新疆の旅で出会った人たち

      新疆の疆の3つの横線は、上からアルタイ、天山、崑崙山脈を、その間の田はジュンガル
      盆地とタリム盆地を表しているといわれる。
      タリム盆地のタクラマカン砂漠地帯ではいくつかのオアシスが点在、ウイグル族をはじめ
      少数民族が農作物や工芸品などをつくって暮らしている。一方ジュンガル盆地や崑崙山脈の
      草原地帯では、多様な少数民族が遊牧をしながら生活を営んでいる。

        パミ-ル高原

      2001年9月14日、タクラマカン砂漠の最西端にある街カシュガルを出発。
      ポプラや、スナナツメの木々が茂る並木道をぬけると広大な平原に出た。この辺りはまだ
      砂漠の縁、小石が混じる広大な砂地に低い草木がダンゴ状に広がっていた。遠く崑崙山脈の
      白い峰々が連なる
      1時間後、ウパ-ル村に着く。
       この村はロバ、牛、羊などの家畜を売って生計をたてているウイグル族の人たちが暮らして
      いる。
      テントが張られた道端には、日用品や焼きたてのパンやスイカ、ウリなどが並べられていた。

                     ウパ-ル村  2001年9月

           

      雑貨屋もあった。店の前では子供たちが集まり、オヤジが客の応対をしていた。
      遠い昔から旅人はここで食料を買い求めて、パミ-ルの山中へと入って行ったのであろう。

                    ウパ-ル村の雑貨屋  2001年9月

             

      ウパ-ル村を離れ、やがてガイズ川の岸に出る。広い河原に幾筋かの流れがある。
      ところがその日、2日前に降った雨で磧は川となって、車が通れるところは跡形もなくなって
      いた。しかし対岸へ行くにはこの川を渡るしかない。意を決したドライバ-はそろそろと流れ
      に入って行ったが、何程も行かないうちに車は動けなってしまった。どうやらエンストした
      らしい。川の中で立ち往生してしまったのである。
      その様子を対岸で見ていた子供たちが、川の中を歩いてやってきた。私たちが珍しいのか
      じっとこちらを見つめている。興味津々である。多少面白がっているようにも見える。
      キリギス族の子供らしい。一人は女の子だ。カメラを向けるとニッコリと笑顔を見せてくれた。

             川の中で立ち往生した車を見つめるキリギス族の子供 2001年9月

            
 
                     笑顔を見せるキリギス族の子供

            

      ドライバ-とガイドは川の中に降りて車の様子を見たり、断続的に車を動かしたりしていた
      が、40位経っただろうか、ようやく川から脱出することができた。ヤレヤレ。

      オイタブ渓谷を過ぎたところで、突然羊の大群が現れた。ヤギも混じっている。
      「ワア!、オイ止めろ、車を止めろ!」...誰かが言った。車から降りて写真を撮りたかったの
      だろう。みな車から降りて羊の前に走って行った。そしてカメラを向ける。
      この9月半ばになると山頂付近は雪に覆われ始めるため、遊牧民は山麓の草を求めて移動して
      いたのである。この羊の大移動は、その後も何回か出会った。

                羊の大群を引き連れてゆく遊牧民 2001年9月

             

      中国とパキスタンを結ぶ道路のガイズ川検問所そばには小さな売店があり、キリギス族の
      子供が番をし、幼い女の子は道に立って鉢にのせた大きなパンを私たちに勧めていた。
       誰かがそのパンを買って一切れをちぎってくれたが、まだ温かく香ばしい味がして美味し
      かった。
       この辺りはキリギス族の生活圏、そのほんとんどは遊牧民である。子供たちの顔は日本人に
      よく似て親しみを感じる。なかなか可愛い。

               鉢にパンをのせて道に立つキリギス族の子供 2001年9月

           

                    店蕃をしているキリギス族の子供

           

      その日は1999年4月30日の午後2時過ぎだった。私たちが写真ストップしていると、近くに
      いたキリギス族の少年たちがやってきた。そしてたちまち店開きをしたのである。
       テ-ブルの上には絨毯や装身具、仏具、茶器などがのっている。メンバ-の人たちがしばらく
      見ていたが、時間がきてしまった。誰も買う人はいなかったのである。
       ところが私たちが車に乗り、しばらくして再び車から降りてトイレ休憩(青空)していると、
      少年たちが自転車で追いついてきたのでビックリ。しかし私たちはすぐ車に乗った。それでも
      彼らは追いかけてきた。後ろの窓から坂道を走る彼らの姿が見えている。スゴイ馬力だ。
      だが車には勝てない、やがて少年たちの姿は消えていた...それにしても、彼らのたくましさ
      には驚くほかない。

              路上で店開きをするキリギス族の少年たち 1999年4月

           

