井上靖記念館  野分の館を訪ね

                                                                      (2013.4.19)


                
野 分 の 館 (鳥取県日南町)

                              

      野山の若葉がいっせいに萌えだし、いよいよこれから新緑の季節に入ろうかとする4月半ば
    過ぎ、私は鳥取県日野郡日南町にある井上靖記念館”野分の館”を訪ねた。
    そこは中国山脈のやや東寄りの真中辺りにあり、千葉からは遠く離れているためなかなか行く
    機会をもてなかったが、広島時代の親しい友人から4月20日に行われるOB会に出席しないか
    と誘われたのを機に、思い立って出かけてみることにしたのである。
    そのOB会の2日前の早朝千葉をたち、新幹線で岡山まで行き、そこから伯備線に乗り換 えて
    午後12時 40分頃生山駅に降り立った。
          その日は駅近くの石霞渓の周囲を散策したり、そこから日野川沿いに約7km先にある、
    松本清張の文学 碑を訪ねたりして過ごした。
     宿は”野分の館”に行くには生山より近い上石見駅周辺にとりたかったのだが、そこは無人の駅
    らしく旅館もないということだったので、生山駅から約2km離れた役場近くの井谷旅館でとった。
    翌日8時30分、野分の館まで12kmの道のりを徒歩で往復するのはちょっとキツイと考え、往路は
    タクシ-で行くことにした。
     日野川から石見川沿いののどかな農村地帯を通りぬけ、途中から山道に入り坂道を登りきった
    峠の高台に野分の館が建っていた。ここは井上靖の小説”通夜の客”で出てくる”ラクダのコブ”に
    あたるところかもしれない。.建物は六角形、それに合わせた屋根は三重につくられ、瀟洒な風情を
    感じる。昭和60年に建てられたものだという。
     タクシ-から降り、道路脇の坂道を登って行くと”ふるさと”と題する詩碑が眼に入ってきた。

                  ”ふるさと”という言葉は好きだ。故里、古里、故郷、どれもいい。
           外国でも”ふるさと”という言葉は例外なく美しいと聞いている。
           そういえば、ドイツ語のハイマ-トなどは、何となくドイツ的なもの
           をいっぱい着けている言葉のような気がする。漢字の辞典の援け
           を借りると、故園、故丘、故山、故里、郷邑、郷関、郷園、郷井、
           郷陌、郷閭、郷里、沢山出てくる。故園は軽やかで、颯々と風が
           渡り、郷関は重く、憂愁の薄暮が垂れこめているが、どちらもいい。
           しかし、私の最も好きなのは、論語にある”父母国”という呼び方で、
           わが日本に於いても、これに勝るものはなさそうだ。”ふるさと”は
           まことに、”ちちははの国”なのである。
           ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国の雲よ、風よ、陽よ。

                      井上靖 詩碑   ふるさと

                  

     この詩は「井上靖詩集」”遠征路”に収められているもので、”古いノ-トより”とあるから、若い
    頃につくらたものだろう。彼の学生時代のものであるかもしれない。この詩碑は井上靖が亡く
    なってから1年後の、平成4年5月にふみ夫人の直筆で除幕された。
       彼女は終戦の年の昭和20年この地に疎開し、半年間暮らしている。水場はなく風呂は近所の
    家にもらい湯しながらの困窮を窮めた生活らしかったが、やはりここは思い出がいっぱい詰まった
    ”ふるさと”であったのだろう --- だから彼女はこの詩を選び、この地にふるさとの詩碑を建てて
    もらったのである、と思った。

