進したことから始まったらしい。16世紀から18世紀にかけてはさらに拡大され、現在では 2500基以上のパゴダが林立するようになったという。 カック遺跡のパゴダ群 カック遺跡のパゴダ群 説明するガイドのニラ-キンさん カック遺跡のパゴダ群 ガイドのニラ-キンさんは、このパゴダについて一生懸命説明してくれていたが、私は真面目 に聞いていなかったのだろう、内容についてはほとんど記憶にない。ただひたすらパゴダ群を 眺めながら歩いていたように思う。 ちなみに彼女が着用しているものは民族服ロンヂ-。ミャンマ-では男女に関係なく着用する 巻きスカ-トである。むし暑い日本の夏の部屋着としてもいいのではないか…。 カック遺跡からホテルに向かう途中、パオ族の民家に案内された。家は竹や木、草の葉などを 利用してつくられていた。小さい空間には裸電球が吊るされ、壁と土間に炊事用具が、部屋の隅に ベッドが一つポツンと置かれてあったように思う。突然の訪問だったが、中にいた中年の女性は 笑顔で迎えてくれ、お茶を出してくれた。いかにも貧しそうな家だったが、森の中に住むパオ族の 一般の民家なのだろう。 外では子供たちが遊んでいた。どの子供もサンダルを履き、着ている服も意外に小奇麗だった。 女の子はホッペに白い粉のようなものを塗っていたが、これはミャンマ-の女性のおしゃれなの だそうだ。この粉は”タナカ”と呼ばれる木を、水で湿らせた石板ですり下ろしてつくられるもの らしい。塗るとひんやりとした清涼感があるので、腕に塗っている人も多いという。ミャンマ- では”タナカ”を塗っている若い女性を何人も見かけている。 パオ族の民家 パオ族の子供たち 民家を辞して未舗装の山岳地帯の道を3時間ほど走り、日も暮れた18時30分過ぎ、インレ-湖畔 のホテルに着く。 11月30日 この日はインレ-湖の観光。ここは標高1328mの高原にあり、少し肌寒い。早朝7時ホテルを 出発して湖畔の船着場に行くとボ-トが待っていた。インレ-湖は南北に22km、東西に15km 細長い地形をしている。私たちは二手に分かれてボ-トに乗り、驚くほどの猛スピ-ドで水上 のパゴダに向かった。湖上の景観もなかなかよい、ところどころ浮島や水上家屋が点在、ふしぎな 網で魚を獲っている漁師の姿もあった。 高床式水上家屋 ふしぎな網で魚を獲る漁師 やがて水上パゴダが見えてきた。ファウンド-ウ-パゴダと呼ばれる寺院である。まるで水上 にそびえる古城のようにも見える。ご本尊はこの寺院の二階に祀られている。人間の形ではなく、 大小の球体を組み合わせたような不思議なご本尊だ。金の団子に似てるといってもいいかもしれ ない。このご本尊に手を合わせ、真剣に祈りを捧げている人たちの姿があった。 水上パゴダ ご本尊に祈りを捧げる人たち 水上パゴダからガ-ペ-僧院に向かう。細い水路に出たところで船はエンジンを止め、船頭が 竹竿を使いながらゆっくりと進んで行く。ここはインダ-族が水上生活を営むエリアである。 水路脇には水上浮き畑がつくられ、トマト、キュウリ、ナス、ウリ、トウガラシ、インゲン、 オクラなどあらゆる野菜が栽培されていた。透かしてみると根は水中に浮かんでいる。 インダ-族の水上野菜畑 水路では子供たちがカヌ-を漕いでいる姿が見られた。前方からやってくる子供もいれば、 うしろからゆっくりと通り過ぎていく子供もいる。男の子もいれば女の子もいる。見るとカヌ- の先端に片足で立ち、もう一方の足で器用に船を操っているのだ。中には手を振ってくれる子供 もいた。何とものどかな風景だ。どこかノスタルジ-を感じるような心安らぐ思いがする。 片足でカヌ-を漕ぐインダ-族の子供たち 私たちに手を振るインダ-族の子供 インダ-族の高床式家屋 高原の湖の生活…浮島に繁茂している竹や葦で高床式家屋をつくり、野菜を栽培し、カヌ-で 魚を獲る。足りないものは収穫した野菜と交換するか、それで得た資金で買えばよい…ほとんど 自給自足の生活だ。ここには自然と暮らす素朴な生活がある、平和がある、幸せがある、人間 らしい生活に満ちている、文明の機器などなくてもいいのだ…湖上を渡る風が気持よい…。 水路をぬけるとガ-ペ-僧院が見えてきた。湖上に建つ木造の僧院で、別名”ジャンプする猫の 僧院”とも呼ばれる。この僧院に住みついている猫をけしかけてジャンプさせ、僧侶が持つ輪っか をくぐらせるという演出も見せてくれた。 本堂には釈迦の涅槃像と、祈りをささげる弟子たちの仏像が祀られていた。数百年の歴史をもっ ている仏像らしい。 ガ-ペ-僧院 内部 ガ-ペ-僧院 釈迦の涅槃像と弟子の仏像 ホテルに帰り昼食を済ませたあとビンダヤに向かう。1時間半ほど走りアウン・バンという 小さな街で休憩。路上ではバザ-ルが開かれ、日常の食料品や新鮮な野菜類、果物などが並べら れてあった。店の人も行きかう人も女性が多い。