ベトナムの旅で出会った人たち ベトナム北部 2007年12月、私たちは中国の雲南省からベトナムの山岳地帯に入り、カット・カット村の 山道を歩いていた時、数人の少女たちがうしろについて来ていた。 手には刺繍した小袋、帽子などを持っている。買って欲しそうである。しかしさして欲しい物 はない。が、何かつきあってやろうか、と思って後ろを振り返ると、手に小さな野花を束ねて 歩いている少女が眼に入った。なかなか可愛い顔をしている。 ”そうだこれをもらおう”と思い、わずかばかりの小銭を差し出すと少女はニッコリと笑顔を見せて くれた。小銭とはいえ現金はどうかな... とは思ったが、何かしてあげたかったのだ。 この写真はその時のものである。 モン族の少女 2007.02.29 2011年1月再び私はベトナムを訪れ、ガイドの案内でこの少女の家を訪ねたところ、すでに 彼女は結婚して世帯をもち、今近くの畑に出かけているという... 私はビックリした。当時まだ 10歳少し出たくらいにしか見えなかった少女が結婚!?、あれから3年しか経っていない、 まさかと思ったのである。しかしよく聞いてみると、 この村では娘が13歳位から結婚するという。子供たくさんの家では、一人でも早く独立させ、 その家の負担を軽くする ... というのがこの村の慣習なのだいう。 家の前にいた女性は少女の母親であった。彼女はまだ40歳代である筈なのに、ひどく老けて 見えた。若い頃から苦労してきたのだろう。私は母親にその写真を托し、足早に下りながら後ろ を振り返ると、娘の写真をじっと見つめている母親の姿があった ...。 バック・ハ-ではサンデ-マ-ケット呼ばれる市場を散策した。 サンデ-マ-ケットはその名前の通り毎週一回日曜日に行われる。この市場には少数民族の 花モン族、黒モン族、青モン族、白モン族、さらにザオ族、タイ族も集まってくる。自分たち がつくった農産物や手作りの織物、日用品などを持ち寄ってきて売りさばく。以前は物々交換 だったが、今は金銭で行うらしい。彼女たちはここで得たお金で、自分たちの手の入らない ものを買って帰るという。 サンデ-マ-ケット 花モン族の女性 2007.12.30 モン族の娘 2011.1.9 ここにやってくる少数民族の女性は、せいいっぱいのオシャレをしてくる。とくに花モン族は カラフルなスカ-フに大きなイヤリング、華やかな衣装をまとっている。 花モン族の女性は働き者だが、男性はここで一杯飲んで帰るらしい。モン族の女性たちのパワ- を感じる市場だった。 その後ドロドロとぬかるんだ道を歩いて行き、花モン族が暮らすバンフォ-村を訪ねる。 一軒の農家に入って行くと、一人の少女が、ノ-トに何か書きながら一生懸命に勉強している 姿があった。家の人たちは皆サンデ-マ-ケットに出かけ、一人で留守番をしていたらしい。 うす暗い内部に裸電球が一つ、辺りを灯していた。炊事場の土間、棚には鍋、釜、食器類が 置かれていた。 少女は、大きな釜に入れてあったトウモロコシの蒸留酒を、私たちにふるまってくれた。 一口飲んだだけで身体がカァ-と熱くなるような強い酒だったが、甘味とコクがあってとても 旨かった。アルコ-ル度は50度位。 帰る時、少女にボ-ルペンを差し出すと嬉しそうに笑顔を見せてくれた。 農家の自宅で留守番をしていた花モン族の娘 2011.1.9 翌日カット.カット村に行き周囲の棚田を見ながらゆっくりと歩き、つり橋を渡ると滝の ところに出た。 小さな空き地に、数軒の露店あり、手づくりの小袋、スカ-フ、服、小さな絨毯などが並べ られてあった。観光客の姿も見られる。ただ日本人は私たちだけ。 店の辺りには、藍染の着物を着て、背中に竹でつくった篭を背負って歩いている若い女性が 多い。