     井上靖はここ日南町福栄村について次のように書いている。

         ”私と福栄」より
      福栄村と私との関係は半年ほどの短いものである。しかし、私にとっては生涯忘れること
     のできないたくさんの思い出に満たされた半年であった。
     家族を疎開させたのは終戦の20年6月、家族を引き揚げさせたのはその年の押し迫った
     12月28日である。
     しかし、家族たちが疎開している半年の間に、何回か福栄を訪ねている。2、3日の短い滞在
     しかできなかったが、烈しい空襲下にあった大阪の日々の疲れを、福栄の美しい風光の中で
      過すことができたのである。空気もおいしく、夜空にちらばっている星の光も美しかった。天の
     植民地にでも居る思いであった。夏の夜のたくさんの蛍のことも忘れない。今でも、あのような
     たくさんの蛍が高く、低く飛び交うているであろうか。------
     私は「通夜の客」という小説の舞台に当時の福栄村を使わせて貰っている。小説は全くの
     フィクション(作りごと)であるが、福栄村から受けたさまざまな印象は、そのまま小説のなかに
     織り込んでいる。------

          このふるさとの詩碑から5、6メ-トル離れたところにもう一つの詩碑が置かれてあった。

                    ここ中国山脈の稜線 天体の植民地 風雨順時
                    五穀豊穣  夜毎の星欄干たり  四季を問わず
                    凛々たる秀気渡る  ああ ここ中国山脈の稜線
                      天体の植民地       
                      昭和43年5月1日  井上靖

                       井上靖 文学碑

            

     井上靖記念館 野分の館の扉を開けて中に入ると、正面天井下に井上靖氏の微笑んでいる
    写真が飾られていた。
    来館者は私一人であった。管理人はいない、誰でもご自由にどうぞということなのだろう。
     内部は外側と内側の二重になっており、外側は半円形より深い回廊式の空間が置かれ、その奥の
    内側の展示室は六角形の部屋になっていた。
      外側のテ-ブルには、来館者の記帳と自由メモの用紙が置かれてあったので、
    ”千葉から思い立ってやってきました、随分前から是非訪ねてみたいと思っていたところです”と
    記した。

       壁には”ご来館の皆様へ”と題する当時の町長の挨拶文、昨年上映され、モントリオ-ル映画祭で
    特別審査員グランプリを受賞した「わが母の記」のポスタ-やその新聞記事、「野分」の意味、
    この地を舞台にして書かれた小説「通夜の客」や「ある偽作家の生涯」の一節、また詩集「北国」
    から「野分」、「高原」などが紹介されていた。

                            井上靖氏の写真

             

                     野分の意味              小説”通夜の客”の一節

       

     この地は中国山地の風の通り道になっているらしく、とくに秋から冬にかけては、山から野分の
    ような強い風が吹き降りてきて集落を襲い、また山に吹き上げていくという。 
    彼は家族をここから引き揚げさせた10ヶ月後の昭和21年9月には、次のような詩を発表している。

         野  分 (一)

        漂白の果てについにゆきついた秋の落莫たるこころが、どうして冬のきびしい静けさに
      移りゆけるであろう。秋と冬の間の、どうにも出来ぬ谷の底から吹きあげてくる、いわば
      季節の慟哭とでも名付くべき風があった。
        それは日に何回となく、ここ中国山脈の尾根の一帯の村々を二つに割り、満目のくま笹
      をゆるがせ、美作より伯耆へと吹き渡って行った。風道にひそむ猪の群れ群れが、牙を
      ため地にひれ伏して耐えるのは、石をもそうけ立たせるその風の非常の凄まじさではなく、
      それが遠のいて行った後の、うつろな十一月の陽の白い輝きであった。
       
        野  分 (二)        

                  丈高い草、いっせいに靡き伏し、石らことごとくそうけ、遠い山腹のあか土の崖は、昼の月
      をかざしてふしぎに傾いて見えた。
       ああ、いまもまた、私から遠く去り、いちじんの疾風とともに、みはるかす野面の涯に駈け
      ぬけて行ったものよ。私はその面影と跫音を、むなしく、いつまでも追い求めていた。
       ついに再び相会うなき悲しみと、別離の言葉さえ交わさなかった悔恨に、冷たく背を打たせ、
      おもてを打たせ。

         また、”高原”という詩も掲げられていた。”野分”と同年二ヶ月後の昭和21年11月に発表
      されたものだが、実際には終戦間際の昭和20年6月頃つくられたものだと思う。彼が勤めた
      毎日新聞記者時代のものである。