ロンヂ-を巻いて麦わら帽子やスゲ傘をかぶり、 中には頭に荷物を載せて歩く人も見られた。定期的に行われている庶民の市場なのだろう。 アウン・バンのバザ-ル 休憩を終えてゆるやかに坂道を上って行くと、のどかな農村地帯に出た。ちょうど刈り入れ時で、 大勢の農家の人たちが稲穂を叩いていた。ガイドのニラ-キンさんが気を利かせてバスを止めて くれた。何とも懐かしい風景だ、子供の頃の日本の農村を思い出す。彼らは私たちに人なつっこい 笑顔を向けている…いかにも親しみを感じる笑顔だ。よく見ると彼らは足元に斜めにした小さな台 を置き、その上に刈り取った稲穂を叩きつけ籾を獲っていた。集められた籾は袋に詰められ、水牛 の背か人の手で運ばれるのだろう。すべて手作業である。遠くに眼をやっても農機具らしきものは どこにも見当たらない。そこには数頭の水牛がのんびりと草を食み、頭に稲穂の束をのせてこちら にやってくる人たちの姿があった。 稲穂をたたく農家の人たち 稲穂の束を運ぶ人たち のどかな農村地帯を通り過ぎると、やがて湖畔に散らばる集落が見えてきた。ビンダヤの街だ。 ここは標高1176m、インレ-湖から約150m下ってきたことになる。ビンダヤ洞窟寺院は街の 中心部から離れた丘陵の中腹にあつた。 洞窟寺院の参道入り口から裸足になり、屋根で覆われた急な階段を上っていく。階段は200段 あり素足に応える、かなりキツイ。上っていくにしたがい眼下に白いパコダ群が見えてくる。 カンタオン寺院らしい。 階段の外にもいくつもの白いパゴダが立ち並んでいる。やがて上前方に岸壁にそそりたつ洞窟 寺院が見えてきた。振り向いて下を見ると、今まで上ってきた青い屋根の階段が長々と続いて いた。 岸壁にそそりたつ洞窟寺院入り口の建物 岸壁に建つ白いパゴダ 洞窟寺院へと続く青い屋根の階段 洞窟内に入ると金色に輝くパグダが置かれ、その奥には無数の仏像が祀られていた。 この仏像の寄進は11世紀に始まり、16~17世紀に最も多くその数を増したと言われる。 洞窟内には現在8094体が納められているというからスゴイ。その時代時代に生きた人々の、 信仰の深さに驚くばかりである。仏像はすべて金色に塗られ、荘厳な雰囲気を漂わせていた。 洞窟内に祀られた無数の仏像 12月1日 この日はビンダヤからメッティ-ラ、ポッパ山を訪ね、バガンに向かう。かなり長い行程に なる。 朝6時ホテルを出発する。亜熱帯とはいえここはミャンマ-のほぼ中央部の高原にあり、朝は冷え 込む。1時間20分走ったところでカロ-のカフェに入り、コ-ヒ-を飲んで体を温める。 カロ-の標高は1320m、シャン高原の山間にある街で、イギリス統治下時代から避暑地として 親しまれてきたところらしい。 カロ-を出てピェニャウ村でバザ-ルを見たあと、昼前にヒュンマ-ベン村のレストランで昼食 をとる。 ヒュンマ-ベン村のレストラン レストラン庭のパパイア 食事は屋外レストランに用意されてあった。高原の風がすがすがしい。ここで私はウイスキ- の小瓶を買って飲んでみたが、まろやかな舌触りでなかなか美味しかった。ラベルはジョニ- ウオ-カ-のそれによく似ていたが、ウイスキ-の製法はおそらくイギリス統治時代に伝えられ たものだろう。値段は70円位だったと思う、とても安い。 レストランの庭にはたくさんのパパイアが茂り、葉が風に揺れていた。果実はまだ塾してなく 青かったが、ミャンマ-の人は青いパパイアでも、野菜として炒め物などの料理に使うらしい。 昼食を終え40分ほど走り、メッティ-ラに着く。国土のほぼ中央部に位置するこの街は、古く から交通の要衝にあり、今でもヤンゴンとマンダレ-を結ぶ長距離バスは必ずここを通る。 第2次世界大戦の末期、この街の周辺で日本軍と連合軍との激しい戦いが繰り広げられ、双方 合わせて10万人の人が死傷し、地元の人たちも巻き添えで大勢の人が亡くなったという。 この地に、戦争で亡くなった人たちを弔い、世界の平和を祈るために「ナガヨンパゴダ」と 呼ばれる”世界平和パゴダ”が建てられ、屋内には日本人慰霊碑が祀られてあった。 屋内の壁には「ビルマ方面 戦没者の霊」、あるいは「ビルマ方面 戦没者供養」と書かれた 黒い縁どりの額縁が数多く掲げられてあった。おそらく遺族の方や、生きて帰還した戦友たちが 供養したものだろう。 ナガヨンパゴダ 戦没者供養の額縁 中の見学を終え外に出てみると、威厳のある人物像が眼に入る。私が見上げていると、 ドライバ-がやってきて「ジェネラル・アウンサン!」…と教えてくれた。いかにも誇らしげだ。 アウンサン将軍は「ビルマ建国の父」と呼ばれ、今でもミャンマ-の人たちから深く敬愛され ているビルマ独立の基礎を築いた軍人であり、政治家でもあった。 太平洋戦争の初期は日本軍に協力、民族独立運動の先頭に立ち奔走していた。しかし1944年反日 に転じ、戦後も独立達成に努めていたが、1947年政敵に暗殺される。