ネ パ - ル の 思 い 出 1998年12月 2003年 1月 2011年 5月 2012年12月 朝日に染まる アンナプルナⅡ峰 7937m Ⅳ峰7525m 2003.1.12 2012年12月4日午後2時30分、私たちはカトマンズ空港からポカラ行きの小型機に乗り込んだ。 機は飛び立ってしばらくの間、赤レンガの建物が密集するカトマンズ上空を飛行していたが、すぐ 西に向きを変え、右手にヒマラヤの白い山塊群を見るようになる。私は左の席にいるため右の窓 に眼をやりながら見ている。よく判らないが、おそらく今頃はランタンリルン、ガネッシュヒマ-ル を遠望しながら通過しているところかもしれない。しばらくすると横一直線に白い峰々が現れてくる。 波のように重なり合った無数の山々が通り過ぎてゆく。次から次に白い峰々が現れ、後ろに過ぎ 去っていく。そしてまた新しい山が現れてくる。山は際限なく続いている。眺望さらに広がり壮大な 風景が流れていく。 左の席にいた私だったがついにしびれを切らしてしまった。立ち上がりカメラを右の窓に向けようと したとき、右の席にいた女性から、席を替わりましょうと声をかけていただいた。私はその親切さに 感謝しつつ、カメラを構えながら流れていくヒマラヤの景色を眺め続けた。ヒマルチュリ(7893m) が近づき、さらにピ-ク29が見え始め、そしてマナスルが左前方にきた!、カメラを向ける。 マナスル(左) 8163m ピ-ク29(右) 7835m 機上より 2012.12.4 マナスルは1956年5月9日、日本山岳会の今西壽雄とシェルパのギャルツエン.ノルブが初登頂に 成功した山。その時の隊長は槇有恒。標高は8163m、日本隊が初めて登頂した8000m峰である。 日本人には最も親しまれている山と言えよう。 マナスルを通過するころから、アンナプルナ連峰の広大な風景が眼に入ってくる。しかし機は ゆっくりと下降しはじめ、やがて平原の中に置かれたポカラ空港の滑走路に滑り込んでいった。 時計を見ると午後3時、飛行時間は約30分だった。 ポカラの風景 ポカラは、カトマンズから西へ200km離れたネパ-ルの中央部に位置し、ペワ湖のほとりに 広がる街。標高は約800m~900m。カトマンズの喧騒とは一転し、静かな山麓の街でもある。 街のどこからでもアンナプルナ連峰を眺めることができる。聖なる山、マチャプチャレを中心に アンナプルナⅡ、Ⅲ、Ⅳアンナプルナサウス(7219m)、そして遠く世界10番目の高峰アンナ プルナⅠ峰(8091m)が聳え立っている。その風景は壮観だ。息を呑むようにすばらしい。 1日中眺めていても飽きない景観である。わずか標高800mの地から、7000m~8000m級の高峰 を眺めることができる。その高度差は世界でも例をみないだろう。 私たちはポカラ空港から山岳博物館のところまで行き、そこから夕日に染まるアンナプルナ山群を 眺めた。 マチュプチャレ 6993m 2012.12..4 アンナプルナⅡ 7937m アンナプルナⅣ(左) アンナプルナⅡ(右) アンナプルナ連峰の真中にマチャプチャレが鎮座し、鋭い尖峰を天に向けている。その姿は美しく 神々しい。ヨ-ロッパのマッタ-ホロンを彷彿とさせてくれる。ただ夕日の光がやや弱いのが残念。 この山はチベット族から神の山として崇められ、登山禁止となっている。1957年英国隊によって 山頂直下50mの位置まで上られたことはあるが、山頂は踏まれていない、未登峰の山である。 マチャプチャレを真中に、周囲の山塊群がそれを護るかのように立ち並んでいる景観は、釈迦が 弟子たちに説法している図をイメ-ジさせてくれる。神の山といわれる所以は、そのへんにあるの かもしれない。まさにマチャプチャレはチベット族の須弥山なのだ。 ポカラからひと際目だって見えるのは、標高7937mのアンナプルナⅡである。この山群で一番高い のはアンナプルナⅠだが、山頂は遠く霞んでいる。アンナプルナⅡが一番高く雄大に見える。 夕日の当りも良い。アンナプルナⅡの左手にアンナプルナⅣ、アンナプリナⅢ(7555m)、 マチャプチャレと続く。さらにその左奥にアンナプルナⅠ、アンナプルナサウスが聳え立っている。 標高8167mのダウラギリは、遠く夕闇に包まれ丸い頭をぼんやりと覗かせていた。 それまで赤い山肌を見せていたアンナプルナ連峰は、夕日が沈むとたちまち黒いシルエットとなり、 やがて夕闇の中に消えていった。 ポカラは15年前と10年前にも訪ねている。その時はまだ山村の雰囲気を漂わせていたのだが、昨年 久々にやってきて驚いた。多くの車やバイクが走り、新しい建物が増えていたからである。 バザ-ルも以前のような風情は感じられず、商店街のような味気ないものになっていた。しかし、 それでも山に抱かれたポカラのよさは残っていた。アンナプルナ山群を眺めているだけでも、ゆったり とした時間の流れを感じることができるからである。 ペワ湖でボ-トに乗りアンナプルナを眺めるのもなかなかいい。マチャプチャレや山の影が湖に映る。 ボ-トの波でその影がゆらゆらと揺れる。ぼんやりと周囲の景色を眺めているだけでも気持が安らぐ。 ただ残念なことに昨年訪ねたときは曇り空で靄がかかり、美しい山の影は映っていなかった。湖の色 も以前よりは、心なしか汚れているように感じた。 ペワ湖遊覧 2012.12.5 ペワ湖遊覧 ペワ湖からすこし離れたポカラの郊外には、のどかな田園風景が広がっている。そこに私たちが いつも泊まるシャングリラ.ビレッジ.というホテルがある。コテ-ジ風の客室が立ち並び、田園に 囲まれた静かな環境にあり、晴れた日には庭からマチャプチャレを望むことができる。 私はここに来るといつも裏の田んぼを散策する。昨年訪ねて来たときも、田園の小道を歩いてみた。 すでに稲は刈り取られていたが、広い田んぼの中で、のんびりと草を食む牛の姿が見られた。 農作業は牛の力を借りているのだろう、どこか懐かしい風景である。ここだけは15年前とほとんど 変わっていなかった。 シャングリラ.ビレッジ.ホテル裏の田園風景 1998.12.31 夕方には、あぜ道を通って家路につく小学生に出会った。前方から3~4人の子供たちが戯れ ながらやってくる。ハロ-、ナマステ!”と声をかけてみた。すると「ハロ-、ナマステ!」という 元気のよい声が返ってきた。大きな眼をキラキラ輝かせている。”何年生?”「ぼく3年生、こちら も3年生、向うに4年生もいる、オジさんのホテル、シャングリラ?」と逆に聞いてきた。 ”そう、シャングリラ”と言うと、納得したようにうなずいて、「バイバイ」と手を振りながら足早に 走り去っていった。 サランコットの丘 ポカラから車で30分ぐらい走ったところにサランコットの丘がある。マチャプチャレを望むには 絶好の場所として、また軽いハイキングコ-スとしても人気が高い。私は15年前の12月と10年前の 1月にここを訪ねている。 早朝ホテル出発、6時過ぎにサランコットの丘の中腹に到着、しばらくの間日の出を待つ。非常に 寒いが、小屋のオジさんが入れてくれる熱い紅茶を飲んで身体を温める。 多勢の人たちが、日の出を待ちながら山を眺めている。今か今かと朝の光を待っている。 やがて東の空が赤く染まりはじめると、それまで黒い影だった山の稜線が、鮮やかなシルエットに なって浮かび上がる。最初にアンナプルナ.サウスに光が当り、次第にマチャプチャレの正面が 金色に染まってくる。ワア~スゴイ!、荘厳な一瞬である。息を呑むような美しさだ!。 朝日に輝くマチャプチャレ サランコットの丘より 2003.1.12 アンナプルナ.サウス 2003.1.12 マチャプチャレとアンナプルナ山群 1998.12.30 アンナプルナⅣ(左)アンナプルナⅡ(右) ヒマラヤに上る朝日 2003.1.12 朝日はマチャプチャレからアンナプルナⅢ、Ⅳ、Ⅱと移ってゆく。空の雲も赤く焼けてきた。 アンナプルナ山群の壮大な朝焼けである。私はそこに立ちつくし、このすばらしい景観を眺めつづ けた。しかし、日が高く上がるにつれて山は赤から淡いピンクに、そして白い雪山に姿を変えてきた。 青空に映える雪山もまた美しい。 私は山頂までハイキングすることにした。約1時間の道のりである。辺りの景色を見ながら ゆっくりと上って行く。