二人で何か話していた女性に声をかけ、カメラを向けると気軽に応じてくれた。 カットカット滝の露店前で出会った若い女性 2011.1.10 撮った写真を見せると若い方の娘が、おどけた大きなゼスチャ-で 「オオッ、ナイスショット!」...思わず笑ってしまった。なかなか面白い娘である。年齢を聞い てみると、写真の右の娘が17歳、左の娘は 「私25歳、二人の子供がいるのよ」、と嬉しそうに話してくれた。まだ20歳前後かと思っていた が、すでに子供まで居るとは...驚いてしまった。 まだ少し時間があったので、吊り橋そばの店をのぞいてみた。ここにも刺繍した小袋、絵葉書 などが置かれてあり、店番の若い娘がいた。 店番をしていたモン族の娘 2011.1.10 ”ハロ-、こんにちは!”と言って中に入り品物を見ていると、 娘はニコニコしながら一枚の絵葉書を差し出してきた。見ると彼女の写真が載っている。 彼女は 「これ、わたし!」と指さしながら無邪気に笑っている。いかにも嬉しそうだ。 私はふと思いつき、3年前中国側の国境で撮ってきたミャオ族の娘の写真を見せると、 「これ同じ仲間、モン族、ミャオ族同じ民族」とゼスチャ-で示している。 その通りなのだ。今は国境線により国が分断され、その呼び名も違っているが、元々昔から この地帯に暮らしてきている同じ民族なのである。またモン族、ミャオ族以外にも、多くの少数 民族が国境を挟んでこの地帯に暮らしてしている。 私はその絵葉書を買いカメラを向けると、彼女は笑顔を見せながらも、恥ずかしそうにポ-ズ をとってくれた。 中国側の国境で撮ってきたミャオ族(モン族)の娘 2007.12.27 上の写真はベトナム国境に近い中国雲南省の、金平という村のホテルで出会ったミャオ族の 娘たち。彼女たちはそのホテルで働いていた従業員。レストランで夕食をとっていた私たちに、 ミャオ族の伝統民謡を披露してくれた。実に明るく楽しそうに。 その後あとかたづけをしていたが、皆一生懸命キビキビと動きながら働いていた姿に、感心 しながら見ていたことを覚えている。 下はやはり3年前カット・カット村に来た時、家の前で刺繍しながら小袋をつくっていた モン族の娘たち。私たちがその前を通りかかると、彼女たちはその手を休めニコニコと笑顔を 見せてくれた。 小袋をつくっていたモン族の娘たち 2007.12.29 2007年12月カット・カット村からアカザオ族が住むタフィン村を訪ねたとき、売り子として ついてきた若い娘から民族帽を買ったことがある。 2011年1月この娘の写真を集まってきた人たちに見せると、一人の女性が私の前に出てきて 何か話しかけてきた。 ガイドに通訳してもらうと、この女性はこの少女の親戚らしい。 「自分は隣村からこの村に嫁いできたが、この少女は自分の夫の妹だという。そして少女はすで に結婚して隣村に出て行き、今はこの村には居ないが、写真は必ず私が届けてあげるから」と 言ってくれたようだ。 しかしこの時も私はビックリした。3年という歳月は、この村々においては遙か遠い昔のように 思えたからである。 私は写真をその女性に托し、タフィン村を皆と一緒に離れることにした。 アカザオ族の娘 2007.12.29 ハノイ ハノイの繁華街は波のようなバイクのうねりが次から次にやってくる。バイクの洪水である。 信号はほとんどない。その流れが、やや緩やかになった間隙をついて道を横切る。 さらにルキシャが多い。これはシクロと呼ばれる自転車タクシ-。自転車の前に座席があり、 漕ぎ手は後ろから漕ぐ。なかなか乗り心地が良い。見晴らしも良く快適である。歩いている時 より風景も違って見える。 私たちはこのシクロに乗って、水上人形劇場に行った。 シクロと呼ばれる自転車タクシ- 2011.1.12 水上人形劇は1000年も前から伝わるベトナムの伝統芸能。 