まだ32歳の若さだった。 民主化運動指導者のアウンサンス-チ-さんは彼の長女である。 アウンサン将軍像 再びバスに乗り、ゆるやかに下りながら平野部に入って行く。途中ラッパンビィヤ村で休憩 したあとさらに走って行くと、やがてなだらかな富士山のような山が見えてきた。標高1518mの ボッパ山だ。 その右手には切り立った塔のような山が聳え立っている。まさに天空に突き出した城塞のように も見える岩山だ。タウンカラッタと呼ばれる岩塔で、ここにはミャンマ-の土着宗教である精霊 ナツ信仰の総本山があるところだそうだ。 ボッパ山(左)とタウンカラット山 タウンカラット山 山頂には金色のパゴダが立ち並び、大勢の参拝客が訪れていた。参道にはレストランや土産 物屋もあり、小さな門前町のような雰囲気さえ感じる。日没の夕日を見て下山、一路バガンに 向かい19時30分ホテルに着く。 12月2日 昨晩はバンガロ-タイプのホテルに泊まった。周りはヤシ、バナナ、マンゴ-などの木々が 生い茂り、庭から平原へと続く道があった。早朝庭に出てみると数人の男の子供たちがかけよ ってきた。 手にはTシャツ、毛糸で編んだ手提げバッグ、仏具、装飾品などを持っている。その中の一人が 「オジさん、これ1ドル、こちら2ドル」…とカタコトの日本語で話しかけてきた。まだあどけ ない顔をしている。 「いらないよ、ほしくない」…と断ってみたが、手提げバッグに眼がいった。これなら何か役に たつかもしれない。青地に赤や白い線が入った毛糸のショルダ-バッグである。 「これはいくらだ?」 「3ドル」…情にほだされて買ってやった。バツグはさっそく使ってみたが、カメラや小物を入れ るときになかなか便利だ。このバッグ、まだわが家の押し入れの奥にころがっている。 「学校は?」…と聞くと 「これから行く」…ということだった。 この日は終日バガンの観光である。自転車や馬車が行きかう街をぬけて、バガンのオ-ルド タウンに出たところで思わず眼を見張る。広大な大平原に無数の寺院群が広がっていたのだ。 見渡すかぎりレンガ色や白い仏塔が立ち並び、青空に丸い尖塔をつき上げている。 その数は3000以上あるという。まさに壮観の一語につきる。これがカンボジアのアンコ-ル ワット、インドネシアのボロブドゥ-ルとともに世界の仏教遺跡のひとつとされるバガンの 寺院群である。 バガンの仏教遺跡群 この寺院群は11世紀から13世紀につくられたといわれる。バガン王朝のそれぞれの時代に、 長い年月をかけて一つ一つつくり上げられたものだろう。それにしてもどうしてこんなに… ふしぎな気がする。思うに、その時代時代の仏教を信仰する人々の熱い思いが引き継がれ、積み 重ねられてこれだけの寺院群が出来上がったのにちがいない。もちろん上座部仏教に帰依する、 当時の王の力があったのは言うまでもない。 最初に訪ねたのは11世紀に建てられたマヌ-ハ寺院。入口には”リン”と呼ばれる大きな仏具が 置かれてあった。リンというのは、読経を始めるときに”チ~ン”と鳴らすあの仏具のことらしい。 五右衛門風呂がいくつも入りそうな巨大な釜のようにも見える。 次の部屋には人形のように飾られていた仏像があった。ミャンマ-の仏像の表情は、日本のそれ とはまったく違う、どこかコミカルな感じさえする。 金色に輝く巨大なリン 人形のよに飾られていた仏像 さらに奥に入って行くと、大きな涅槃像と高さ16メ-トルもある3体の座像がそびえ立って いた。 いずれも建物内部の空間いっぱいに造られて窮屈そうに見えたが、これはこの寺院を建てた マヌ-ハ王の、人間は死ぬことによってのみ自由になれるのだ…という彼自身の仏教観による ものだろうといわれている。 マヌ-ハ寺院の高さ16メ-トルの座像 次に11世紀末に建てられたとされるシュエサンド-パゴダに行く。5層のテラスをもった美しい パゴダである。そびえる塔の台座は2層の8角形になっている。 階段を上り、少し高いところから広大な平原を眺めてみた。眼の前に広がる大地には緑の木々 の茂みに無数のパゴダが林立、ところどころ麦畑のようなところも見える。遠くに眼をやると なだらかな山々が連なり、手前にエ-ヤワディ-川がゆったりと流れている。 大地は赤い、パゴダも赤い。人影はまったくない、実に静かである…悠久の時の流れを感じさせ てくれる風景だ…。 バガン遺跡群の風景 次に訪ねたのがシュエズィ-ゴォンパゴダ。ア-ナンダ寺院とともにバガンを代表するパゴダ だそうだ。 境内はかなり広く、金色の塔や建物がまぶしい。バガン王朝の最盛期の11世紀半ばに着手され たが規模があまりに多きすぎたため、当時の王の在位中には完成せず、次の王の時代に完成した という。 屋内の四隅には高さ4mはあろうかと思われる仏像があった。いずれも立像で、スックリと立っ ている姿はなかなか美しい。しかし日本に見られる仏像の顔とは随分違う。 