      やがてカラクリ湖に着く。標高は3400m、寒い。
      レストランで昼食後カッパの上にジャケットを着てぶらぶら歩いていると、見覚えのある
      少年がいたので驚いた。道端で即席の店を出し、買ってくれないとみるや自転車に乗って
      私たちの車を追いかけてきたあの少年たちである。彼らは私たちを見ると、品物を差し出し
      ながらさかんに勧めていた。
      童話作家のOさんは、遊牧民が使う革鞘つきのナイフをたくさん買った。
      私はトンガリ帽子のようなキリギス帽を買った。白いフェルトに花模様があしらってある。
      この帽子、今でもわが書棚の上にのっかっている。

               カラクリ湖畔で店を出したキリギス族の少年たち 1999年4月

             

      カラクリ湖から離れ天空の道を走って行く。標高は4000m、空は澄みわたり気が遠く
      なりそうな風景だ。
      ムスタグ・アタの麓に集落が見える。この山麓で遊牧を営むキリギス族の家だろう。緑の
      草原でヤクが数頭、のんびりと草を食む。遠くから、赤い服を着た小さな人影がこちらに
      向かってくる。
      次第にその姿がはっきりしてきた。どうやら子供のようだ。男と女の子だ。鮮やかな赤い
      服が緑の草原によく映えている。遊牧民の子供らしい。近くまで来てピタリと止まった。
      私たちの様子を見ている。車を止めて写真ストップ。いちはやく飛び出したIKさん、子供と
      一緒に写真撮影。

                  遊牧民の子供とIKさん 2001.9月

           

      夕刻パキスタンとの国境にあるタシュクルガンに着く。ここは標高3200m。タジク族が
      住む街である。タジク族はヨ-ロッパ系の民族。トルコ系の民族であるウイグル、カザフ、
      ウズベク、キリギス族とは顔立ちが違う。
      ここには唐代にパミ-ル越えの関所が設けられていたと謂われる石頭城があり、その石段の
      前で子供たちが遊んでいた。なかなか可愛い。カメラを向けると石段に整列、笑顔を見せて
      くれた。

                   タジク族の子供たち  2001.9月

             

      高台に上がってみると、眼の前にはパミ-ルの山々が連なっていた。その麓には緑の
      草原が広がり、地を這うような河の流れがあった。点々と白く散らばっているのは遊牧民の
      パオだろう。悠久の時の流れを感じさせてくれる風景である。

        天山北路

      2009年6月天山北路の天池からセリム湖に向かう途中、昼食のため回族の人が経営する
      屋台風のレストランに入る。

      突然の来客に店の人たちは大あわて、さっそく店の娘二人が肉と野菜を切りはじめ、息子は
      麺をほぐし、親爺はカマドに火をつけようとしているがどうも様子がおかしい。
 なかなか
      点火できない。カマドの下を覗いたり器具をガチャガチャと引っ張ったり、叩いたりしている。
       見ている私たちはイラ イラしていたが、
      「まあここは中国なのだ、ゆっくり待とう」そう思って辺りを.散策して帰ってみると、親爺
      は料理をつくり始めていた。どうやら炊事用の送風機が壊れていたらしい。

                屋台風のレストラン  回族の主人 2009年6月

            

      料理はうどんの上に肉と野菜を炒めためた物を乗せたラグメンとナン、それにスイカ。
      のどは乾いていたが、ビールを飲むのは我慢する。トイレが近いからだ。ビールを飲むと
      30分ともたない。今まで何回バスを停めたことか。


                    ナンを焼くレストランの娘

            

      6月16日、イ-ニンから烏孫の故地昭蘇平野を訪ねる。
見渡す限りの大草原が広がる。 
      左前方にカザフ族のパオ点々。騎乗した青年が近づいてきた。色浅黒く精悍な顔つき、
      いかにも騎馬民族の末裔たる風格である。                                                     

                  昭蘇平野     カザフ族の青年 2009年6月

                                

      青年馬から降りてきた。ムチを大きく上げて何やら話しかけている。”馬に乗れ”とでも
      言っているのだろうか。
                  馬のムチを振り上げるカザフ族の青年                      

            

      昼食後 草原の中を歩いていると遊牧民らしいウイグル族の青年に出会う。
      ”ユーウイグル?と話しかけると
軽くうなづき笑顔を見せてくれた。メンバーのNさんに
      頼んで一緒に写真を撮ってもらう。

                  ウイグル族の青年と  2009年6月            

            

      さらに歩いていくと、パオの前で日なたぼっこをしているおばさんを見かける。そばに
      孫らしい2~3歳ぐらいの子供も居る。許しを得て写真をパチリ、お礼にお菓子を持たせる。

      「バイ.バイ」と言いながら手をふると、小さな手が「バイ.バイ」と応えてくれた。

                 モンゴル族と思われる親子 2009年6月

           

      6月18日、天山山中のナラティの草原で鷹匠の青年に出会う。「鷹狩」の鷹とは猛禽類の
     総称のことでイヌワシ、オオタカ、ハイタカ、ハヤブサなどをいう。鷹や鷲を使ってウサギ、
     キツネなどを捕える鷹狩りは、カザフ族の伝統文化であると言われる。