ゴロゴロとした大小の石がころがっているが、さほど歩きにくい道ではない。 ところどころ民家や小さなホテル、土産物店も眼につく。家の前で、何もせずにぼんやりとしている 老人や、丘の空き地で多勢の人が何か言い争いをしている光景も見られた。水の分配でもめていた らしい。ここは村人が生活に使う道でもあるのだろう、家畜に与える草の束を抱えた女性や、荷物を 入れたカゴを背負って、山道を歩いて行く子供たちにも出会った。ときどき放し飼いになったヤギや 犬ともすれ違う。男の子供が妹をおぶって歩いている姿も見られた。何ともほほえましい。今の日本 ではとても見られない情景である。 妹をおぶって歩いていた子供 1998.12.30 荷物を背負って山道を歩く行く子供 さらに歩いて行くとダウラギリが見えてきた。標高8167m、世界7番目の高峰である。全身純白の 雪に覆われ光り輝いている。ダウラギリは、日本人で初めて8000m峰14座をすべてを登頂した 竹内洋岳さんが、2012年5月26日、14番目に登頂した山でもある。 1時間後山頂に着いた。展望台からは、マチャプチャレを中心に雄大なアンナプルナ連峰が広がっ ていた。よく晴れてはいたが、光が強すぎて空の青さと白い山の稜線がぼんやりしている。それでも 何枚かの写真をカメラに収めた。高原の澄んだ空気が清々しい。 ダウラギリ 8167m 2003.1.12 マチャプチャレとアンナプルナ連峰 アンナプルナ ミニトレッキング 私は今から10年前の2003年1月、アンナプルナのミニトレッキングに参加した。ネパ-ルの旅 ツア-の中に折り込められていたものである。ツア-6日目の1月12日、私たちはペワ湖での観光を 終えバスに乗り、トレッキングの入り口であるルムレに着いたのが14時過ぎ。 そこにシェルパやポ-タ-たちが待ってくれていた。メンバ-は私たちツア-客男女15名、それに ガイド、日本からの女性添乗員、さらにシェルパ7人、ポ-タ-、コックたちを合せると30名近く になる。シェルパの中でシェルパ頭(サ-ダ-)は30代位だが、 あとは20代前後のミニシェルパで ある。 彼らはエベレスト街道沿いの山村から、500km位の道のりを歩いてここまでやってきたという。 どのくらいの期間をかけて来たのかはよく判らないが、おそらく道中キャンプしながら険しい山道を、 時には車道を、歩きづめに歩いてやってきたのにちがいない。それにしても彼らの健脚ぶりには驚く ばかりだ。ポ-タ-には屈強な男性と、20歳前ぐらいの若い娘二人も入っている。 重たい荷物は彼らに預け、14時45分ハイキングスタ-ト、チベット族の露店が立ち並ぶそばの階段 を上ってゆくと、のびやかな山村の風景が広がる。道は多少アップダウンはあるものの、ほぼ平坦。 遠くにアンナプルナ山群を眺めながら、丘陵沿いの小道を歩いて行く。ときに木々に覆われた山道を 通ることもあるが、コ-スのほとんどは段々畑の上につくられた尾根道。農家が点々と散らばる。 その前で子供たちが遊んでいる光景も見かける。 シェルパたち 中央はサ-ダ- 2003.1.12 ルムレ~チャンドラコットの風景 1時間も歩くと、もうキャンプ地であるチャンドラコットに着いた。標高1583m。 すぐにシェルパたちがコ-ヒ-、紅茶を持ってきてくれた。コ-ヒ-を飲みながら辺りの風景を眺め てみる。上を見上げると鬱蒼とした木々が生茂り、そこから下は何十段かの長い段々畑になっている。 その下の方の一角に、今テントが張られようとしている。シェルパたちは手早くテントを張ってゆく。 アットいう間にすべてのテントが出来上がった。二人で来ている者は二人用、一人来ている ものは一人用のテントが用意されていた。寝袋もある。ただテントは長いクギで抑えられているため、 歩く時に踏みつけないように注意しなければならない。とくに夜トイレに行くときは懐中電灯が必要 である。 夕食はコックがつくってくれた。メニュ-は水牛、サラダ、ス-プ、マメカレ-、トマトソ-スで 煮た野菜、ライス。 モ-ニングコ-ルはシェルパたちがやってくれる。早朝6時30分、彼らはそれぞれのテントの前に 来て、 「グッドモ-ニング」と挨拶する。テントを開けると大きなポットを手に持ちながら、 「ティ-、コ-ヒ-、?」と聞いてくる。そして洗顔用のお湯を入れてくれるのである。 翌朝の空は青く澄み渡っていた。寒いが朝の冷気が気持よい。朝日を浴びてクッキリと稜線を 見せたマチャプチャレが美しい。山頂は「魚の尾」のように二つに割れている。 マチャプジャレは魚の尾という意味。正面からはその形がよく見えないが、西寄りのこの地からは、 二つに割れた魚の尾がはっきりする。 マチャプチャレ 2003.1.13 チャンドラコットからのヒマラヤ山群 朝食後8時30分、ポタナ経由ダンプスに向けて出発。道はゴロゴロと石がころがるところが多いが、 石畳で敷き詰め られているところもある。村人が通る生活の道でもあるのだろう。周囲は鬱蒼とした 木々が繁る。山々は 亜熱帯の常緑樹で覆われ、道端には大きなシダが繁茂、行く手をさえぎる。 急坂が多い。そこを上りつめると、急な下り坂になる。そんな道を何回もくりかえす。昨日のよう にはゆかない、けっこうキツイ。 シェルパたちは適当な間隔で私たちの間に入っている。すこしキツイ道になると私たちの足元を 見たり、苦しそうにしている人を見るとザックを担いであげたりしている。彼らの表情はみな明るい。 ニコニコしながら会話につきあってくれたりする。私のそばを歩いていた若いシェルパに聞いてみた。 ”君たちはどこからやってきたの?” 「エベレスト街道の山村からです、みんなネパ-ルの東のク-ンブの出身です。ボクの家は ナムチェバザ-ルという村がありますが、そこから近いです。」 私は当時その村の名はよく知っていた。ときどきネパ-ルの地図を見ていたので、大体の位置も 判っていた。一瞬、随分遠いところから来ているなと思ったが、シェルパはみなその地方の出身なの である。 ”じゃ~みんなで車に乗ってやってきたんだ、何時間かかったの?” 「とんでもありません、みな歩いてきました、これはシェルパとしての訓練なのです。それに ク-ンブは山道が多く、車が通れる道はほとんどありません」、と言ってニコニコしている。 私はビックリした。”スゴイ、スゴイ、”そう連発した。実際にスゴイのだ。仕事とはいえ、エライと 思った。あとで調べてみたら、その距離は500km位あったのだ。その要した日数が何日間であった か、記憶に残っていない。2週間だったようにも思うし、3週間だったかもしれない。 チャンドラコットからポタナへのハイキング風景 2003.1.13 道は山裾に沿って走っている。時に尾根に出ることもある。段落ある平原が広がり、民家が点々 と散らばっている。どれもレンガのように石を積み上げてつくられた家が多く、屋根は板かトタンで 葺かれいる。そうした民家の庭先を通ることもある。子供たちが遊んでいて、私たちを見かけると 胸に両手をあわせて挨拶してくれる。私たちもそれに見習って手をあわせる。こちらもそうすること で、何か心が洗われるような気持になる。平和でのどかな山村の風景だ。 私たちに両手をあわせて挨拶している子供たち 2003.1.13 急な石段の道を上ったり下ったり、ときに明るい林の空き地に出たりする。グルン族が羊を連れて 歩いていたり、村人が枯れ木でマキをつくったりしている光景も見かける。時々頬を切る風が気持 よい。 グルン族はアンナプルナ連峰のこの辺りに住む民族。チベット.ビルマ語系のグルン語を話す。 昔は羊の放牧、トウモロコシなどの農業、チベット交易にも携わっていたらしいが、今は稲を栽培 して生活している人が多いといわれる。またイギリス軍の傭兵として、勇敢に戦ったグルカ兵と してもよく知られている。 やがてポタナに着いた。時計は12時20分。ここで昼食。標高は1890m。チャンドラコットから 約300m上ってきたことになる。明るい陽光に映えるアンナプルナ山群が美しい。 アンナプルナ山群 2003.1.13 ポタナのレストラン レストラン前には展望のよい空き地があり、そこで辺りの景色をながめたり、寝転んだりして思い 思いに過ごした。2時間の休憩のあと、右方向に道をとりダンプスに向かう。道はゆるやかに下り になる。暗い森をぬけて明るい道に出る。