仏像が造られるようになったのは、釈迦が入滅してから500年ぐらい経った紀元1世紀頃だと いわれている。 中央アジアに起こったクシャン王朝の時代に始まったとされているが、パキスタンのガンダ-ラ 地方の仏像の顔は、ギリシャ風のものもあれば東洋風のものもある。いずれもその時代時代に、 それぞれの民族が釈迦をイメ-ジして造ったものだろう。日本の仏像の表情は、中央アジアから 中国、朝鮮半島を経て渡来したものだと考えられている。 外に出てみると少年僧たちがいた。素足に赤い袈裟をまとった6歳から10歳位の子供たちだった。 一定期間の修行だろうが、この中に生涯僧侶として身をささげようとする子供もいるのかもしれ ない。 シュエズィ-ゴォンパゴダ 外にいた4人の少年僧たち タビニュ寺院はバガンでは最も高いバコダをもつ。白い建物はどことなく日本の国会議事堂を 思わせる。ここにも日本人戦没者の慰霊碑があった。墓石には 鎮 魂 バガン慰霊碑建立之碑 第二次大戦において 夫夫の祖国のため に戦い 一身を捧げた将兵 並に戦火のため 不慮の死をとげられた多くの人々の霊を慰め 併せて 全世界の 永遠の平和をねがって この慰霊碑を建立する。 1992年8月15日 第33師団 戦友遺族の会並にミャンマ-友好教会 さらに慰霊の墓石には、「平和の礎となられた 戦士よ 安らかに」と書かれてあった。 戦没者慰霊碑 太平洋戦争中、日本軍とイギリス軍を中心とする連合軍はビルマで戦い、双方大勢の犠牲者を 出した。しかし、ビルマは戦場になったのである。自国の地を戦場にされたビルマの人たちは 被害者であるはずなのに、こうした慰霊碑の施設を心よく受け入れてくれている。この他にも ミャンマ-には、いくつかの日本人戦没者の慰霊碑があるらしい。敬虔な仏教徒である彼らに、 感謝したい気持である。 昼食を済ませア-ナンダ寺院に向かっていると、頭に荷物を載せた女性たちとすれ違う。 みなニコニコしながら私たちに笑顔を見せている。どこか親しみを感じる彼女たちの表情だ。 ほどなくア-ナンダ寺院が見えてきた。今まで見た建物よりもひと際大きい、堂々としている。 11世紀末バガン王朝の最盛期に造られたもので、当時の栄華が偲ばれるような寺院だ。 頭に荷物を載せて歩く女性たち ア-ナンダ寺院 ア-ナンダというのは、迦葉と共にブッダに一番近い弟子といわれる阿南のことらしい。 この寺院はそれにちなんで名づけられたものだろう。均整のとれた建物は、バガンの寺院の中で 最も美しいと言われている。東西南北に祀られた4体の仏像は、少し離れて眺めると微笑んでいる ように見える。 ア-ナンダ寺院の仏像 バガンで最も大きいといわれるタマヤンヂ-寺院も訪ねた。この寺院は12世紀半ば過ぎから 建てられはじめたが、当時の王が何者かに暗殺されたため工事は中断され、未完成のまま今日に 到っている。他の寺院のようにやさしい線はなく、どこか巨大な城塞を思わせるような風情が ある。 長い間放置されていたためかコウモリが住みついているらしく、荒れた院内を飛び回っていた。 タマヤンヂ-寺院 名前の由来はよく分からないが、「820の寺院」というところにも案内してもらった。 発見者はケ-ティウィンちゃんという少女、私たちがここを訪れる2年前の1999年に発見された ものらしい。彼女は学校からの帰り、毎日のようにここに来て祈りをささげ清掃しているという。 仏像の右下にいるのがケ-ティウィンちゃん 820寺院の仏像 最後にミンガラ-パゴダの上から辺りの景色を眺めた。黄昏時のバガンが印象に残っている。 エ-ヤワディ-川の対岸に落ちてゆく夕日も美しかった。 黄昏時のバガン エ-ヤワディ-川の落日 夜はホテルであやつり人形の芸を見せてくれた。音楽に合わせ、舞台いっぱいにくり広げられ る人形の動きはコミカルで楽しい。昔の民話からとったものかもしれないが、話の筋が分から なくても面白かった。何本もの糸を操る職人芸は見事、伝統的なミャンマ-の芸術なのだろう。 ホテルで行われた操り人形劇 12月3日 早朝バガンのホテルを出発、空路マンダレ-へ向かい、1時間後空港に到着。 マンダレ-はヤンゴンに次ぐミャンマ-第2の都市で、日本の京都のような古都の街。1885年 イギリスに占領されるまでこの国最後の王朝が置かれた街でもあった。 空港からマハムニパゴダを訪ねる。ご本尊のマハムニ像は金箔に輝いているが、その上にさらに 金箔を張りつけている大勢の人たちが見られた。この像には、自分の具合の悪い部分と同じ場所 をなでると体の調子がよくなるという言い伝えがあり、像の各部はなでられてツルツルに光り輝い ていた。18世紀末に建てられた寺院だが、19世紀末に火災にあい、広い境内に点在する建物は 比較的新しい。 マハムニ像に金箔を張りつける人たち マハムニパゴダからゼェジョ-マ-ケットに立ち寄ったあと、旧王宮に行く。 