水面を舞台にして、10数話の民話を女性の弁士が語り、時に唄い、大太鼓、小太鼓、琴、笛、 三味線などの伝統楽器で演奏されていたが、人形の巧みな動きはコミカルで面白かった。 水上人形劇を演奏する女性奏者 2011.1.12 水上人形劇 フ エ フエのホテルでは伝統音楽を聞きながら宮廷料理をいただいた。 料理は不死鳥の前菜、きのこと豚肉炒め、焼き魚、焼き鳥、チャ-ハン、フル-ツなどが、 美しく盛り付けされてあったが、見た眼ほど美味しくは感じなかった。 音楽は、二胡、ギタ-、琴、カスタネットなどの楽器で演奏されていたが、中国風のメロディ の中に、どこか沖縄民謡のようなリズムを感じた。 フエの伝統音楽 2011.1.14 フエの伝統音楽 宮廷料理 ミ-ソン遺跡 ミ-ソン遺跡では民族舞踊が行われていた。 踊りは妖艶で官能的、手足の指をしなやかにして踊っているところをみると、インド文化の 影響を伺わせる。ヒンドゥ-教を信仰していた、チャンパ王国時代の踊りなのだろう。踊って いたのは若い男女たち、彼らもチャム族かもしれない。 チャンパは15世紀後半、ベトナム軍に敗退し滅亡したと伝えられていたが、19世紀その子孫が カンボジアから帰って、今国内に約9万人が住んでいるという。ベトナムの中でも非常に少ない 少数民族である。 チャム族は、チャンパ王国時代はヒンドゥ-教徒だったが、今はイスラム教を信仰していると いう。 ミ-ソンの民族舞踊 2011.1.16 ホイアン ホイアンの郊外に出るとベトナム中部の海岸線に沿った平野地帯が広がる。ところどころこんもり した森のかたまりが見られるものの、ほとんどは広大な水田が広がっている。遠くにスゲ笠をして 農作業する女性の姿があった。ベトナムらしい風景である。 スゲ傘をして農作業する人たち 夜は一人でランタン祭とも呼ばれるホイアン夜祭に出かけた。 ホテルを出て通りを歩いて行くと、家々には軒先にランタンを吊り下げ、神棚にロ-ソクを 灯しているのが見られた。 ベトナムの人たちは仏教徒が多いが、密教風な土着信仰と結びついているためだろう、どこか 妖しい雰囲気を感じる。 川辺に出てみると無数のランタンが川面に照り映え、美しく輝いていた。昔どこかで見たよう な風景で懐かしい。 繁華街に入ると車、バイクは通行止め、歩行者天国になっていた。私は赤いランタンに照らさ れた街の通りをゆっくりと歩いて行く。夜店にも立ち寄り、竹でつくられた丸い小さなカゴを 買った。そのカゴは今でもわが書棚の上にのっかっている。 ホイアンのランタン祭りの風景 2011.1.17 どこからか若者たちの歌声も聞こえる。楽器をもって唄いながら楽しんでいる。人通りはかなり 多いが、喧騒は感じない、落ち着いた街の雰囲気である。 楽器で唄いながら楽しむ若者たち 2011.1.17 帰り道、ふと聞いたことのある音楽を耳にした。街角で「支那の夜」が演奏されていたので ある。 演奏者は5人、皆80歳前後と思われる人たちばかり、胸に沁みいるような音色に何とも言えない 懐かしい気持になった。私はこの歌を口ずさんでみた。 ♪ シ~ナの夜シ~ナの夜よ~港の灯り紫の夜に 上るジャンクの夢の船~ああ~忘られらぬ 胡弓の音~シ~ナの夜 夢の夜~ ♪ ― 2番はシ~ナの夜~ シ~ナの夜~ 柳の窓にランタンゆれて ~とつづく 作詞者は西条八十、作曲は竹岡信幸、私は昭和20年代~30年代、ラジオから流れる 渡辺はまこが唄う”支那の夜”をよく耳にし、自然に覚えてしまった。この歌は私の愛唱歌の 一つとなり、今でも場末のスナックで唄う ことがある。 ”支那の夜”を演奏するベトナムの人たち 2011.1.17 .”