針葉樹の木々からシラカバに似た樹木が多く眼につく ようになる。トタンで葺かれた屋根に石を載せた、バラックのような家の前を通り過ぎたところで、 グルン族の若い母子に出会った。日本人によく似ている。なかなかの美人である。許しを得て写真を パチリ。 グルン族の母子 2003.1.13 さらに下りの道をどんどん歩いて行くと、見晴らしのよい高原に出た。近くに民家も点在する。 15時40分ダンプスに着いた。ここで2日目のテント泊。子供たちが集まってきた。チベット系も いればネパ-ル系の子供もいる。テントの周りにきて珍しそうに私たちを見ていた。利発そうな 男の子にボ-ルペンを手渡すと、他の多勢の子供たちがワット近寄ってきて手を指し出してきた。 これは失敗、あわてて逃げだす。 ダンプス付近の民家 2003.1.13 グルン族の男性 2003.1.13 集まってきた子供たち 夕食はコックがつくってくれた。はじめにス-プ、そしてジャガイモとキャベツのカレ-、チキン、 豆カレ-、マカロニサラダなどを出してくれたが、なかなかの味だった。 夕食後はキャンプファイヤ-、たき火の周りでシェルパたちが、唄いながらダンスを披露してくれた。 歌は、♪ レッサンピリリ~レッサンピリリ~ ♪、ネパ-ル民謡だそうだ。歌は覚えやすい、彼ら の踊りもテンポよくリズミカルである。持参のブランデ-を飲みながら楽しいひとときを過ごした。 深夜トイレのためテントの外に出てみると、満天の星が煌めいていた。ひどく寒い、凍りつくような 冷気が辺りを包んでいる。しかし空気が澄んでいるためか、星空はひと際鮮やかに見える。 ヒマラヤのアンナプルナ山群の、夜空にちりばめられた星の光である。 1月14日早朝、シェルパたちが持ってきてくれたモ-ニングコ-ヒ-を飲みながら、辺りを見渡す と今日は曇り空、マチャプチャレも雲にかくれて姿を見せていない。ポ-タ-とコックは先に出発。 ポ-タ-の荷物をみて驚いた。一人の男性は食事に使うテ-ブルに椅子、その中にマットと寝袋、 重さは45キロもあるという。もう一人はマットと大きな袋に食器を詰め込んでいる。これも重そうだ。 二人共かっての日本の強力を思わせる。彼らはこの荷物を担いで、私たちよりも歩く速度は早い のである。 荷物を担ぐポ-タ-、 右の荷物は45キロある。 2003.1.14 二人の女性ポ-タ-は20歳前の娘、可愛い顔をしている。花も恥じらう年頃である。荷物を担いで いないときは、コロコロと笑いころげている。彼女らは私たちの荷物を背負って歩いて行った。 一人20キロぐらい、いや、それ以上あるかもしれない。私は彼女らのうしろ姿を見ていたが、実に たくましい。これもネパ-ルの山岳地帯に住む若い女性の仕事なのだろう…と思った。さよなら、 ポ-タ-の娘たちよ、幸せに…心の中でそう願わずにはいられなかった。 ポ-タ-の娘 2003.1.14 荷物を背負って山道を歩いて行くポ-タ-の娘 8時40分、ダンプス出発、崖下の山道を通り、のどかな段々畑を見ながらひたすら下って行く。 明るい尾根に出ると遠く集落が見えてきた。ハイキングの最終地点フエディである。そこから尾根 を下りきり、10時35分、フェディの村に着く。ここでシェルパたちともお別れである。 私たちは彼らと何回も別れの挨拶をした。握手したり、肩をたたき合ったりした。再び彼らと会う ことはないだろう… ときどき旅で経験するこうした別離が、胸にジンとくる。わずか2泊3日のつき合いではあつたが、 彼らの純真な姿には胸を打たれるものがあった。彼らはこれからまた、500kmの道のりをひたすら に歩いて、エベレスト街道の山村に帰ってゆくのだろう。”立派なシェルパになっておくれ”… そんな気持が私を捉えていた。 ジョムソンの風景 2012年12月5日、私は未明の3時に起床した。早朝、ポカラからジョムシン行きの飛行機に乗る ためである。ホテルのテラスから暗い空を見上げると半月がかかり、無数の星がきらめいていた。 空気は澄みわたり、星もひときわ輝いて見える。冷気が辺りを包み込みシンとしている。 突然、俺はいま異国にいるのだ、そんな感慨が私を捉えた。ジョムソンという、未知のところに行く 気持の高ぶりがあったのかもしれない。 ジョムソン行きの飛行機は小型機のためス-ツケ-スはホテルに預け、バッグの中に2泊3日分の 荷物を入れて、5時45分ポカラ空港に向かった。しかし空港は風つよく、深い霧に包まれていた。 2時間30分近く霧が晴れるのを待ったが好転せず、強風もあって8時30分ジョムソン行きのフライト は中止となった。 翌日も5時45分にホテル出発、6時前に空港に着いたが、その日も濃霧に包まれていた。3時間余り 待たされたが、9時丁度ジョムソン行きの小型機に乗り込むことが出来た。 アンナプルナ連峰を眺めることができるのは右側の座席だが、生憎私の座席は左側の後方、 しかも翼と胴体をつなぐ鉄柱が窓をさえぎり、非常に見えにくい。しかしクジ引きなので文句は いえない。 機は動き出したと思う間もなくすぐに飛び立ち、ポカラ上空から山間の渓谷に入った。右手に アンナプルナの白い峰々が見え始めてくる。失礼して左側の窓からカメラを向ける。見ているのは 山の西側の岸壁、まだ光は当っていない、地上から見るよりは形も違う、しかし、上空から見る アンナプルナ連峰の景色は壮観だ。マチャプチャレの西岸壁が正面にきた!、カメラを向けるが うまく撮れない、流れていく風景が早いためもある。見かねた添乗員のTさんが、私のカメラで1枚 撮ってくれた。マチャプチャレ山頂の魚の尾の形がはっきり見えている。構図もよい、なかなか うまく撮れている。 アンナプルナⅡ 7937m 2012.12.6 マチャプチャレ 6993m 一瞬アンナプルナⅠ峰も見えていたらしいが、その声でカメラを向けようとしたときには、すでに 後方へ過ぎ去ってしまっていた。右側の窓からダウラギリの姿をさがしていたが、よく判らなかった。 一瞬白い峰を眼に したが、それも稜線の一部で確認するまでにはいたらなかった。 まもなく機は下降しはじめジョムソン空港に滑り込んでいった。到着は9時30分、約20分のフライト だった。 ジョムソン空港はカリ.ガンダキ川に削られた大きな峡谷の中にあった。東南方向にニルギリ1峰、 その右にニルギリⅡ峰が聳え、その東奥にティリチョが真白い頭をのぞかせていた。しかし何れの山 も日が当っていないためか、不機嫌な表情に見える。ここは標高2632m。 空港の建物を出るとすぐそこはジョムソンの街、店先には野菜や果物が並べられ、日用雑貨、旅行 社、NPOの建物もあった。200mも歩けば街並みは切れ、荒涼とした風景が広がる。 ティリチョ(左) 7134m ニリギリⅠ峰(右) 7061m 2012.12.6 ジョムソンの街 2012.12.6 ジョムソンの街 左下の車は私たちが泊まるマウンテン.リゾ-トのトラクタ-、このトラクタ-で私たちの荷物を 運んでもらった。 10時ハイキング、スタ-ト。マルフアに向かう。天気はよい、気の遠くなるような青空が広がって いる。午後になるといつも強風が吹くというが、まだそれもない。多少埃っぽいが、空気は乾燥して 爽やかである。街を出るとすぐチベット系の女性二人に出会う。頭にカラフルなスカ-フをかぶり、 赤い服をまとっている。この一帯に住むタカリ族かもしれない。 しばらく行くと荒涼とした風景が広がる。眺望は大きい。ここはV字型に削られた大峡谷、左下に カリ.ガンダキ川が流れている。その川沿いの道を歩いて行く。 チベット系の女性 2012.12.6 カリ.ガンダキ川沿いの風景 乾燥しているためか、低い草木は枯れはて、赤くコケむしている。対岸の上にはマツかヒノキと 思われる針葉樹が繁り、ところどころ赤い山肌を見せているところもある。 上を見上げるとニルギル峰が聳え立っているが、光線の加減で、ぼんやりしている。 しばらくするとカリ.ガンダキ川の流れの近いところに出る。水量は意外に豊富、澄んだ水がかなり の早さで流れている。この川はチベット高原を源流とし、いくつかの川と合流しながらガンジス川に 注ぐ。ガンジス川の支流の一つであり、源流の一つでもある。 カリ.ガンダキ川の流れ 2012.12.6 ハイキング中のツア-メンバ- 磧の中を歩いてゆくと若い母子に出会った。