この王宮は1857年から建設されはじめ4年がかりで完成されたものだが、この地を占領した イギリスは当時の王をインドに追放、軍の施設としていた。しかし1945年日本軍と、イギリス・ インド連合軍との戦いで王宮は焼失してしまい、当時のまま残されているのは城壁だけとなって いる。敷地はほぼ正方形をしており、一辺が約3kmと大変広い。戦後はミャンマ-の軍事施設 として使われていたが、その後旧王宮の建物が新しく再建された。 マンダレ-の旧王宮 昼食を済ませ、ホテルで休憩したあと訪ねたのがシュエナンド寺院。木造で造られた建物は 見事な彫刻が施されている。当時は金箔が張られていたそうだが、長い年月を経た今の景観が、 年輪を重ねた風情を感じさせてくれる。この国では昔ながらの木造の僧院は少なくなっている そうだが、19世紀につくられたこの僧院は貴重な木造建築だという。 シュエナンド寺院の外観 シュエナンド寺院の内部 次に訪ねたクド-ドォパゴダも壮観だった。19世紀の半ば当時の王が2400人もの僧侶を集め、 仏典を一つ一つパゴダの石板に刻みこむ作業をさせたところ、その数は730にもなったという。 整然と並んだ白いパゴダ群が美しい。 マンダレ-ヒルから見た、エ-ヤワディ-川の夕日もまた美しかった。 クド-ドォパゴダ クド-ドォパゴダの狛犬 クド-ドォパゴダ 夜はホテルで夕食をとりながら「ビルマの竪琴」の演奏による民族舞踊を楽しんだ。 若い女性が弾いていた竪琴は、映画「ビルマの竪琴」で水島上等兵が弾いていたそれよりも、 ずっと立派なものだった。本場のビルマの竪琴である。 彼女はしばらくの間「さくらさくら」や「ふるさと」などの日本の歌を弾いてくれていた。 しかし曲が変わると幕の後ろから、あでやかな衣装に長いスカ-フを首に巻いた踊子が現れ、 胸に両手を合わせ一礼したかと思うと優雅に踊りはじめた。手足をしなやかに動かし、眼を キラキラと輝かせながら時には首を横にむけ、足をたがいちがいにさせ、肘や関節で直角を つくって操り人形のような所作も見せてくれた。なかなか楽しい、実に面白い…これがビルマの 民族舞踊なのだ…そんな思いをもった。 歌いながらビルマの竪琴を弾く若い女性 ビルマの竪琴で民族舞踊を披露する若い女性 ビルマの竪琴で民族舞踊を披露する若い女性 ガイドのニラ-キンさんによれば、彼女たちは昼間は会社で働いているOLなのだという。 竪琴の奏者も踊子もアルバイトなのである。 私はこの踊りに魅了され、操り人形を買って持ち帰った。わが家の居間の壁にかけてあるその 人形は、今でも私の眼を楽しませてくれている。 12月4日 この日は終日マンダレ-とその郊外の観光。 朝ホテルを出発してアマラプラに向かい、大きな湖にかけられたウ-ペイン橋にさしかかった ところで私は思わず眼を見張った。映画「ビルマの竪琴」のあのシ-ンを思い出したのである。 水島上等兵が仲間とすれ違うあのシ-ンだ。周りの風景といい、チ-ク材の橋の雰囲気といい、 よく似ていたのである。 もしかしたらここでロケを…と思ったぐらいだ。しかしあとで分かったことだが、当時映画の 撮影はビルマでは許されなかったらしい。 ウ-ペイン橋 映画「ビルマの竪琴」の1シ-ン 周りには子供たちが遊んでいた。男の子もいれば女の子もいる。みなニコニコしながら私たち の方を見ている。眼が合うと恥ずかしそうに人のうしろに隠れる子もいる。どうやら私たちが 珍しいらしい。 この中に赤いリボンを頭に結び、顔にタナカをつけて口紅をぬり、白模様のブラウスにロンヂ- を身につけてオシャレをしていた女の子がいた。なかなか可愛い。私がカメラをむけると、橋の 欄干に背をもたせポ-ズをとってくれた。この娘すこし日本語ができる。 「何歳?」…と聞くと 「12歳」…と答えてくれた。…あれから13年…もう25歳になっているはずだ。再びミャンマ- を訪ねる機会があれば、この写真を持っていってやりたいと思う。この辺りで、子供に写真を 見せれば教えてくれるだろう。 ウ-ペイン橋で出会った娘 ウ-ペイン橋の休憩所 タウングタマン湖 この橋は1.2kmあるという。歩くと45分位かかるらしい。そのためか中程には屋根のついた 休憩所があった。時間がないので途中から引き返したが、私の忘れられない思い出の橋になって いる。 ウ-ベン橋からブラブラ歩いてマハ-ガンダ寺院を訪ねる。 この寺院は約900人の僧侶が修行しているという、全国で一番の規模を誇る僧院だそうだ。 ちょうど托鉢から帰ってくる大勢の僧侶に出会い、しばらくして彼らの食事風景を見ることが できた。 上座部仏教の僧侶の食事は早朝の勤行前と昼前の2回、午後からは食事をとらないらしい。 また結婚はできない、酒もダメ、生涯厳しい戒律を守りながら修行しなければならないのだ。 結婚、酒、タバコ、カラオケ、何でもOKの日本の僧侶とは随分違う。そういえば、スナック で若い娘を口説いていた生臭坊主を見かけたこともある。 