わが ふるさとのお国自慢 
           
       石州半紙と石見神楽



                      三隅町 田の浦海岸


             

      細長い地形の島根県西部の山陰線には、時々1~2両の箱のような電車が走っている。
     特急電車が走ることもあるが、ごくまれだ。その北側には日本海が広がり、南側のすぐ近くには
     中国山脈から続く山々が東西に連なる。間に三隅川が流れ、その周りにいくつかの小さな集落が
     散らばっている。わが郷里の風景
である。

                        千本橋から見た三隅川周辺の風景

               

    私はここで高校を卒業するまでの18年間を過ごした。今でも時々帰郷することがある。
   今年は5月21日広島で行われたもと会社のOB会を済ませたあと、三隅町に帰り1週間滞在、周辺の
   里山を散策してみた。
    写真で遠くに聳えているのは三隅町のシンボル高城山(標高362m)、1229年に築城され1570年に
   廃城されるまでの300余年間、三隅氏が居城したところらしい。私は帰省するといつもこの山に
   上っている。
   私のもと実家から歩いて2時間位のところにあり、ここからは三隅町三保村の集落が一望できる。

                  高城山から見た三隅町三保村の風景

          

    左の写真で手前の白い建物が見えるところは三隅町中央公園、集落を貫いているのは三隅川、
   河口の右手が湊浦、左手が下古市、奥の正面が針藻城址である。

     石州半紙(ユネスコ無形文化遺産、日本重要無形文化財)

    三隅町中央公園の敷地内には、小中学校の他にいくつかの文化施設が置かれているが、私はこの
   一角にある石州和紙会館を訪ねてみた。2009年ユネスコ無形文化遺産に登録された、石州半紙
   展示されているところである。

    ユネスコの事業で世界遺産が遺跡、建築物などの有形の文化財の保護、継承を目的にしているのに
   対し、無形文化遺産は民族文化財などの無形のものを保護対象としている。
   具体的には、慣習、描写、表現、知識、伝統的な技術並びにそれに関連する器具などが世界の文化的
   遺産として認められたものをいう。俗に世界無形文化遺産と呼ばれることもあるが、これは間違った
   呼称。

    日本のユネスコ無形文化遺産は、能楽、人形浄瑠璃文楽、歌舞伎、雅楽、石州半紙など22を数え、
   一番新しいものは昨年日本人の伝統的な食文化として登録された和食がある。

                      石州和紙会館の入り口

          

    明るい展示室には石州和紙の歴史、製造工程、石州和紙伝統工芸士の人物像、石州和紙の製品などが
   美しく展示されていた。
    資料によると紙は紀元2世紀初め中国で発明され、7世紀初め朝鮮半島から日本へ伝わったとされて
   いる。
    18世紀末の書物には、8世紀初め「柿本人麻呂」が石見の国で民に紙漉きを教えたとする記録が
   あるという。それからすると約1300年の間、石見地方では手すき和紙が漉き続けられているという
   ことになる。

    気が遠くなるような長い歳月に亘ってこの和紙作りの製法を先人たちが伝え続け、今なおそれを
   受け継いでかたくなに守り続けている紙漉き職人が三隅町にいるのである。ユネスコ無形文化遺産に
   登録されたのは、その技法と紙の品質の良さとともに、そうした伝統的な歴史が評価されたから
   だろう。
   また機械化された近代文明の世にあって、手作りで石州半紙をつくり続けている紙漉き職人たちへの
   保護、継承という意味もあるだろう。様々な工程を経て出来上がる石州半紙は手作りでしかできない
   のだ。これは石州和紙伝統工芸士と共に、日本人が世界に誇る日本文化である。

     石州和紙は原料にコウゾ、ミツマタ、ガンピ(ジンチョウゲ科の落葉低木)などが使用され、補助材料に
   トロロアオイ(アオイ科の1年草)の根の粘液を使い、竹や萱のスノコを桁にはさんで、「流し漉き」に
   よりつくられるらしい。

                           石州和紙会館の展示室

             

    製品は様々な工程を経てつくられる。出来上がった和紙は用途別に裁断が行われ、重要無形文化財
   の石州半紙をはじめ画仙紙、書画用紙、賞状用紙、染め紙、封筒、便箋、葉書、名刺、色紙、和帳、
   巻紙などに製品化される。その紙質は強靭で水にも強いと言われる。