娘はまだ2歳ぐらいだろうか、いや、2歳になって いないかもしれない、なかなか可愛い、クツを履いてよちよちとやってきた。近くに人家は見えない、 いったいどこに行くのか...彼女もタカリ族かもしれない。 カメラを向けると、母親は笑顔を見せて応じてくれた。一緒に歩いていた添乗員のTさんが、娘の 手にアメ玉を持たすとニッコリ。お礼を言ってバイバイ、娘も小さな手でバイバイ...厳しい自然の 中で生まれた娘よ、丈夫で生きておくれ...ここは君の故里なのだ...。 ハイキング中に出会った若い母子 2012.12.6 ここはアンナプルナ山系とダウラギリ山系に挟まれた峡谷だが、景観は大きい。のびのびとした 空気を感じる。風景も、住んでいる民族も、風土も、吹いてくる風も、どこかチベットに似ている。 いやまさにここはチベットなのだ、そんな空気を感じながら歩いて行く。 爆音が聞こえたので上を見上げると、ジョムソンから飛び立った小型機が、ポカラ方面に飛んで 行くのが見えた。朝から何回目かの客を運んで来たのかもしれない。 ハイキング中のツア-メンバ- 2012.12.6 ポカラへ飛んで着く小型機 右手に人家が見えてきた。石積みの家だが、壁は白い塗料でぬられたチベット風の家である。 屋根には馬か牛の飼料にするのか、乾燥させた草の束が積み上げられてあった。木々がまばらに 生える山を背に建てられた家の前には、シラカバに似た木が数十本植えられていたが、この峡谷は 強風の通り道になっているところ、これらの樹木は防風のためかもしれない。それにしても、こう したところにも生活して人がいるのだ...改めて思わざるをえなかった。 カリ.ガンダキ川そばに建つ民家 2012.12.6 前方に吊り橋が見えてきた。カリ.ガンダキ川に架かる橋である。吊り橋には端から端まで無数の タルチョが風にはためいていた。映画「幸せの黄色いハンカチ」のラストシ-ンを思い浮かべる。 旗は青、白、赤、緑、黄の5色あり、それぞれチベット語で経文がびっしりと書かれている。仏法が 風にのって拡がるよう願いがこめられているものだが、私は旅人の安全を祈る意味もあると思って いる。チベット圏では自分の周囲だけでなく、山頂や橋のような危険なところにも、必ずといって いいほどタルチョが吊るされているからである。 カリ.ガンダキ川に架かる吊り橋 2012.12.6 重い荷物を背負って吊り橋を渡って行く牛の姿を見て、ここは昔、チベットとインドを結ぶ交易路で あったことを思い出した。チベットは良質の岩塩がとれるところから、このカリ.ガンダキ川沿いの 道は「塩の道」とも呼ばれていたところである。吊り橋のそばには10軒足らずの小さな集落があっ たが、その集落の中や近くの道で、大きな袋に詰め込んだ荷物を背負って行き交う馬や牛の姿が 見られた。昔の「塩の道を」を想像させてくれるような光景だった。そのなごりを感じさせてくれる ような風景だった。 集落の人と荷物を背負って歩く馬 2012.12.6 集落の中では子供たちが走り回り遊んでいた。自分の妹を抱いて子守りしていた男の子もいた。 家の前で雑談している大人たちの姿もあった。都会の文明からはほど遠い風景だったが、どこか 懐かしいものを感じる。 道端には枯れた低い草木が繁茂していた。トゲがある、ラクダが好んで食べるラクダソウかもしれ ない。 荒涼とした風景が続く。まばらに木々が生えている山もあれば、一木一草もない山もある。大地は 乾ききっている、埃っぽい、しかし頬を切る風は清々しい。 ジョムソンからマルファへの風景 2012.12.6 ハイキング中の女性たち 前方に岩山に抱かれた集落が見えてきた。身を寄せ合うようにかたまっている。ジョムソン街道で 一番美しいと言われる、マルファ村らしい。集落の前には畑や、日本のNPOの指導によってつくら れたリンゴの果樹園が広がっている。水路に流れる水で洗濯をしている女性の前を通り過ぎ、村の 中に入る。切り石で畳まれた道の両脇には、白く塗られた石積みの家が整然と立ち並んでいる。 その通りに織物の民芸品や、アンモナイトを置いた店も眼につく。元気よく走りまわって遊んでいた 子供たちにカメラを向けると、きちんと並んでポ-ズをとってくれた。 マルファ村の遠景 2012.12..6 洗濯する女性たち 2012.12.6 マルファ村の子供たち 二人の女性は衣類を手でもんだり、叩いたりして洗濯していた。その昔、洗濯機がなかった時代、 日本人もこうして洗濯していたのである。遠いかっての日本の情景を見ているような気がした。 子供たちはワイルドでたくましい。眼もキラキラと輝いている。 狭い道の両脇に建物が立ち並ぶこの通りは暗くなりがちだが、白い壁がそれをカバ-している。 しかも家々は石積みでつくられ、道も切り石で畳まれているため埃がたちにくい。陽の光が当たる と、建物は映える。街並みの景観も整然としている。ジョムソン街道随一の美しい村といわれるの は、そのへんにあるのかもしれない。 この狭い通りに、背中に荷物をのせた何頭もの馬が通り過ぎて行った。その昔、この道がチベット とインドを結ぶ交易路であったことを偲ばせてくれる。 マルファ村のメイン通り 2012.12.6 馬が行き交うマルファ村のメイン通り 私たちは街中の通りから横道に入り、石段を上ってチベット仏教の寺、サムリン.ゴンパに立ち 寄ったあと、レストランに入り昼食。その後河口慧海が、チベットに向かう途中滞在したという 邸宅を訪ねた。 河口慧海はチベットに仏典を求めるため、1897年(明治30年)6月神戸を出発し、シンガポ-ル からインドのカルカッタを経由してダ-ジリンに到着。ここで約1年間チベット語を勉強したあと、 釈迦が悟りをひらいたとされるブッタガヤを参拝する。その後1899年2月ネパ-ルのカトマンズ に入り、ポカラを経てネパ-ル北部のツァ-ラン(旧ムスタン王国の領域?)に長期滞在、チベット にぬける道を模索していたらしいが、翌年1900年3月にマルファに入る。彼が34歳の時だった。 彼がここで滞在した家は、河口慧海記年館として保存されていた。かなり立派な家である。石材と 木材も使われた瀟洒な家のつくりである。結構も付近の家と比べると大きい。当時の村長の家 だったらしい。 河口慧海記年館 2012.12.6 彼の部屋は二階にあり、彼が着た衣類や僧衣、当時使われたと思われる茶器、ヤカン、また写真も 展示されてあった。衣類や僧衣、写真は、あとで寄贈されたものだろう。 河口慧海の部屋 2012.12.6 河口慧海の写真 この部屋の隣には仏堂があり、彼はここに置かれていた経文を読んだり、村人に説法しながら 3ヶ月を過ごしたと思われる。ここから眺める景色もよい、眼下には山と山の間を流れてくるカリ. ガンダキ川や、耕地が広がる。遠くにはヒマラヤの白い峰も望める。この風景は、彼が毎日のよう に眺めたもの だろう。当時から112年を経た今日でも、この景観はさして変わっていないにちがい ない。 仏 堂 2012.12.6 この部屋から眺めたヒマラヤの景色 彼はここで3ヶ月滞在したあと、1900年6月12日チベットをめざして出発する。そしてチベットの 西北に入り、さらに西へ向かい聖地カイラス山に巡礼、今度は東への長い旅路の果て1901年3月 チベットの首都ラサに到着、セラ寺にチベット僧として入学するのである。 河口慧海の家を辞したあと、もと来た道に戻り、ジョムソンに向かう。街中を通り過ぎると強い風が 吹いていた。辺りの砂を巻き上げている。 午前中はぼんやりしていたニルギリ峰も光が当りはじめ、山の形がはっきりしてきた。風は強い ものの、明るい陽光がふりそそぐカリ.ガンダキ河原を歩いて行く。山を眺めたり、お互いに写真を 撮り合ったり、気持のよいハイキングだ。 やがて丘の上に私たちが泊まるホテルが見えてくる。かなり高いところにある。あそこまで上って ゆくのか、みな多少ウンザリした顔をしている。それを察したガイドのラジブさんがホテルに電話、 そこに通ずる道下まで迎えの車を手配してくれた。ところがこの車、見たこともない大きなトラクタ- である。このトラクタ-に全員乗り込み、石がゴロゴロところがるガタガタ道を大きく揺れ動きなが らホテルに着いた。歩けばかなりキツイ上りの道、わずかの時間だったが、面白かった。 ニルギリ峰 2012.12.6 ニルギリ峰 2012.12.6 ホテルのトラクタ- このホテルの名前はマウンテン.