托鉢から帰ってきた僧侶たち 食事する僧侶たち 気がつくと、私たちにまとわりつく大勢の子供たちがいた。ウ-ペイン橋にいたあの子供たち がついて来ていたのだ。何と人なつっこい子供たちなのだろう。私たちがバスに乗ろうとすると、 「バイ、バイ」…可愛い笑顔を見せながら手を振るたくさんの瞳がこちらを向いていた…。 その後サガインのカウンフム-ドパゴダに行く。仏教寺院だが、お椀を伏せたような独特の 形状が眼を惹いた。サガイン最大の寺院で高さは45mある。17世紀に建てられたもので、丸い やわらかい輪郭は当時の王妃の美しい胸をイメ-ジしてつくられたものだとも言われている。 このあとサガインの街外れにあるサガインヒルをトラックで上り、街の風景を眺めた。 丘からはいくつかの白いパゴダが見えていたが、この辺り仏教修行の中心地として名高いところ らしい。 カウンフム-ドパゴダ サガインヒルからの風景 昼食後エ-ヤワディ-川を溯りミングォンに向かう。のどかな川辺の景色を眺めながらの ゆったりとした船旅だ。時折吹いてくる川風が気持よい。遠くに見えている赤いミングォン パゴダがだんだん近づいてくる。次第にその形がはっきりしはじめ、1時間半後船着場につく。 ミングォンパゴダに向かう船 ミングォンパゴダ 私たちがパゴダに通ずる道を歩きはじめると、ワット子供たちが集まってきた。手には飾り物、 仏具、扇子などを持っている。それらをかざしながら 「これ350チャット、こちら500チャット」…と言いながらついてくる。当時1ドルは約350… チャットである。 「いらない」…と手をふると、あきらめて他の人に話しかける。あまりしつこくない、スレテ いないのだ。 ところが相手になってやるとなかなか離れない。私が7~8歳位の女の子に 「ディス、メイドイン、チャイナ」…そう言うと、 「ノウ チャイナ!、ディス ミャンマ-!」…と眼を輝かせながら返してくる。女の子が かざしていたのは、以前私が中国で買ったことのある扇子、あまり欲しくはなかったが買って やることにした。値段は350チャット、小銭がないので500チャット出すとお釣りがないという。 それはある程度予想していたことで、お釣りは要らないからと手をふり扇子を受け取った。 しかし1時間半後私たちが観光を終えて下に降りてくると、その娘が私の顔を見つけてお釣り を持って来たのだ。私はビックリした、なんと律儀な娘だろう… 「これは君にあげるよ」…と言ってお釣りは受け取らなかったが、なかなか親のしつけのいい 娘だ…そう思った。 もう一つ忘れられない思い出がある。私がミングォンパゴダの観光を終えて下に降りて来た時、 ハットカメラを置き忘れてきたのに気がつき、あわてて引き返そうとしたらニラ-キンさんも ついてきてくれた。 山道を歩きはじめてほどなく、上から駈け下りてくる少年の姿が見えた。手にはカメラを持って いる。私のカメラだ。少年は私たちの様子に気がつくと、笑顔を見せながらカメラを手渡して くれた。 「ありがとう!、サンキュ-、サンキュ-!」私は何度も礼を言った。まさに感謝、感謝である。 ニラ-キンさんが少年から聞いた話によると、上のベンチに置いてあったカメラを見て忘れ物 だと思い、走って持ってきたのだそうだ。 ふつう海外で物を置き忘れると返ってくることはまずない、諦めるしかないだろう。カメラが 無事返ってきたのは、敬虔な仏教徒の多いミャンマ-だからこそと思う。 ミングォンパゴダは1790年工事が始まったが、当時の王の死去にともなって中断されたまま 残っている未完成のパゴダの跡。完成すれば世界で一番大きなパグダになっていたはずだが、 1839年の地震で大きく崩れ落ちたりして土台だけになっていた。 上からは、エ-ヤワディ-川の周辺の広大な景色を望むことができた。帰りは再び船に乗り、 黒い山蔭に沈む夕日を眺めながらエ-ヤワディ-川を下って行った。 ミングォンパゴダの上から見た風景 エ-ヤワディ-川の夕日 12月5日 早朝マンダレ-から飛行機でヤンゴンに向かい、10時過ぎ空港着。すぐバスで1時間ほど走り、 レグ-という街でガイドのニラ-キンさんの自宅に案内された。彼女の招きである。 家は木造の古い建物だがかなり大きく、周りにはヤシやパパイア、マンゴ-などの木々が生い 茂り、涼しそうなところにあった。この辺りでは中流以上の家庭なのだろう。 ひと時の休憩だろうと思っていたら、意外にも赤飯と簡単なおつまみ、そしてお茶が出されたの である。私は驚いた。赤飯といえば日本でも祝い事にしか出されないのに…。 私たちのテ-ブルの近くで、彼女のお父さんがおだやかな顔で椅子に腰かけておられた。 年齢は80歳位と気憶しているが、まだかくしゃくとしてどこか風格を感じる。もと軍人で日本の 将校と親交があったらしい。その将校の名前も言われたように思うが、覚えていない。