    明治の中ごろ石州半紙の製造者は6000軒以上あったが、1969年(昭和44年)には10軒に激減、
   現在は4軒だけになっている。その4人の紙漉き職人の人物像が紹介されていた。
   この石州和紙伝統工芸士のいちばん先輩は川平正男さん、私の小中学時代の同窓生である。
   彼の写真の下にはこう書かれていた。

    「紙漉き40年、1枚の和紙を素材として生かし、アイデア、加工を施し新しい品物作りに励んで
   おります。自然にやさしく公害がない靭皮繊維を使用しての紙布や編み物は、夏は涼しく、冬は暖かい
   商品です。
   新しいものをつくりだすのではなく、昔からある良い物を再現させる人生を今後も続けたいと思って
   おります」。

                    川平正男さんが紹介された写真

          

    彼の写真のうしろにあるのが編み物の作品のひとつだが、その他にも子供用の靴が展示されて
   あった。紙から服をつくる、テ-ブルクロスやハンカチをつくる、あるいは靴をつくる、その発想が
   すばらしい。
   紙だから濡れるのでは…と心配するのだがすぐ乾くらしい。

                         子供用のくつ

          

    彼の他に紙漉き職人は3人いる。久保田彰さんの写真には

    「1974年より父、久保田保一を師に、手すき和紙製造を始める。石見の風土を生かした特徴ある
   和紙を追い求め、先人たちが残してくれた石州半紙の技術、技法を守り続け、現在の生活様式に
   マッチできる和紙を漉き続けたいと思っております。そして石州の伝承者育成に人生を捧げます」と
   書かれていた。

    この言葉のように彼はフランスから訪れた見習い職人を自分の工房に受け入れ、1年間石州半紙
   づくりの指導をしたと聞いている。

         久保田 彰さんが紹介された写真             和紙を漉く久保田さん

          

    西田誠吉さんの写真には

    「1981年より家業の石州和紙製造に従事し、7代目を継承する。地元のコウゾを使用し、原木から
   皮とり、白皮加工も一貫して自家で行い、和紙づくりを行っています。良い和紙は良い原料からを
   心に刻みながら、こつこつ黙々と紙漉きに取り組みたいと思っています」と書かれていた。

                     西田誠吉さんが紹介された写真

          

   もう一人の西田裕さんの写真には

    「1993年より叔母、西田喜栄に師事し石州和紙製造に従事する。原料作りから紙漉きまで、一枚の
   和紙に至るまでの一貫した手作業を守りつづけています。書画用紙を主体に日常生活を豊かに彩る
   お手伝いができる和紙作りに励み、和紙と触れ合うことでしか得られない特別なものを求め、追求
   していきます」と書かれていた。
   二人の西田さんの写真の前には、石見神楽の大蛇と鬼面が展示されていたが、これらも石州半紙を
   素材にしてつくられているものだろう。強靭な石州半紙だからこそ、動きの激しい大蛇の舞でも紙は
   破れないのである。

                       西田 裕さんが紹介された写真

            

    この4人の紙漉き職人たちは、石州和紙作りを守る工芸士のグル-プとして人間国宝に指定されて
   いる。これからもユネスコ無形文化遺産に登録された、この伝統ある石州和紙づくりに励んでもらい
   たいと思う。できれば若い後継者が出てくることを願うばかりである。

    展示室にはブ-タン国王のワンチュク陛下ご夫妻の写真が掲げられてあった。2013年11月来日
   されたときに撮影したものかもしれない。
   この時に川平さんは石州和紙工芸士を代表して歓迎レセプションに招待され、ワンチュク国王と握手
   したという。

    日本とブ-タンは1986年に国交が開始されたが、その年に何人かのブ-タン紙漉き職人の研修生を
   受け入れ、川平さんを初め当時の石州和紙工芸士が長期間に亘り紙漉きの指導をしている。

    川平さんは1990年に石州和紙の紙漉き工具を設置するためブ-タンに3週間、さらに1993年には
   3ヶ月滞在、現地職人の指導にあたったという。その後何回もブ-タンの研修生を受け入れたり、石州
   和紙工芸士がブ-タンを訪れたりの交流が今日まで続いている。

                    ワンチュク ブ-タン国王ご夫妻

           