                      鷹匠の青年 2009年6月

           

        ホ-タン~カシャガル(西域南道)

      ホ-タンの観光はウイグル族の女性アテイケムさんに案内してもらった。
      ウイグル族はトルコ系の民族とされているが、多くはペルシャ系の血が混じり、彫の深い顔を
      しているが眼は黒い。ここはかって民族の十字路と言われていたところ、いろいろな民族の
      血が混ざり合い、いろいろな顔つきをした人たちが暮らしている。アティケムさんもその一人
      と思われる。彼女はなかなか流暢な日本語をしゃべり、表情も豊かである。1998年から6年間

      日本に住んだ ことがあるとのこと。

              ホ-タンの女性ガイド アティケムさん 2009年6月

                        

      バザ-ルの通りを歩いているとスカーフの上にパランジャを被り、顔を半分隠して料理
      しながら、立ち寄る客と応対している女性がいた。この西域ではスカーフは被るが、顔を覆う
      若い女性はまず見かけない、非常に珍しい。その姿はどこか異国情緒を感じさせてくれる。


               パランジャを被り料理する若い女性 2009年6月

            

      店先には、衣類、肉、野菜、果物、香辛料、帽子、靴、雑貨類等がところ狭しと並べられ、
      食物屋は露天で営まれている。ロバ車に乗ってのんびりと道行く人もいた。眼があうとニコリ
      と笑顔をみせてくれる人もいた。いかにも田舎のバザールらしい素朴な雰囲気を感じる。


                  羊の肉屋で店蕃をする少女 2009年6月

            

      ホ-タン郊外にマリクワトいう村がある。陸の孤島のようなところだ。ここには広大な
      砂漠の一角に日干しレンガでつくられた土屋の家に住み、わずかな土地にウリ、スイカ、
      野菜などをつくって生活の糧としていいるウイグル族の人たちが暮らしている。


      マリクワト遺跡の見学を終えてバスまで帰り、席についてふと窓に眼をやると、娘や子供
      たちが手を振っている。パァ~ッと花が開いたような笑顔を見せながら...。

       バイバイ…マリクワト村の娘よ、子供たちよ、健やかに育っておくれ、さよなら、さよなら…

      私はここに来たのは3回目だが、いつも彼等はキラキラと眼を輝かせながら私たちを迎えて
      くれた。 

                  マリクワト村の人たち  1999年4月

           

      カシュガルの一角にある老街は、密集した日干しレンガでつくられた家々に多勢の
      ウイグル族の人
たちが暮らし、昔ながらのカシュガルらしい風情が残っている。
      家々は約2㎢の広さのなかに建ち並び、幾筋もの細い道が迷路のように通っていた。

      私たちは日干しレンガでつくられた民家に入らせてもらった。夏は涼しく冬は暖かいと
      いう。 なるほど外から見るよりは居心地の良さそうな家である。

      この街を案内してくれたのはウイグル族の若い娘さん。眼の覚めるような美人である。
      彼女はこの民家の2階で、手足をしなやかに動かし、表情豊かにウイグル族の民族舞踊を
      見せてくれた。懐かしいカシュガルの思い出として印象に残っている。

             ウイグル民族舞踊を披露する若い女性ガイド 2004年6月

             

      カシュガルは往古よりシルクロードの要衝地として栄えた街である。
       1996年初めてここに来たときは、街にはロバ車があふれ、馬、牛、羊が勝手な方向に歩き

       まわり、人間はその間をぬって歩いていた。 男は帽子をかぶり長いあご髭をたくわえ、
      女は頭にスカーフをかぶり耳にはイヤリングを光らせ、赤、青、黄色模様のカラフルな服を
      まとっていた。子供は砂埃の舞い上がる道を裸足で走りまわり、バザールは凄まじい熱気と
      エネルギーで沸き返っていた。”ああ~ここは異国の街だ!”そう思って興奮したことを覚え
      ている。

      職人街は400mの道の両側には帽子屋、金物屋、木工細工店、楽器店、骨董屋などが建ち
      並び、昔ながらの職人たちが手作業で物をつくっているところだった。

                 路上でブリキの鍋をつくる職人たち 2001年9月

             

                 ウイグル楽器で音楽を奏でる職人 2001年9月

             

               ブリキや木材で日用品をつくる職人たち 2001年9月

             

      しかし、2009年来た時にはかっての職人街のような賑わいは感じられなくなっていた。
      店先では威勢のよい声が飛び交い、大勢の職人たちが打ち出す様々な 物音が響き渡り、活気
      にみなぎっていた一昔前の雰囲気もまったく消えていた。道路は整備され店は小ぎれいには
      なっているが、店数は少なくなり、そうした職人もほとんど見られなくなっていた。
彼らの
      表情にもどこか元気がないように思えたのである。

                              ― 了 ―    2022.1.27