かなり 日本人に親しみをもっている方と感じた。彼女が私たちをここに招いてくれたのは、お父さんの 快い受け入れがあったからだろう…そんな気がした。 さらに驚いたことに私が小用でトイレから出てきたとき、彼女の弟さんが片膝ついてオシボリを 差し出してくれたのである。何という心遣いだ…感心してしまう…心温まるニラ-キンさん宅の ひとときだった。 ニラ-キンさんの家族(左から弟、子供、父親、弟、子供、キンさん) ニラ-キンさん宅を辞し、街のレストランで昼食を済ませバゴ-に向かう途中、高さ30mの 柱4面に、それぞれ巨大な座仏が聳えるチャイプ-ンパゴダを見上げる。1476年に造られたと されているから、500年以上もの間街の人たちを見守り続けているということになる。ミャンマ- の人たちの祈りのシンボルなのかもしれない。長い年月を経て壊れかかったところもあったのか、 修復中の仏像も見られた。 チャイプ-ンパゴダ バゴ-の街に入り、シュエタ-リャウンパゴダを訪ねる。 994年当時のモン族の王によって造られたとされ、高さ16m、全長は55mもある。遠くから眺め ないと全身を見ることはとてもできない。この仏像はバゴ-王朝の滅亡とともにその存在も忘れ られ、やがて密林の中に覆われてしまったが、イギリスの植民地時代、鉄道施設のため視察に きたインド技術者により偶然発見されたものらしい。それにしても1000年以上も前にこの巨大な 涅槃像がつくられたとは驚きだ。足の裏や枕のモザイク模様も見事である。 シュエタ-リャウンパゴダの涅槃像 涅槃像の足裏 次に訪ねたのがシュエモ-ドパゴダ。高さは114mもありミャンマ-で1番高い寺院だそうだ。 歴史も古く、1000年以上も前に釈迦の遺髪を納めるために高さ23mの塔を建てたのが始まりだ とか。 その後歴代の王朝により何回も再建が繰り返されて現在の高さになったという。外観は金色に 光り輝き、内部の装飾も華やかに見えた。この寺院に鎌倉の大仏を模した仏像が置かれてあった が、日本の鈴木家が寄贈したものらしい。 シュエモ-ドパゴダ 鎌倉大仏を模した仏像 シュエモ-ドパゴダ内部の仏像 12月6日 この日はパゴ-からチャイティ-ヨへの観光。 早朝ホテルを出発し、大平原の水平線から立ち昇る朝日を眺めながら走って行く。ほどなく森陰 に民家が点在するところに出て、托鉢に出かけて行く大勢の少年僧に出会う。彼らは村人から 食事を授かるため、毎日托鉢に出かけているのだろう。僧侶たちは食事はつくらない、すべて 村人たちがまかなっているのだ。日常そうしたことが自然に行われているのは、僧侶と村人たち の篤い信頼関係があるからにちがいない。 大平原の水平線に昇る朝日 托鉢に出かける僧侶たち その後南国の木々に縁どられたのどかな集落を通り抜け、広々とした農村地帯を走ること2時間、 キンプスケンというところに着いた。ここからは山道になり、バスで行くことは出来ない。 私たちはトラックバスに乗り換えてチャイティ-ヨを目指したが、このドライブは面白かった。 トラックの荷台に乗り辺りの景色を楽しんだ。バス車内のような狭苦しい感じはない、のびのびと した気分だ。頬を切る風も清々しい。大きく折れ曲がる山道に揺られながらも、眼に触れる風景 が珍しかった。 ”日本の樹木とは随分違うなあ”…そんな思いで異国の風景を見つめていたことを覚えている。 休憩のため立ち寄った店 トラックバス(他の乗客) 1時間後チャイティ-ヨパゴダの山麓に着く。ここからは徒歩で50分位上らなければならない。 ところが竹に結び付けたイスに乗る人もいた。屈強な男二人が前後を抱え上げ、客を上まで運ん でいくのである。見晴らしもいいし、殿さま気分になれるかもしれない。 私は歩いて上ることにしたが、このコンクリ-トの坂道はかなり足にこたえる。私は靴を履いて いたが客を運ぶ男たちはもちろん、ニラ-キンさんもサンダル、見ると平気な顔をして上って いる。ミャンマ-の人たちは、日頃サンダルで足を鍛えているのだろう。 私が山頂に着いたときは汗びっしょりで喉はカラカラ、幸い山頂に立ち並んでいた屋台の冷たい コ-ラを一気に飲み干してひと息つくことができた。 前方に黄金の石が見えている、チャイティ-ヨパゴダらしい。 竹に結び付けた椅子(抱え上げる前) チャイティ-ヨパゴダ 高さ7mのこのパゴダは大きな岩に乗っかっている。今にも落っこちそうだが、落ちたことは ないそうだ。ふしぎな気がする。それは、この黄金の石の下に納められているブッダの遺髪が バランスをとっているからだという。 伝説によれば11世紀、当時の王が海底にあった丸い石をここまで運ばせたとか…。またこの 石は遠くインドからここに飛んできたのだ…という話も聞いたような気がする。なかなか面白い。 周りには、このパゴダに金箔を張りつけ祈りを捧げている人も見られた。ここはミャンマ-の 3大巡礼地の一つになっているという。 