    JIKA事業の採択をうけて、今年2月15日から3月13日まで石州和紙工芸士数名がブ-タンを訪れ、
   紙漉き製造方法の改良を行う指導を行っている。その様子が廊下の壁に展示されていた。
   石州和紙づくりの指導を受けた「ジュンシ製紙工房」はブ-タンの首都ティンプ-の小高い丘の上に
   建っている。
   私は2010年1月ブ-タンを訪れたときに、三隅町に来て川平さんの指導を受けたというノルブ・テン
   ジンさんの息子さんに会い、わずかの時間だったが話す機会をもったことがある。

    私は石州和紙会館を出て川平正男さん宅を訪ねた。彼の自宅と工房はそこから15分位歩いた小高
   い丘陵の山の中にある。工房の玄関には「ユネスコ無形文化遺産 石州半紙 かわひら」という表札が
   掲げられてあった。

                      川平正男さんの工房

          

    自宅を訪ねると彼は家の前の水田で長靴を履いて草取りをしていた。私が
    「ヤアッ!」と声をかけるとすぐ分かったらしく
    「ヤアッ!」、笑顔を見せながら田んぼから畔道に上がってくれた。そばの板に腰かけ、しばらく
     地元の同窓生のうわさ話などする。

                    石州和紙伝統工芸士 川平正男さん

          

    そのあとこんな話をしてくれた。

    「実は今年3月宮内庁に呼ばれて、天皇陛下と美智子様にお会いすることができた。
   招待されたのは民間人5人。昨年11月ブ-タン国王のワンチュクご夫妻が来日された時には天皇陛下
   は何かの事情で出席できなかったための招待だという。
    お茶と天皇陛下が摘まれた”ノビル”の酢物和えでもてなされた。1時間半の懇談会の最後のほうで
   宮内庁長官が、
   ”今度ブ-タンに行かれる時には国王に会わせてあげよう”と言いかけたとき、時間切れになった」…
   ということを彼はさらりと話してくれたのである。
   私はビックリした…天皇陛下と美智子さまにお会いできるとは…。
   彼が宮内庁に招待されたのは、日本とブ-タン国交が始まった1986年以来、石州半紙製法の指導を
   通じてブ-タンとの友好親善に尽くした彼への感謝とねぎらいがあったからだろう。

    今年も彼はJICAからブ-タン王国における手すき紙の産業振興を図るため、ブ-タンへの派遣
   を要請されているが、訪問する時期については検討中だと話していた。
   5年前から息子さんが帰ってきて仕事を手伝っているらしい。跡継ぎができて彼もひと安心だろう。
      
    このあと私は彼の工房に案内された。中には様々な製品や紙漉きの工具、機織り機が置かれ、
   テレビに出演している写真も飾られてあった。その写真はNHKのテレビ番組「お国自慢?」の
   1シ-ンで、彼が司会者と橋幸夫からインタビュ-されているものだったが、紙から女性用の服や
   テ-ブルクロス、帽子、ハンカチ、クツなどをつくるという斬新な発想がテレビ局の眼にとまり、
   時々テレビに引っ張り出されることもあったという。

                  紙で編んだレ-ス状の女性の服と帽子など

             

                    紙で編んだレ-ス状の女性の服

          

    女性用の服は主に奥様が編んだものだと聞いた。以前は手伝いに来ていた女性もいたらしい。
   なかなかおしゃれで涼しそうに見える。冬も温かいそうだ。

    これらの製品は大変な手間をかけてつくられていくのだろう。出来上がった紙を裁断、さらに
   それを細かくよじって糸状にし、それらを一つずつボ-ル状にするまでにそれぞれ40分かかる
   らしい。
   さらに製品化する時間はそれぞれの商品によって違うと思われるが、ちょっと想像がつかない。
   それまでの紙がつくられる長い時間と工程を考えれば、気が遠くなるような作業である。

                    紙を裁断してよじられたもの

             

            紙を裁断して巻いたもの         裁断した紙を糸状にして巻いたもの

          

    奥の部屋には機織り機が置かれていた。この機械で糸状にした紙を、衣服やテ-ブルクロス、
   ハンカチ、タオルなどに織っていくのだろう。これまた大変な作業にちがいない。

                        機織り機

             

              織り物                 織り物と封筒など

          