         高  原

       深夜二時、空襲警報下の大阪のある新聞社の地下偏輯室で、やがて五分後には正確に
      市の上空を覆いつくすであろうB29の、重厚な機会音の出現を待つ退屈極まる怠惰な時間の
      一刻、わたしはつい二、三日前、妻と子供たちを疎開させてきたばかりの、中国山脈の尾根
      にある小さな山村を思い浮かべていた。そこは山奥というより、天に近いといった部落で、
      そこでは風が常に北西から吹き、名知らぬ青い花をつけた雑草がやたらに多かった。
       いかなる時代が来ようと、その高原の一角には、年々歳々、静かな白い夏雲は浮かび、
      雪深い冬の夜々は音もなくめくられてゆくことであろう。こう思って、ふと私はむなしい
      淋しさに 突き落とされた。安堵でもなかった。孤独感でもなかった。それは、あの、雌を
      山の穴に匿してきた生き物の、暗紫色の瞳の底にただよう、いのちの悲しみとでもいった
      ものに似ていた。

                                                      ” 野分の館”付近の風景

                          


      この詩を読んでふと私は彼が毎日新聞記者時代、社説に終戦の記事を書いていたことを思い出し、
      図書館で探してみたところ、井上靖全集第28巻に収められてあった。

          玉音 ラジオに拝して

        十五日正午 ー それは、われわれが否三千年の歴史がはじめて聞く思いの「君が代」
      の奏だった。その荘厳な響の音が消えてからも、ラジオの前に直立不動、頭を垂れた
      人々は二刻、三刻、微動だにしなかった。生まれて初めて拝した玉の御声はいつまでも
      耳にあった。忝けなさ、尊さに身内は深い静けさに包まれ、たれ一人毛筋一本動かす
      ことはできなかった。幾刻が過ぎ、人々の眼から次第に涙がにじみあふれ肩が細かく
      揺れはじめてきた。本土決戦の日、大君に捧げまつる筈の、数ならぬ身であった。
      畏くも、陛下にはその数ならぬわれら臣下の身の上に御心をかけさせられ、大東亜戦争
      終結の詔書をいま下し給われたのであった。

                                                        なんじしんみん
                   ー 帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ
                                                  おもむ
                       朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

        朕ハ茲に 国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 

        玉音は幾度も身内に聞こえ身内に消えた。幾度も幾度も ー 勿体なかった。申訳
      なかった。事茲に到らしめた罪は悉くわれとわが身にあるはずであった。限りない今日
      までの日の反省は五体を引裂き地にひれ伏したい思いでいっぱいにした。いまや声なく
      むせび泣いて いる周囲の総ての人々も同じ思いであっただろう。日本歴史未曽有の
      きびしい一点にわれわれはまぎれもなく二本の足で立ってはいたが、それすらも押し
      包む皇恩の偉大さ! すべての思念はただ勿体なさに一途に融け込んでゆくのみで
      あった。
       詔書を拝し終わるとわれわれの職場、毎日新聞社でも社員会議が二階会議室で開か
      れた。
       下田主管が壇上に立って「証書の御趣旨を奉戴するところに臣民として進むべきただ一本
      の大道がある」と社員の今日から進むべき道を説けば、上原主筆続いて
      「職場を離れず己が任務に邁進することのみが、アッツ島の、サイパンの、沖縄の英霊に 
        応える道である」とじゅんじゅんと声涙共に下す訓示を与え、最後に鹿倉専務ま社員の
      これまでの「闘い抜く決意」を新しい日本の建設に向けることを要請した。
       われわれの進むべき道は三幹部の訓示をまつまでもなくすでに御詔勅を拝した瞬間から
      明らかであった。
       一億団結して己が職場を守り、皇国興建へ新発足すること、これが日本臣民の道である。
        われわれは今日も明日も筆をとる!
                                     (昭和二十年八月)