リゾ-ト、玄関とレストランの一部を除けばすべて石でつくられ ている。壁や廊下、部屋のテ-ブルまで石材である。しかしこの山間のホテルにしては豪華で立派、 経営者はカトマンズ在住の人らしい。夜は冷え込むので、従業員の女性が湯たんぽを入れてくれた。 多少寒いが快適なホテルである。 翌12月7日、5時30分起床、まだ外は暗い、6時30分ニリギリ連峰の稜線がクッキリしてくる。 7時になってようやく山頂の一部に光が当るが、山全体は暗い。 今日はホテルから対岸の丘の上に見えるティニ村へのハイキング。ホテル8時30分出発。大きな石や 岩の破片がちらばるガレ場の道を下って行く。 ホテルから山道を下って行くメンバ- 2012.12.7 ホテル.マウンテン.リゾ-ト 今日も空は青く澄みわたっている。正面にトランピック山(6000m位)を望む。眼下に空港、その 脇にジョムソンの集落、右手の丘の上にも集落が見えている。 ジョムソンの街中に入ると、日本のNPOの建物が眼に入る。そのドアの上にネパ-ル.ムスタン 地域開発協力会、近藤亨と書かれていた。私が初めて知る名前である。 日本のNPOの事務所 2012.12.7 対岸から見たジョムソンの集落 調べてみると彼は新潟県出身の農学博士。1976年国際協力事業団(JICA)から植樹栽培専門 家としてネパ-ルに派遣され、以来ネパ-ルのために尽力する。JICAを辞めたあともネパ-ル. ムスタン地域開発協力会の理事長としてこの地に留まり、リンゴなどの果樹、野菜栽培の指導や、 小学校、病院などを建設し、地元の人たちのために、90歳を過ぎた今でも活躍している人だという。 とくに1998年10月、標高2750mの、これからハイキングで行こうとしている「ティニ村」で、 世界最高地の稲作に成功したが、この地方は年中風が強いため稲作はビニ-ルハウスで行わねば ならず、そのためコストがかかりすぎ、広く普及させるまでには至らなかったらしい。しかしこの ジョムソン街道の人たちからは神様のように尊敬されている人だと聞いた。ネパ-ルや日本からも 数々の功労賞、文化賞が授与されている。それにしてもこの秘境で、40年近くも現地の人たちに尽く している日本人がいることを知って、日本人としてなにか誇りを感じるような気がした。 マルファでもそうだったが、このジョムソン周辺にもリンゴの果樹園が広がっている。 これも近藤亨氏をはじめ、日本のNPOの研究と指導によって、栽培することができるようになった ものだろう。 ジョムソン村のほんの少し北へ行った地点からは、旧ムスタン王国の領域で入国許可が必要な ため、その手続きを済ませて吊り橋を渡り、ティニ村への小道を歩いて行く。棚田が広がり展望も よい。しかしけっこう上りがキツイ。丘のホテルからはすぐ近くに見えていたこの辺りだが、かなり 距離もある。上に登って行くにしたがい、眼下にカリ.ガンダキ川の流れ、その河岸にジョムソンの 集落が見えてくる。そして右はるか遠く、ダウラギリの白い山容が望めるようになってきた。 標高8167m、世界で7番目の高峰である。 ダウラギリ 8167m 2012.12.77 ダウラギリは「白い山」という意味。その名前のように全身白い雪に覆われている。山頂から左下 に流れる山容が、青空に映えて光り輝いている。眼の覚めるような美しさだ。ただ手前の山にさえぎ られて全景が見えないのが残念。 ティニ村に入ってきた。この村も家々は石積みでつくられ、壁は白く塗られていた。空地では子供 たちが遊び、そばの通りには、背中に薪や荷物を入れた袋をのせた馬や牛の行き交う光景に出会った り、またカゴを背負って歩く子供の姿も見られた。 横の路地で一心に祈る少女の姿があった。いったい何を祈っているのだろう…その真剣な表情に 見とれる。 ティニ村の一角 2012.12.7 薪を運ぶ馬 カゴを背負って歩く子供 2012.12.7 一心に祈る少女 さらに上ってゆくとチベット仏教の寺ゴンパがあったが、僧侶が留守のためか門はかたく閉じられ ていた。 集落の一番高いところに着く。そこからはヒマラヤの白い峰々が望め、眼下の家々の屋根には薪が 積み重ねられ、タルチョが風にはためいていた。その風景を眺めたあと下って行き、民家を訪ねる。 畑で薪を整理していたオバさんにガイドのラジブさんが声をかけ、承諾してもらった突然の訪問で ある。 ティニ村の民家 2012.12.7 民家の女主人 家は四方壁で囲まれていた。ドアを開けて中に入ると庭がつづき、その奥にいくつかの部屋がつく られていた。外から見るよりは立派な家である。 一通り部屋を覗かせてもらったあと、誰かが彼女に 「ここでの生活はいかがですか?」というような意味の質問をした。この辺鄙な村で不自由をして いないか、と思ったのかもしれない。 彼女は 「子供はポカラに出て行きましたが、私はここが好きです。子供からポカラに来ないかと誘われる こともありましたが、私はここを離れません、ここで生まれ、ここで育ち、何十年も過ごした故里 なのです。私はこのティニ村が好きなのです、この村で暮らしていくことが私の幸せなのです。」と 笑顔を見せながら話してくれた。 私はこの話を、ある感慨をもって聞いていた。随分前に中国の四川省のチベット族の村で、 20歳前の若い娘から、同じような話を聞いていたからである…。 民家を辞しティニ村をあとにして、私たちはジョムソンのホテルに帰った。 わずか二日間のジョムソン街道の旅だったが、楽しかった。何か郷愁を感じさせてくれるものが あった。 この旅は、懐かしい思い出として今も私の胸の中にある。 チトワン国立公園 チトワン国立公園は、中央ネパ-ルの南部に位置するタライ平原の中にある。西にはナラヤニ川、 北にはラプティ川が流れ、南部の一部ではインド国境に接している。広大な園内は鬱蒼とした木々 が生い茂るジャングルで覆われ、絶滅寸前のインドサイ、ベンガル虎、ワニ、クジャク、シカなどの 野生動物や、400種以上もの野鳥も生息しているらしい。1984年にはユネスコの世界遺産にも登録 され、多くの観光客が訪れるようになった。 私はこの公園に、1998年12月、2003年1月、そして昨年の12月に訪ねている。 2012年12月8日、ポカラからチトワン公園に着いた私たちは、ナラヤニ川のカヌ-下りを楽しんだ。 時間は16時を過ぎたところで辺りはうす暗くなりかけていたが、ジャングルの中の川下りは、 私をすこしアドベンチャ-気分にさせてくれた。川面に頭を出したワニに出会ったり、様々な珍しい 野鳥の姿を眼にすることができたのである。ただワニに気づいたときはすでにカヌ-が通り過ぎた あとで、その姿をカメラに収めることは出来なかった。非常に残念。 ナラヤニ川夕暮れの風景 2012.12.8 夕暮れのカヌ-下り 2012.12.8 カヌ-を引き上げてくる船頭 すでに仕事を終えたのか、カヌ-を引き上げてくる何人もの船頭に出会った。しかし夕暮れ時の 川下りは神秘的な雰囲気が漂い、面白かった。 2003年1月に来たときは、ナラヤニ川の東にあるラプティ川のカヌ-下りをした。今回の時間は 50分足らずだったが、その時は15時から17時までの2時間、ゆっくりと川下りを楽しんだ。 河岸でのんびり草を食む牛の群れ、ヒマラヤを越えてやってきた渡り鳥、水辺で遊ぶ子供たち、 遠く平原の中を歩いて行くカラフルな服を着た女性の姿があった。どこか悠久の時の流れる感じる 風景だった。 のんびりと草を食む牛の群 ラプティ川 2003.1.10 ヒマラヤを越えてやってきた渡り鳥 ホテルに帰り、その庭でタル-族のスティックダンスを見た。長さ70cm~80cm位の棒を手に 持ち、それを器用に振り回しながら敷地内をぐるぐると廻っていく踊りである。踊り手はみな男たち、 テンポよくリズム感もあり、たくましさも感じる。 タル-族はインドの西、ラジャスタ-ン地方から移住してきた民族といわれ、タライ平原で農業を 営み、 家畜を飼育しながら自給自足に近い生活をしているという。家の骨格は木でできているが、 屋根はワラ葺き、壁は、ワラと粘土を混ぜ合わせて塗られている。カマドも粘土でつくり、草を利用 してカゴ、敷物、笠などをつく り生活用具にしているらしい。