    彼は広島の造船所で10年間働いたことがある。こうした発想はその時代に経験したことが大いに
   役立っている、人との出会いが大切である…ということを熱っぽく語ってくれた。彼のものづくりへ
   の姿勢と工夫は、そうした仲間たちとの交流から培われたものがあったのかもしれない。

    私は機織り機で織ったハンカチをもらった。思わぬ贈り物である。使ってみるとなかなか良い。
   汗をよく吸収し発汗作用も早い、すぐ乾くのだ。そして水に濡らして首にのせると、ひんやりして
   気持よい。このハンカチ、重宝して使いたいと思っている。

    この工房に京都の有名な織物屋が訪ねてきたことがあったという。私は聞いてみた。
   「どうだったの?」
   「いや~ダメだね、織り物はダメだね、売りゃしないよ…それは別にして、この作り方をあとあと
   まで残しておきたいと思っている」…私はあとの言葉が印象に残った、胸をついた。…それは石州
   和紙会館の彼の紹介に書かれているように
   「新しいものをつくりだすのではなく、昔からある良い物を”再現”させる人生を今後も続けたいと
   思っております。」…ということになるのだろう。
   この言葉からは、これからもこの仕事を続けていこうとする彼の情熱と誇りが感じられる。
   1時間余りの滞在を終え、彼の工房を辞した。

    久しぶりに彼の素朴な人柄にふれ、私はほのぼのとした気分で下古市の坂道を下って行った…。

     石見神楽

    石見地方のもう一つのお国自慢に石見神楽がある。石見神楽はこの地方において室町時代後期には
   すでに演じられていたとされ、明治初期にはそれ以前のゆるやかなテンポから、八調子の激しく早い
   テンポの舞に変わっていった。仮面を被り燦然たる衣装に身をつつみ、大太鼓、小太鼓、横笛、
   銅拍子などの囃子で演じられる舞は、勇壮にして荘厳、躍動感にあふれ、見る者を幻想的な神話の
   世界に誘ってくれる。

    神楽社中は三隅町で私が知っているだけで6社あり、石見地方全地域になると100以上に及ぶ。
   その活動は近年ますます盛んになり、祭などの定期公演はもちろん、毎週土、日曜にはどこかの神社
   や施設で石見神楽の奉納が行われている。子供神楽も盛んで、この伝統的な郷土芸能を引き継ぐ若い
   人たちも多い。多数の演目があり、主なものだけで30位に及ぶ。

    私の子供の頃には八幡宮の舞殿の一角に座り、じっと眼をこらして最後の「大蛇」が終わる夜更け
   まで見ていたものだ。その幻想的で神秘な舞が幼い私の心を魅了したのにちがいない。以来高校を
   卒業するまでの10余年間は神楽を見るのが楽しみだった。最近は2年前に帰省したとき、松原社中が
   演じていた石見神楽を見ている。そのいくつかを紹介させてもらう。

      「塵 輪(じんりん)

    「塵輪」は石見神楽の前半に演じられる代表的な鬼舞である。人皇第14代の仲哀天皇は、塵輪と
   いう翼ををもった大悪鬼が黒雲に乗って空を飛び、多くの人々を苦しめていたため高麻呂をはじめと
   する兵を従え、自ら鹿児弓、天の羽々矢の威徳を持ってこの大悪鬼を退治するという物語。垂れ幕の
   陰から煙幕を出しながら出てくる鬼の立ち振る舞いは迫力があり、圧倒される。

                        「塵 輪」の仲哀天皇と家来

        

                                 塵輪の悪鬼

             

                         塵輪の悪鬼

           


                        塵輪の悪鬼

          

      「天 神(てんじん)

    「天神」は藤原時平の懺言により大宰府に左遷された菅原道真が死後天神となり、随身を従え時平を
   成敗するという話。石見神楽の中でもとくに激しい舞として知られ、下2枚の写真にあるように時平
   が早変わりした面と衣装で再登場してくる。

                             「天 神」の菅原道真と随身

           

             「天 神」                             鬼面の藤原時平

          

     「道がえし(ちがえし)