     井上靖は当時38歳、毎日新聞時代には主に学芸関係の記者をしていたが、この時期には
    社会部の仕事をしていたことが判る。その頃は家族を疎開させていたということもあってか、
    進んで宿直をかってでて、新聞の記事や、小説を執筆していたらしい。
    終戦の年、私はまだ4歳、しかしこの記事を読んで何となく当時の情景を思い描くことができる。
    ただぼんやりと黒い影のようなものではあるが。-----

     外側の回廊の壁に小説”通夜の客”の一節が貼られてあった。ここ福栄村を描写した箇所である。

        通夜の客より

      村全体が山奥といった暗いじめじめした感じはなく、いかにも高原の一角らしいはろばろと
       した明るい美しさでした。私は暫く呆然とそこに立ちつくしていました。足許に丈高い雑草が
     (そう、そう、私はいまでもその名を知っていません)生えていました。私はそこに鞄を二つ
       投げ出し、やっとのことで辿りついた安堵と疲労で半ばぐったりしながら、それでも見慣れ
      ない山顚の風景に見惚れていました。

     この小説は昭和35年映画にもなっている。展示室のガラス戸の中にそのひとこまの写真があった。
    監督は五所平之助、主演は有馬稲子、佐分利信。

                        映画”通夜の客”わが愛より

             

     この写真は上記文章の一節のところで、新聞記者の要職にあった新津礼作はある責任をとって
    新聞社を辞め、鳥取の田舎にに引っ込んでしまったが、その彼の愛人水島キヨが彼を追って
    この村を訪ねて来た時のシ-ンか、あるいは彼の死後一緒に住んでいた家の荷物を整理し、
    彼の家族の許に送り届ける手配をしたあと、この村を去るときの一シ-ンであると思われる。
    下の写真は二人がこの村の生活に入り、野良仕事をしていた彼女がどこかにいる彼に、手を
    振っているひとこまだろう。
    なお、通夜の客は昭和39年連続テレビドラマでも放映された。演出は森川時久、主演は同じく
    有馬稲子、佐分利信。
        
             

     この通夜の客を読んだのは私が20代の頃、映画化されたこともあってよく覚えている。
    何といっても「大きくなったら浮気しようね。きよちゃん」と新津がおき屋の少女だった
    水島きよにささやくあのセリフは、今でも頭に焼き付いて忘れない。バリトンのよく効いた 
    佐分利信の声が印象的だった。有馬稲子も20代の頃でなかなかいい。
    「大きくなったら浮気しようね}---少女にとってその言葉の本当の意味はまだよく解らなか ったが、
    いつも少女の胸の奥にあった。しかし歳月とともにだんだん膨らんでゆく。そして何年かが経ち、
    再び新津に会った彼女は「わたし、もう、大きくなった!」と言ってしまうのだ。

     鳥取の田舎に引っ込んでしまった新津は4年ぶりに帰京し、連日昔の仲間と夜遅くまで酒を飲み
    続けていたが、再び鳥取に帰る前日の終電車間際突然倒れ、あっけなく死んでしまった。
    その通夜に喪服を着た一人の若い女が現れる。誰も知らない見知らぬ女である。
    新聞社の元同僚たちは、現役の頃ひどく金離れがよく、女には見境なく親切だった新津がつき
    合った女性は大抵知っていたが、彼女を知る者は誰も居なかった。

     この小説は水島きよが、新津の妻と、亡くなった新津に宛てた二つの手紙で語られてゆく。
    もちろんその手紙が本人に届けられる筈はないのだが---。
    新津との出会い、新津への一途な愛、切なさ、哀しさ、彼の妻へのうしろめたさ、嫉妬 --- 彼が
    亡くなったあとの淋しさ、悲しみ、やりきれなさ、そうした揺れ動く女心が、この地の美しい自然
    を織り込みながら描かれている。
     「通夜の客」は昭和24年12月文芸春秋に発表された作品。この年には芥川賞の対象となった
    闘牛、猟銃も文学界に発表されている。
    