山頂にはこのパゴダを祀る僧院やレストラン、ホテルなども立ち並んでいた。ここの標高は 約1100m。 黄金のチャイティ-ヨパゴダ 僧院の一角 チャイティ-ヨからの風景 山頂のレストランで昼食を済ませ、またトラックバスでチャイティ-ヨを下った。そして バスに乗り換えてバゴ-まで引き返し、さらにヤンゴンへの道を走り、6時間後の18時30分 過ぎヤンゴンのホテルに着いた。 12月7日 いよいよミャンマ-の旅も最終日になった。今まで随分ミャンマ-のパゴダを見てきたが、 この日も3つのパゴダを訪ねた。まさにパゴダ、パゴダである。パゴダが、いかにミャンマ-の 人たちの生活の中に溶け込んでいるかが分かるような気がする。 ヤンゴンを象徴するシュエダゴンパゴダの歴史は古い。その起源をさかのぼれば紀元前と いうことになるそうだが、現在の僧院は15世紀に建てられたものが原型になっているらしい。 ヤンゴン最大のパゴダで、その高さは98m、大小あわせて60もの塔にかこまれているという。 1880年には、東参道の地中からシュエダゴンパゴダの由来を刻む3つの石碑が見つかっている。 金色の塔が立ち並ぶ広い境内には、大勢の人たちが参拝に訪れていた。裏に行くと大きな 菩提樹の下に仏像が祀られ、ヤシや熱帯樹林に囲まれた僧院の佇まいもどこか静かな趣を感じる。 シュエダゴンパゴダの境内 菩提樹の下に祀られた仏像 次に訪ねたのがチャウッタ-ジ-パコダ、高さ17m、全長は70mもある。バゴ-のシュエタ- リャウンパゴダよりも大きいのだ。ミャンマ-で最大の涅槃像ということになる。近くから見て も全体像は分からない。足の裏に描かれた模様は仏教宇宙観図だそうだ。ただ僧院というよりは、 大きな体育館で見ているような気がした。 最後に訪ねたのがス-レ-パゴダ、ヤンゴンの中心地に聳える僧院で高さは46m、昼は太陽、 夜はライトアップされて金色に輝いている。 ス-レ-とはバ-リ-語で「聖髪}という意味で、パゴダ内にはブッダの遺髪が納められて いるという。 ヤンゴンの人たちは仕事帰りや買い物の途中に気軽に立ち寄り、お祈りをして静かなひととき を過ごしていくらしい。 チャウッタ-ジ-パコダの涅槃像 チャウッタ-ジ-パコダの足の裏 その後、駅前のボ-ジョ-アウンサンマ-ケットに立ち寄ったあと、空港に行く。 ニラ-キンさんは私たちの搭乗券の手配を済ませ、 「またミャンマ-に来てください、この国はパゴダしかありませんけど」…と入場口に向かう 私たちに手をふりながら笑顔を見せてくれていた。彼女とはここでお別れである。 ところが、私たちがセクリティ-チェックを済ませ2階の待合室に行く途中、1階で私たちの 方に手を振っている女性がいるではないか…ニラ-キンさんだとすぐ分かった。 彼女は帰ったものだとばかり思っていたのに…私たちの姿が消える最後まで、彼女は手を振り つづけてくれていたのである…私は胸に熱いものがこみあげてくるのを覚えた。 私は映画「ビルマの竪琴」を見て、いつかミャンマ-を訪ねてみたいと思うようになっていた。 竹山道雄の原作がさらにその気持を膨らませてくれた。小説はフィクションだが、 ”もしかしたら本当のことなのかもしれない…”と思っていたのだ。その想像がミャンマ-に 行ってみたいと思う動機になっていたのである。 13年前初めてミャンマ-を訪れこの国に暮らす人たちの姿を見たときには、まさに小説と 変わらないようなイメ-ジをもった。素朴で心温まるような風景が私にそう思い込ませたのかも しれない。 あらためて思い起こしてみると、いろんな映像が頭に浮かぶ。 湖上でカヌ-を漕ぐインダ-族の子供たち、のどかな農村で稲穂をたたき 籾を獲る人たち、壮大なバガンの風景、日本人慰霊碑、ビルマの竪琴で 民族舞踊を見せてくれた若い女性たち、ウ-ペイン橋で出会った娘と無邪気 な子供たち、私にカメラを届けてくれた少年、托鉢に出かける少年僧たち、 どこに行っても出会ったパゴダ、パコダ、パコダ…そして何よりもニラ-キン さん宅での温かいもてなし等々…。 それらは私の思い出の風景として忘れることができない、いつまでも私の胸に残りつづける ことだろう…。いつかまたミャンマ-を訪ねてみたいと思っている。 今のミャンマ-は当時とは随分変わっているだろう。軍政から民主化への道を辿りつつある この国の人たちは、どんな思いでこの状況を見ているのか…。急激な社会の変化にとまどって いる人たちもいるかもしれない。これからも幾多の紆余曲折があるだろう。しかしその多くが おだやかな仏教徒であるこの国の人たちは、必ず民主化への道を歩み、さらに明るい社会を つくりあげていくにちがいない…。 どんな世の中になっても、伝統的な宗教や文化への価値観はいささかも変わることはない だろうと信じている。 ― 了 ― 2014.9.14 記 私のアジア紀行 http://www.taichan.info/ |