またその昔、王族による象を使った 大規模な狩猟が行われたときの象使いはタル-族だったことから、今でも観光用の象使いの多く はタル-族といわれる。 今回はなかったが、1998年と2003年に来た時はタル-族の家を訪ねている。庭先では牛が つながれ、鶏が放たれ、羊が遊び、猫が日なたぼっこをしていた。その風景も家の風情も、どこか 日本の昔の農家を彷彿とさせてくれる。家の周りでは多勢の子供たちが走り回って遊んでいた。 彼らは素朴で人なつっこい。カメラを向けるとワット集まってくれた。 タル-族の子供たちと 1998.12.28 タル-族の子供たち タル-族の家 1998.12.28 タル-族の家 陽が沈んでしまった夕暮れ時、私はチトワン公園内を散策したことがある。まだ森の遠くで子供 たちの遊ぶ声が聞こえていた。この闇のなかで何をしているのだろうかと思いながら、あるⅠ軒の 家の前にくると、夕食をとっている家族の姿があった。家の中は真暗、家の外のたき火の灯りで、 母親と子供たちが食事をしていたのである。なんとも淋しい気がしたが、この辺りのタル-族の家の 普通の光景かもしれない。今回もバスの窓からタル-族の家々を眺めていたが、その風情は当時と あまり変わっていないように思われた。 翌12月9日はジャングル.サファリ。象に乗ってチトワン公園のジャングルを探検しながら、 野生動物のウオッチイングをしようとするものである。この森の中にはインドサイ、ベンガルトラ、 イノシシ、クジャク、シカ、ヒョウ、リスなどが棲んでいるとされているが、トラに出会うことは めったにない。 ただ10年前のネイチャ-ウォ-クでトラの糞は見たことがある。インドサイやクジャク、シカ、 イノシシなどはその都度出会っているし、同じツア-の人が、樹の上にいたヒョウを見たという ことも聞いている。 午前8時、備え付けられた櫓の台の上から、象の背中に左右二人づつ4人乗る。象の頭には象使い。 ジャングル.サフリ 2012.12.9 いよいよ出発。この時期いつもそうだが、朝靄が立ちこめあまり視界はきかない。段差のある ところにくると大きく揺れるが、象の背中の高さで見る景観は快適である。まもなく川を渡り対岸の 森の中に入って行く。森は静まりかえっている。私たちも大声は出さないようにする。動物を驚かさ ないようにするためだ。 ジャングル.サファリ 2012.12.9 森の中にどんどん入って行く。しかし動物らしきものにはまったく出会わない...と思っていると シカが現れた。5~6頭はいる。近寄っても逃げない。平気な顔でこちらを見ている。人間は襲わ ないと思っているのか、それとも象の背中にいるから安心しているのか... 森の中に現れたシカ 2012.12.9 象は、ときどき葉のついた枝を長い鼻で巻き、バリバリと折りとって食べている。その強い力には 驚いてしまう。かなり太い枝でも簡単に折ってしまうのだ。 それにしても他の動物が出てこない、眼を凝らしなが辺りを見ているが、ぼんやりと浮かぶ木々と 背丈の高い草ばかり...すこしガッカリしていると、背中合わせに座っているOさんが、小さな声で 「あそこにクジャクがいる!」と教えてくれた。首を曲げて見ると沙羅双樹らしき枝に、クジャクが 止まっているではないか!。うしろ向きにカメラを向けようとすると、象使いの彼が、気をきかせて 象の向きを変えてくれた。 沙羅双樹に止まるクジャク 2012.12.9 クジャクは昼間は地上に降りてエサをついばんでいるが、夜は天敵から逃れるためだろう、樹に 上って休む。今眼ざめたばかりかもしれない。落ち着かない様子で辺りを見廻していた。 さらに森の奥深くに入って行く。しかし目当てのインドサイは現れてこない。以前来た時はすぐに 眼についたのだが、どういうわけだろう、朝はヤブから出て動きまわっているはずなのに...まあ、 これだけ毎日観光客が来ているのだ、サイも嫌がってどこか遠くに移動したのかもしれない... そんなことを考えていると、 「アッ!サイだ!」という声がした。象使いの彼が呼び指す方向を見ると、草叢の陰にサイが身を 隠すようにひそんでいたのである。しかも子供を連れている。 インドサイ 2012.12.9 親子連れのインドサイ 2012.12.9 私たちが近づくとサイは逃げようとした。しかし象使いの声と合図により、私たちグル-プの象 たちが、逃げようとするサイの前に立ちふさがり、四方から遠巻きに取り囲んでしまった。4頭の 象に囲まれたサイは、逃げ道をふさがれてしまったのである。それでもサイは閉じ込められた 場所で、前後、左右に動き回り、落ち着かない様子で、逃げ道をさがしていた。 今回のサイは比較的おとなしかったが、18年前に出会った親子連れのサイは凄かった。4頭の 象に囲まれてしまって猛り狂い、鼻から”シュ-!”と白い息を吹き飛ばしながら、今にも突進して きそうな勢いだった。それを見た1頭の象が長い鼻を高く振り上げて”プオゥ-!”...ビックリする ような大きな声で咆哮、サイを威嚇したのである。私はまさにこれがゾウサファリなのだ、と興奮 したことを覚えている。今回はその時のような迫力はなかったが、それでも面白かった。ジャングル サァリの一応の目的は果たすことができた。 しかしこの行為は、サイたちにとって大迷惑にちがいない、彼らがこうした経験を積み重ねて、順応 してくれることを願う。 私たちは帰路に向かった。その途中で、先程のサイだろう、親子連れで草叢を歩いて行く姿が見ら れた。 帰路につく私たちのメンバ- 2012.12.9 まだ辺りは霧に包まれぼんやりしている。森のほとんどは沙羅双樹に覆われ、明るい平原に出る と紅葉した草木が繁茂していた。その中に日本にも園芸種として渡来しているランタナや、象が 好んで食べるエレファント.アップルツリ-、エレファント.グラスも見られた。 象の大好物エレファント・アップルツリ- エレファント.グラス 2012.12.9 エレファント.グラスはススキを2~3倍高くしたような背丈がある。イネ科の植物だろう。森を ぬけ大きな河原に出ると、そこに二羽のクジャクがエサをついばんでいた。のどかなチトワンの 風景である。 河原でエサをさがすクジャク 2012.12.9 チトワンはいつ来ても面白い。いつかこの森の奥深くで、ベンガル.トラに遭遇できるようなジ-プ. サファリがあれば、参加したいと思っている。 カトマンズとその周辺 カトマンズはネパ-ルの首都。ヒマラヤの山々に囲まれた盆地にある。ネパ-ル人口2500万人 の内、約180万人がこの盆地に住んでいる。私が15年前に訪ねた当時は、街の中心部にくると 身動きできないほどの人波でごったがえしていたが、それなりに古都の雰囲気を感じた。ところが、 1昨年と昨年来たときは驚いた。街中は車、バイク、人波で大混雑していたのである。そのうえ デモなどがある時は、それこそ大渋滞になる。これは道路が狭いうえに、道路の整備がほとんど なされていないためもあるだろう。 しかし、ダルバ-ル広場や旧王宮の中に入ると静かで、神秘的な空気が流れているように感じる。 中世の赤レンガの建物とその風情が、タイムスリップしたような気持を与えてくれるためかもしれ ない。昨年は失礼したが、1昨年はこの広場を訪ねている。 ダルバ-ル広場の寺院 2011.5.20 ダルバ-ルというのは、ネパ-ル語で「宮廷」を意味する言葉。この広場の王宮や寺院群は、 12世紀~17世紀のマッラ朝時代に建てられたものらしい。人通りは多いが、どこかのどかな雰囲気 がある。横の路地に入ると屋台風の店が立ち並び賑わっていた。ぶらぶら歩いて行くと空地に大きな 菩提樹があり、その先でハヌマンと呼ばれる像が置かれていた。猿神に化身したシヴァ神だという。 シヴァ神はヒンドゥ-教の中で最も崇拝されている神で、その姿もいろいろと変化するらしい。 菩提樹 2011.5.20 シヴァ神の化身 ハヌマン像 ダルバ-ル広場をぬけて街中に出ると、道は車、バス、バイクでごったがえしていた。バスは すし詰め状態、その屋根の上にも多勢の人が乗っている。車と車の間をすり抜けて行くバイクも いた。折からのデモ隊に遭遇、大渋滞を起こしていたのである。 大渋滞になっていたカトマンズの街 2011.5.20 その日の昼食は日本料理屋、「田村」でとり、スワヤンブナ-ト寺院を訪ねた。大日如来像が祀ら れているというネパ-ル最古の仏教寺院である。