     男と女の愛を綴った井上靖の作品は数多い。「通夜の客」以外では「ある落日」「青衣の人」
    「白い牙」「満ちてくる潮」「揺れる耳飾り」「初恋物語」「憂愁平野」「猟銃」「闘牛」「射程」
    「氷壁」など数え上げたらキリがない。これらの作品は必ずしもそれを単なる主テ-マにして いる
    のではなく、そのスト-リの過程の中で、男女間の恋愛が織り込められているのである。
     この中で最も感動したのは20代の頃に読んだ「ある落日」。
    自分の経営する会社が倒産、多額の借金を抱えて破滅していこうとする男を、ひたむきに彼を
    愛する女性が支え、男は立ち直って いく話。不倫の愛の物語ではあるが、そうしたものを
    感じさせないところは、格調高い井上文学 によるものだろう。この小説は、私を彼のフアンに
    させてくれるきっかけとなった。

     「ある偽作家の生涯」の一節も貼られてあった。ここ日南町福栄村(今は日南町福神)を描写
    した箇所である。
     伯備線の山顚の駅からそこへ行くまでの二里の道は流石に人一人が漸く通れる険しい山道で、
     途中で小さな峠を二つ越さねばならなかったが、部落へ入ってみると、これが山の背かと思われ
    る程平坦で眺望は四方にのびのびと展けていた。陽の光も風の匂いもまるで下界とは違っており、
    その広い平坦な土地は五十戸の家がばら撒かれ、部落全体が、陰影のない少し空虚とさえ感じられ
    る明るさで充たされていた。光が降るという感じを私はこの高原に来て初めて知ったのであった。
     そして平地の真ん中を、上流も下流も見分けのつかぬ川幅五間程の浅い川が、それでも北の方へ
     向かって流れていた。

                       日南町福栄村付近の風景

           

     今から68年前の昭和20年、彼が見た風景を、そのままこれに当てはめることはできない。
    道はよく整備され、橋や農家の家々も新しくつくり変えられ、川もその姿かたちを変えてしまって
    いると 思われるからだ。
    しかし空も風も光も土の匂いも、遠くに見える山々も、四方にのびのびと広がる眺望も、当時のまま
    であるにちがいない。そして夏の夜はホタルの光で、この野が埋められてしまう光景が見らるかも
     しれない。
         
     展示室に入ってみた。その部屋は六角形のスペ-スがとられ、壁際のガラスで仕切られたコ-ナ-
    の下には、井上靖の様々な書籍、楯、賞状、が並べられ、その壁には幼少時から学生時代、
    作家時代にかけての家族、友人と共に撮られた写真が飾られてあった。思ったより資料は豊富で
    充実している。そのほとんどは彼の所蔵品から譲り受けたものと思われる。
                            
                                      野分の館 展示室

                  

          

     上を見上げると六本の梁に支えられた、六角形の天井があった。外から明るい光が入っている。
    天体の館のイメ-ジである。ここ福栄の人たちは、天に近い美しい風光の中で、天の恵みを
    受けながら暮らしている。庭の詩碑に謳われているように、まさにこの地は天体の植民地なのだ ---。
         

                       野分の館の天井

                  

     井上靖の柔道着姿の写真もあった。四高時代は柔道部に入り主将を務めた。負けない柔道を
    めざし、寝技を中心に厳しい練習に明け暮れた。彼のストイックな一面は、北国の風土と柔道部
    の生活によって鍛えられたといえるかもしれない---と書かれている本もある。
    この時期の情景は、彼の自伝風小説”北の海に”詳しく書かれている。

                      柔道部にいた四高時代の井上靖

             

     昭和32年には朝日新聞連載の”氷壁”取材のため、しばしば穂高周辺を歩いている。
    この小説「氷壁」は当時大ヒット、翌年の昭和33年には映画化された。監督は増村保造、
    キャストは菅原謙二、山本富士子、野添ひとみ、川崎敬三。
    井上靖ははシルクロ-ドの中央アジアを何回か訪ねているが、「西域物語」はその旅行によって
    書かれた紀行、歴史小説。私の愛読書でもある。       
         