    「道がえしは「鬼がえし」とも呼ばれる。常陸の国、鹿島の武甕槌命(たけみかつちのみこと)は、
   異国より魔王がきてわが国の人民に害をなしていることを知って出陣、魔王を説き伏せようとしたが、 
   聞き入れられなかったため戦いとなり、魔王は降参する。武甕槌命は魔王に人民を食べずに高千穂
   で農業に従事させ、稲を食べるよう勧める。鬼舞では珍しく、鬼は退治されず国安らかに 治まると
   いう舞である。

                         「道がえし」

          

     「恵比須(えびす)

    この神楽は、出雲の国、美保関神社の御祭神、恵比須が磯で釣りをしている姿を舞ったもの。
   恵比須は、昔から漁業や商業の神様として祀られている。七福神の中では、唯一の日本の神様
   である。

                        「恵比須」

             

     「頼 政(よりまさ)

    平安の末期、時の帝 堀川天皇は毎晩丑の刻、京都東三条の森を黒い雲が覆い、不気味に鳴く鵺(ぬえ)
   の声に悩まされていた。帝の命をうけた弓の名人源頼政は、従臣 猪早太と共にこの化物を退治した
   ところ、頭は猿、体は牛、手足は虎、尾は蛇という怪物だった。鵺はトラツグミの異称や、正体不明
   の人物に例えられることもある。

                    「頼 政」に登場する怪物

             

                      「頼 政」の源頼政と従臣

          

     「大 蛇(おろち)

    石見神楽の演目は豊富で多彩だが、なかでも最後を飾る「大蛇」の舞は圧巻である。
   数頭の大蛇が須佐之男命(すさのおのみこと)と格闘を繰り広げる壮大なスケ-ルの舞が見られる。

   数々の悪行により天照大御神(あまてらすおおみかみ)から高天原を追われた須佐之男命は、出雲の国、
   斐の川にさしかかった時、嘆き悲しむお爺さんお婆さんと稲田姫に出会う。理由を聞くと、八つの頭
   と八つの尾をもつ八岐大蛇が毎年現れて村娘が食い殺されている…すでに7人の娘が食べられ
   今年は稲田姫の番だ、姫も近いうちにその大蛇に食べられてしまうだろうと言う。一計を案じた
   須佐之男命は種々の木の実で醸した毒酒を大蛇に飲ませ、酔ったところを退治して稲田姫を救う。
   そのとき大蛇の尾から出た剣を「天の村雲の宝剣」と名づけて天照大御神に捧げ、稲田姫と結ばれた
   という。凄い迫力とともに、いかにも神話らしい雰囲気を感じさせてくれる舞である。
    大蛇の数は社中によって多少ちがうと思われるが、ふつう4頭で舞われる場合が多い。
   ただ市民会館のように大きな会場では8頭出されることもある。
   最後の「大蛇」の舞が終わる時間帯は夜神楽の場合0時を過ぎるが、部落の祭によっては昔のように
   朝4時~5時までやることもあると聞く。

                         石見神楽の最後を飾る大蛇の舞

             

           樽に毒酒をしこむ爺やと婆や            須佐之男命と稲田姫

          


                    大蛇に近づこうとする須佐之男命

           

          毒酒を飲まされて眠る大蛇          毒酒をくみとる須佐之男命

          

          毒酒を飲まされて眠る大蛇          大蛇を退治する須佐之男命

          

    石見神楽は能楽、狂言、歌舞伎などから影響を受けているものと思われる。
   神楽の笛や太鼓の荘厳な響きは天井から聞こえてくるようであり、能楽のそれは地底から聞こえて
   くるように感じる。

    能楽は大和猿楽を祖としているがさらに溯れば、シルクロ-ドを経て伝来した雅楽や伎楽が底流を
   なしている。
   雅楽に使われたとみられる東大寺正倉院の宝物、螺鈿紫檀五弦琵琶(ラデンシタンゴゲンノビワ)は、
   往古インドから天山、崑崙、パミ-ルを越え、ラクダの背にのって タクラマカン砂漠を通り、
   中国王朝から奈良に伝来されたものだろう。今から1300年以上前の話だ。
   往古の日本は大陸から多くの文化芸術を移入し、長い歳月をかけて日本独自のものにしているが、
   石見神楽もその一つといってよいだろう。空想と夢とロマンと神秘的なものがこめられた石見神楽…
   それは石見人が誇りうる日本独自の郷土芸能である。

                                     ― 了 ―


                                    2014.6.17 記

                           私のアジア紀行  http://www.taichan.info/