階段を上ってゆくと、丘の上に金色の仏塔が青空に 高く突き上げ、緑の木々の向うには、赤レンガのカトマンズの街が広がっていた。 スワヤンブナ-ト寺院の仏塔 2011.5.20 カトマンズの街 境内の周りには土産物屋が軒を連ね、いろいろな民芸品が置かれてあった。とくに眼についた のが魔除けの仮面。様々な表情をしたものがあって面白い。チベット仏教の仮面に共通したものを 感じる。私はこれに興味がある。郷土芸能の神楽に、これによく似た仮面を使うからだ。ここでは なかったが、この仮面の一つを買って持ち帰ったことがある。その仮面はわが家の壁に飾り、今で もときどき眺めている。 魔除けの仮面 2011.5.20 クマリ館にも立ち寄った。ここは女神クマリの化身として崇拝される少女が住む。いわゆるヒンズ- 教の活仏である。少女は家柄正しい5歳ぐらいの幼女たちの中から選ばれ、初潮が始まる13歳頃には 交代する。ガイドのタパさんが大声で呼びかけると、しばらくしてきらびやかな衣装を着て帽子を かぶり、眼を大きくふちどった少女が二階の窓から顔を出してくれた。笑顔はなく、つまらなそうな 表情である。少女は、私が随分前にここで見た少女とは既に代わっている。わずか30秒位だったが、 以前よりは長く顔を見せてくれたような気がした パシュパナ-トはガンジス川の支流であり、聖なる川とされるバグマティ川の川岸にあるネパ-ル 最大のヒンドゥ-教寺院。異教徒は寺院内への立ち入りが許されていないため、私たちは周辺を散策 しながら外観を見学させてもらった。ここは昨年も訪ねている。参道には多勢の参拝客が訪れ、供え 物などを売る店も並んでいた。橋のたもとに火葬場があるためか、イヤな臭いが鼻をつく。 亡くなった人たちはここで荼毘にされ、バグマティ川に流してもらう。多勢の人たちがその順番を 待っているという。川面は黒く澱んでいたが、ヒンドゥ-教徒の人たちはこれを汚いという感覚では 見ていないだろう、この川はガンジス川につながっている聖なる川なのである。 パシュパナ-ト寺院 2012.12.11 パシュパナ-ト寺院火葬場 2011.5.20 パタンはカトマンズの中心部から南に5kmほどのところにあり、古代に設立されいくつかの王朝 時代を経て栄えてきたとされている。中世にはパタン.マッラ朝の都となり、当時の王宮をはじめ 多くの歴史的な建造物.文化財が残されている。昨年12月4日、私たちがここに入ってきたのは 9時過ぎ、まだ車とバイクの進入は規制されている時間帯で、落ち着いた雰囲気の中でダルバ- ル広場を散策することができた。ここに建ち並ぶ寺院はヒンドゥ-教ののものが多いが、仏教寺院 もいくつか見られた。赤を基調とした建築群はカトマンズのそれよりも美しい 寺院群の中でひときわ眼をひくのが石造りのクリシュナ寺院。21の塔をもち、恋愛の神クリシュナ が祀られているという。ヒンドゥ-教寺院で、異教徒は内部に入ることはできないらしい。 パタン.ダルバ-ル広場 2012.12.4 クリシュナ寺院 クンペシュワ-ル寺院は、ネパ-ルでは珍しい五重塔をもっている。その形は日本のそれに似て いるが、屋根はトタンでつくられているらしい。14世紀に建てられたとされるシヴァ神を祀る寺院。 ダルバ-ル広場には二つの石柱が見られたが、これはその一つ。坐像の背にコブラの形をした ものが見えるが、ヘビは護り神、水の神、雨の神として崇められているという。 クンベシュワ-ル寺院 2012.12.4 ダルバ-ル広場の石柱 旧王宮の外側と中庭を囲む建物はレンガの壁となっている。二階の庇の支持棒に彫られた神像は 精巧につくられ、当時のパタン職人の技のすばらしさを感じる。 旧王宮の中庭 2012.12.4 旧王宮二階庇の神像 ゴ-ルデンテンプルは仏教寺院だが、そのレリ-フや彫刻を見るとヒンドゥ-教と混交している 雰囲気を感じる。12世紀の建造とされている。 ゴ-ルデンテンプル寺院 2012.12.4 中庭の獅子 バクタブルはカトマンズからわずか東へ15kmのところにあるが、この通りを歩いていると、 まるで中世の街に入りこんできたような気分にさせてくれる。カトマンズのような喧騒はない。 赤茶けたレンガの建物に挟まれた狭い路地は、静かでのどかな空気が流れている。私たちは この路地を歩いてタチュパル 広場に向かった。 バクタプルの通り 2012.12.10 しばらく行くとタチュパル広場に出た。14世紀につくられた最も古い広場らしい。その中央には ダッタトラヤ寺院が、その近くに木彫美術館が、そして広場をとり囲むように民芸品などを扱う 土産物屋が建ち並んでいた。いずれもレンガづくりの古い建物で、落ち着いた佇まいを感じる。 タチュパル広場にて 2012.12.10 タチュパル広場 ダッタトラヤはビシュヌ神の化身とされ、15世紀のマッラ朝時代に建立されたヒンドゥ-教 寺院。プジャリマ-トと呼ばれる木彫美術館はかって僧院だったところで、この建物の外側にある 「孔雀の窓」がネパ-ル工芸美術の最高傑作として世界的に評価されているという。 木彫美術館の外壁 2012.12.10 木彫美術館外壁の「孔雀の窓」 ダルバ-ル広場の入口に獅子の像があり、中に入ると、旧王宮や寺院の建物が明るい陽光に照り 映えていた。建物の多くはマッラ朝の17~18世紀につくられたもので、ダルバ-ル広場の中で もバクタプルのものが一番美しいとされている。さらに歩いてゆくと、この街のシンボル的存在と いわれる五重塔が見えてきた。 ダルバ-ル広場の獅子像 2012.12.10 五重塔のニャタポラ寺院 この寺院は18世紀初めに当時のマッラ王により建立された。ニャタポラ寺院と呼ばれているが、 高さは30mあり、カトマンズ盆地で一番高い寺院らしい。ニャタポラとは五重の屋根という意味。 自由時間に路地を通り抜け出たところで、家の縁側で黙々と糸車をひいているオバアちゃんに 出会った。どこか懐かしい光景だった。是非撮りたいと思い、”ナマステ!”と声をかけカメラを 見せて許しを請うと、快く応じてくれたので、パチリ。 旧王宮近くの路地 2012.12.10 糸車をひくオバアちゃん お礼にいくばくかのルピ-を手渡すと、すこし笑みを見せ受け取ってくれた。ところがまた手を差し 出してきたのである。渡した金額に不満だったのかどうか...このオバアちゃん、なかなかのしたたか 者だ。 その日の午後、ブングマテイ村というところで、ラトンマチェラナ-トと呼ばれる寺院に案内して もらった。この寺は石造りのヒンドゥ-教寺院のような外観をしていたが、仏教寺であったように 記憶している。チベット仏教はヒンドゥ-教の影響を受けているのかもしれない。寺の本堂前で白い 袈裟をまとって筵に座り、辺りの様子を見ていた僧侶の姿があった。僧侶はチベット族のように 見える。 ラトンマチェラナ-ト寺院 2012.12.10 ラトンマチェラナ-ト寺院の僧侶 彼に内部を案内してもらったが、他には僧侶はいなかったように思う。それにしても一人でこの寺を 護っているとは…。 ここからコカナ村にむかって歩いて行く。辺りは広々とした田園風景が広がる。道の両脇には古びた 赤レンガの民家が建ち並び、軒先に積まれた麦わらで縄を編んだり、糸車をひいている女性や、 家の中でノミを持って何かの工芸品をつくっている男性の姿が見られた。道端にはヤギやニワトリ、 アヒルが放たれ、遊んでいた。人間と動物が一緒に暮らしている村の風景である。 村のはずれにくると、家の前に置かれた長椅子に座って、ぼんやりと辺りを眺めている老人の姿が あった。かなりの高齢のようだ。彼のそばでしばらく休憩する。 村で出会った老人 2012.12.10 工芸品をつくっている男性 メンバ-の一人が、老人の横に腰かけ話しかける。 「あなたは何歳ですか?」言葉は英語である。しかし通じていないらしく怪訝な顔をしている。 次に手で示しながら「90歳?」と聞くと、今度はわかったのか「ウン」というふうに、少し首を縦に 振りうなずいている。私はホントかな、もう少し若いのではないかと思い、88歳ぐらい?と聞くと、 やはりウンとうなずく…どうやらこちらの言うことがわかっていないようだ。それともトボけている のかな?…そこにガイドのラジブさんがやってきて、”この人は82歳ぐらいですよ、と教えてくれた。 