          小説”氷壁”取材のため穂高周辺にて    シルクロ-ド マルギランのバザ-ルにて
         
         
       
     展示室から外に出てみた。春のやわらかい光が降っている。頬を切る高原の風は冷たい。
    しかし、天気はおだやかである。
     ここは”通夜の客”に出てくる”ラクダのコブ”と呼ばれた峠に当るところと思われ、見晴らし の
    良いところだ。南側はスギやヒノキが多い常緑樹の山が迫ってきているが、北側と西側は大きく
    展け、眼下には低い山を挟んで耕地が広がり、遠く波のように重なり合った中国山脈の山々が
    望める。
    ウグイスの鳴き声も聞こえている。庭にはツバキ、ツツジ、イチイ、スモモ、ヒノキの木が植え
    られ、スミレ、カキドオシ、 ホトケノザの花々が可憐な顔をのぞかせていた。手入れのよく行き
    届いた庭である。
    ”地元福栄では平成21年「野分の会」を発足し、井上文学に思いを馳せています。”とあったが、
    おそらくその人たちが世話を しているのだろう。

                         野分の館から眺めた福栄村の風景

            

      時計を見ると丁度11時、たっぷり2時間余いたことになる。夢中で見ていたのだ。
     ”ああ、来てよかった!”そんな思いだった。
    これからどうしょうかと考えた。家族が疎開していたところも行ってみたかったが、どの 辺りに
    あるのか見当がつかない。多少心残りではあったが生山の方に引き返すことにした。道端の
    野花を見ながらゆっくりと下って行く。最初に眼についたのが、”オドリコソウ”、鮮やかな赤い
    花をつけている、 ビックリした。関東周辺にあるオドリコソウの花は皆白いのだ。しかも辺りに
    群生しているではないか!夢中でカメラを向ける。ヒメオドリコソウより器量良し。いかにも
    踊子が笠をかぶって踊っているように見える。そばにカキドオシもあった。こちらもいつも眼に
    しているものより色鮮やかだ。

                            オドリコソウ 

           

             オドリコソウ                       カキドウシ 

        

     目線の高さにはヤマツツジが見頃を迎え、ヤマザクラと萌えはじめた若葉が、山々を赤や白に
    染めている。常緑樹の濃い緑とのコントラストが美しい。坂道を下りきると大きな田園の風景が
    広がり、集落も点々。これが中国山脈の真ん中にある山地とは思えないほど、のびのびとした
    景観である。
    道は良く 整備されているが、行き交う車はほとんどいない。ごくたまに農家の車が通るぐらいだ。
    そうした風景の中をどんどん歩いて行く。
     小さな集落を通り過ぎ、さらに足を速める。ただこの道が生山に通じる道だと、信じて歩いて
    いる
    --- と、福栄神社と書かれてある石塔の前に出た。一瞬アレッと思った。宿で見た地図では、
    たしか福栄神社は野分の館より先にあったと記憶している。もしかしたら ---と考えていると、
    運よく前方から男女6~7人のハイカ-たちがこちらに向かって来ている。彼らに道を聞いてみる
    ことにした。

    「ちょっとお尋ねしますが、生山方面はどの道を行けばよいのでしょうか?”
    ハイカ-の一人が
    「私たちも倉吉から初めてこちらに来たので、この辺りの地理はよく判りませんが、でも、
    この地図で見ると生山は向うの方ではないでしょうか」と、
    私が今歩いて来た方角を指しているではないか!。それで初めて、生山方面より逆の道を歩いて
    来たことに気づいたのである。自分のホウコウオンチは昔からなのだが、われ ながらアキレテ
    しまった。すでに野分の館からは2kmぐらい歩いて来ている。彼らに言われた瞬間、
    ”随分ソンしちゃったな、ヤレヤレ”とは思ったが、まだ時間は十分にあると思いなおし、今来た
    道を戻り始めた。 しばらく彼らと道連れに歩く。

     「倉吉からこちらにハイキングですか?」。
     「ハイ、でも今日は来月連休に予定しているハイキングの下見なのです、地元の新聞にも広告を
    出しています」。
     「そうですか、それでは随分人が集まるんでしょうね?」。
    「そうだといいんですが、どうでしょうか、この前のときはあまり人は集まりませんでした」。
    そんなことを話しながら歩いていると、誰かの
     「ここに井上靖ゆかりの家と書いてある」と言う声が聞こえた。私はもしかしたらと思い足早に
    そこに行くと、たしかに眼の高さの二階の壁にその表札が掲げてあった。屋号は泉屋とある。
    その泉屋の前で、ひなたぼっこをしていたお婆ちゃんに聞いてみた。
    「随分昔この福栄村で、井上靖の家族が住んでいたということを聞いていますが、どの辺り
    だったのかご存じですか?」 
     「ああ、それはあそこに一本杉が見えるじゃろう、あそこなんじゃが、今は跡があるだけで、誰も
    住んじゃおらんがのう」
    と言ってくれたので、ハイカ-たちに別れを告げ、一本杉のところに行くことにした。
    道を 間違えたことが幸いしたと思った。小道に入って行くとまた、大前、印賀屋という屋号の
    ついた家があり、そこから狭い山道をしばらく登って行くとその屋敷跡に着いた。そこには
    「文豪 井上靖 曽根の家 屋敷跡 」と書かれた看板が立てられてあった。

                              終戦の年 井上靖の家族が住んでいた跡
               
                   

     この家は彼が大阪毎日新聞社時代の同僚の”つて”で、ここにあった農家の空家を借りたもの
    らしい。かなりのスペ-スがあり、家はかなり大きかったと思われる。
    曽根というのは「 尾根」という意味があり、家族は山の尾根に住んでいたので、曽根さん、
    と呼ばれていたのかも しれない。
    左手にはかなりの樹齢の一本杉が立ち、右手にはモモの木が植えられ、その背後は竹藪となって
    いた。真中は大きく展け、遠く中国山脈の山々が望め、眼下には福栄村の田園風景を見渡すこと
    ができる。なかなか眺望の良いところだ。ただ水場はなく、 近所の家にもらい湯しながらの困窮
    を窮めた生活であったらしい。奥様は、幼い子供3人を連れての暮らしはさぞ大変であったに
    ちがいない。

                       曽根の家跡から見た福栄村の風景

              
             
     時計を見ると12時20分、ここで宿でつくってくれた弁当を開く。明るい陽光が降り注ぎ、
    爽やかな風が渡っていく。
    スミレ、カキドオシ、ホトケノザが咲く草叢の上に座って、遠くの山々を眺めながらの食事は
    何とも贅沢だと思った。この草叢の上で大の字になって一眠りすれば、さぞ気持がよいだろう
    と思った---がそういうわけにもゆかない。腰を上げ、さらに上に登ってみると、そこも開けた
    台地があり、前新屋、横新屋と表札のついた民家が建ち、いずれも井上靖ゆかりの家と書かれ
    ていた。
    それにしても”イズミヤ、オオマエ、インガヤ、マエニヤ、ヨコニヤという屋号、何とも面白い
    名前である。

     坂道を下り、再び先程歩いて来た道を今度は登って行く。500m位歩いただろうか、峠の
    上に着いた。野分の館が建っている所である。

                       野 分 の 館

            

           
       もう一度野分の館を仰いだ。この時私はふっと思った。この館は中国山地に佇む

      ”宝石の館”ではないかと---  いや、天体の下に置かれた”宝石箱”ではないかと---・。

      井上文学が、彼の思いが、そして何よりも地元の人たちの温かい”こころ”が、

      ぎっしりと詰まっている。だからこの館は、星が煌めく中国山地の空の下で、 宝石の

      ようにいつまでも光り輝いているにちがいない、-----。

      そんな思いを抱きながら、私は峠を下って行った。


                                  ー 了 ー

                                2013年 5月1日

                         私のアジア紀行  http://www.taichan.info/


                                                   鳥取県日野郡日南町周辺概略図

                      

                          井上記念館 野分の館は ⑯