しかしこの老人、ひょうひょうとした味があってなかなか面白かった。 右の写真は通りがかりに撮ったものである。私がカメラをむけても振り向きもせずに、一心にノミで 何かを彫り込んでいた。伝統あるネワ-ル美術は、こうしたところから生まれているのかもしれない。 ボダナ-ト寺院は高さ36mの仏塔をもつネパ-ル最大のチベット仏教寺院。その始まりは仏舎利が 収められた5世紀とされているが、現在の伽藍は15世紀に再建されたものだといわれている。 チベット仏教の聖地として多くの信者たちが巡礼に訪れるという。半円形のド-ムのような形をした 台座の上に高い仏塔が聳え、塔頂から四方にチベット仏教の旗、タルチョがはためいている景観は 圧巻である。周囲には骨董品、土産物が軒を連ね、河口慧海の記念碑も壁面に彫られていた。 河口慧海は1899年2月ここを訪ね、住職の世話になりながらしばらく滞在したらしい。 私たちが訪れた2011年5月には、巡礼者たちが五体投地する姿が見られた。 ボダナ-ト寺院 2011.5.20 五体投地する巡礼者 2011.5.20 ボダナ-ト寺院内部 2012.12.11 昨年の2012年12月にここに来た時は、一通り周囲を歩いたあと、寺院前の道路に出て街を眺めて いた。まだ昼下がりの時刻でラッシュ時ではなかったが、それでも道路は多くの車やバイクで混雑を きわめ、歩道に立っていても、人とぶっつかってしまいそうになるほど人通りが多かった。 そうした喧騒の中で何か音が聞こえるのでその方に眼をやると、夫婦らしき盲目の男女が、路上の 端で太鼓とタンバリンを手でたたきながら、音楽らしきものを奏でていたのである。そのたたき方 は実に激しく、一生懸命な気持がこちらに伝わってくる。 路上で太鼓とタンバリンをたたく盲目の夫婦 2012.12.11 通行者が前の容器に札を入れると、女はその瞬間札を手で触り、男にもその種類を確かめさせ ていた。そしてまた太鼓とタンバリンを激しく打ち鳴らす。二人は物もらいではない、立派に働いて いる。盲目で貧しいながらも一生県命に生きようとしている。そのたくましいパワ-には圧倒されて しまう。ある種の感動さえ覚えてしまう...。 私はその様子をすこし離れたところから見ていて、いくばくかの札をその容器に入れようかどうか 迷っていた。しかし、結局は何もしなかった...それを今でも悔やんでいる。 カトマンズではドゥワリカ.ホテルに泊まった。カトマンズ随一の格式を誇る高級ホテルである。 外からはくすんだ赤レンガの外壁の普通のホテルに見えたが、中に入るとその瀟洒なつくりに眼を 見張るものがあった。内壁や置物などに、ネパ-ルの伝統美術をとりいれた美しい木彫装飾が施され、 いかにも格調高い雰囲気を感じる。民族衣装の制服を着たホテルマンも感じが良い。 外の喧騒は完全にシャットアウトされ、静かな空気が流れる別世界の感がある。中庭にはプ-ル があり、青い水を湛えていた。 ドゥワリカ.ホテル中庭 2012.12.12 私に与えられた部屋は、ドアを開けて階段を上った二階にあった。手前に応接室、、段差になった 奥にはダブルベッドが二つ置かれた寝室、手洗い場、風呂場、トイレと続いていた。奥行きは18m 位、横幅は広いところで6m位だった。インテリアはネパ-ル風に統一され、随所に伝統工芸品や 骨董品が置かれていた。スイ-トル-ムなのだろう。この広々とした部屋で私は、夕食まで持参した ブランディ-を飲みながら、それまで旅してきたネパ-ルの風景を思い浮かべていた。 私が泊まった部屋 2012.12.12 夕食は伝統的なネパ-ル料理が出されたが、味はよく覚えていない。ただ民族衣装を着た女性が 注いでくれたネパ-ルの酒はとても美味しく、何杯もお替りをしてホロ酔い気分になったことを覚え ている。 昨年12月11日、私たちは旅程スケジュ-ルにあったエベレスト遊覧飛行に参加した。 小型飛行機を借り切り、空からヒマラヤを眺めようとするものである。私はそれまでネパ-ル国内 を移動する時、小型飛行機で何回かヒマラヤの上空を飛んだことはあるが、エベレスト近くまで行く のは初めてだった。 早朝空港は霧に包まれていたが、10時過ぎ私たちは飛行機に乗り込んだ。機は動きはじめると すぐにスピ-ドを早め空に舞い上がった。そして雲を突きぬけその上に出た瞬間、アット息をのむ ような大きな景観が眼に飛び込んできた。壮大な眺めである。ヒマラヤの白い峰々がどこまでも続 いている。鋭い山顚を空に突き上げている山もあれば、やわらかい稜線をもっている山もある。 その山の形も機の移動とともに刻々と変化する。まさに地球の屋根のパノラマである。しかし山の 名前はよく判らない。時々女性乗務員が機内を周りながら教えてくれるが、どの山か探しているうち にその山はうしろに過ぎ去り、また新しい山が現れてくる。 何枚かの写真をカメラに収めたが、窓が汚れているためかどうも映りがよくない。写真は諦めて しばらく外の景色を眺めながら、エベレストが見えるのを待っていた。すると遠くにエベレストらし き山が見えてきた。その手前に聳えているのはローツェかもしれない…と思っていたその時、女性 乗務員から案内があり、操縦室に入ることが出来たのである。 エベレスト 8848m ( 左奥) ロ-ツェ 8516m (右) 2012.12.11 操縦室に入って驚いた。窓はキレイに葺かれて視野が大きく、山の景色もひときわ美しく見える。 機長も愛想がよい、手で指しながら、「レフト、エベレスト!、ライト、ロ-ツェ!」そしてマカル- の方角を指し「マカル-!」、さらに遙か遠くを指しながら「カンチェンジュンガ!」、と歯切れの よい声で教えてくれた。この窓から世界最高峰のエベレストをはじめ、第3位のカンチェンジュンガ、 第4位のロ-ツェ、そして第5位のマカル-が一望に見えたのである。 エベレストとロ-ツェはすぐに判ったが、マカル-は初めてだったし、カンチェンジュンガも随分前 に遠望しただけだっただけに、機長の教えは大いに助かった。ここで私は3枚の写真を撮って機長室 を出た。 マカル- 8463m 2012.12.11 遠くカンチェンジュンガ 8586m 遠くカンチェンジュンガを見ながら機はゆっくりと旋回、向きを変えてもと来た路をもどって行く。 今度山を望めるのは右側の窓。再びマカル-が現れ、エベレスト、ロ-ツェが見えてくる。そして それらの山も後ろになり、ゆっくりと山の形が変わっていく。 あの山は山野井さんが挑んだギャチュンカンかもしれない、その隣はチョ-.オユ-のはずだが… しかしどうもはっきりしない…と思いながらカメラを向ける。 遊覧飛行の帰途、エベレストの次に現れてきた山々 2012.12.11 その後も顔を窓にくっつけるようにして流れていく風景を眺める。白い峰々は果てしなく広がって いる。どこまでも続いている。この遊覧飛行で見られる範囲は約400km位だと聞いている。しかし ヒマラヤの大きさは東端のヤルンツァンボ川の大屈曲部から西端のインダス川の峡谷まで、延長 約2500km、幅200~300kmある。私たちが視野に入れたヒマラヤは中心部ではあるが、その一部 にすぎない...。 そんな思いに耽っていると、機はカトマンズに近づいてきた。西に見えてきたのはシシャパンマか、 それともランタンか...どうもよくわからない。 カトマンズの上空から見たヒマラヤの山々 2012.12.11 機はゆっくりと機首を下げ、やがてカトマンズ空港に滑り込んで行った。飛行時間は約50分。 今でもその光景が思い浮かぶような、すばらしい天空の眺めだった。 私は15年前から何回かネパ-ルを訪れている。帰国してもまた行きたくなってしまう。 私をそこまで惹きつけてきたものは、ヒマラヤのすばらしい風景であるにちがいない、 さらに、その山麓に住む人たちの素朴な表情にあるのかもしれない、ジョムソン街道 しかり、エベレスト街道しかり、タライ平原しかり…。 悠久の時の流れを感じるチトワンの川岸の風景もよい、そして何よりも、純朴で心やさしい シェルパ たちとの交流は楽しい。 いつの日か、またネパ-ルを訪ねてみたいという時がくるかもしれない、いや必ずやってくる にちがいない、ヒマラヤは私を惹きつけてやまないところだから…。 ― 了 ― 2013.8.22記 私のアジア紀行 http://www.taichan.info/ |