支那の夜”は1938年につくられた当初はまったく売れなかったが、半年経った頃に売れ始め 1年後には戦線の将兵の間にも大流行した。さらに1940年にはこの歌を主題歌とした 「支那の夜」が映画化され、ベトナムを含む東南アジアの人たちに広く受け入れられた。 当時、ベトナム、ラオス、カンボジアなどのインドシナは日本軍の占領地であったところで ある。 この歌には行き交うジャンクが、そして夜の街角で揺れるランタンが入っている。それが胸に 沁みいるようなメロディとともに、高齢のベトナムの人たちに何ともいえない郷愁を感じさせた のかもしれない 。 70数年前国境を越えてベトナムに伝わり、今なおベトナムの人たちに唄われて いたのである。 この演奏を聴いていたのは日本人では私一人、あとは現地の人たちと数人のヨ-ロッパ人で あった。 ミト水路クル-ズ 翌日船でメコン川からタイソン島に到着、ボ-トに乗り換え、ミトの水路をクル-ズする。 この周辺には中州になった小さな島がいくつかあり、その間に小さな水路が通っている。 大きなニッパヤシなどに覆われた水路は、トンネル状になっているところが多く、曲がりくね っていた。時々観光客を下ろして帰ってくるボ-トも見られた。 水路脇にはニッパヤシや熱帯樹が繁り、ジャングルのようになった風景は、私をちょっとした アドベンチャ-クル-ズの気分にさせてくれた。 水路からメコン川本流に出てボ-トから下りる時、私たちを案内してくれた中年の女性が、 バイバイ”と笑顔を見せながら手を振ってくれていた。なかなか楽しいクル-ズだった。 ミト水路クル-ズを楽しむ人たち 2011.1.18 ミト水路クル-ズの船頭 案内してくれた女性船頭 1月19日、早朝ホテル裏の船付き場から、モ-タ-ボ-トでカイラン水上マ-ケットに着く。 多勢の船が集まってきて賑わっていた。大小の船が入り乱れ遠くまで続く。 その長さは、11km以上はありそう。 時々大きな声も聞こえる。小舟を操っているのは女性が 多い。 船の中にはキャベツ、ハクサイ、カボチャ、ウリ、トマト、バナナ、ジャックフル-ツ、 ココナッツ、トウガラシ、パイナップル、ザボンなど様々な野菜、果物が積み込まれていた。 船に積み込まれているものは、自分の家でつくったものだそうだ。よく見ると長い竿にカボチャ、 パイナップル、ザボン等などを吊るした船がいる。その船の看板らしい。つまりカボチャであれ ばカボチャ屋、ザボンであれはザボン屋というふうに... 。 水上マ-ケットの風景 2011.1.19 農家の人たちは商人に作物を売り、商人は買った作物を、ホ-チミンの市場に売りさばきに 行く。もちろん小舟仲間で、物々交換の要領で売り買いしている場合もあるという。 多くの船が行き来している間をすり抜けながら、ジュ-スやコ-ヒ-、軽食などを販売する 船もいた。早朝から朝食ぬきでやってくる人たちにとっては便利な”水上カフェ”なのだろう。 水上マ-ケ-トの風景 2011.1.19 農家の人たちは河のそばに家をもち、河のそばでつくった作物を、自分の船で水上マ-ケット に売りに行く。 車などは要らないのである。メコン河を最大限に利用し、メコンの恵みを受けているのだ。 この河のおかげで彼らの生活が成り立たっている。言いかえれば、この河がないと彼らの 生活は成り立たない。 メコンのメは河、コンは母と言う意味、まさにメコン河は母なる大河なのである。 1月20日はホ-チミン郊外でライスペ-パ-をつくる民家を訪ねた。 ライスペ-パ-は水でといた米の粉の中に丸い棒を入れ、くるりと巻いて鉄板の上にうすく 広げたあと天日干しにするらしい。 気温30度以上ある中で、しかも火のそばでの作業は、さぞ大変だろうと思った。 ライスペ-パ-はベトナム料理に何回か出されていた。脂っこい食べ物でも、これに包んで 食べるとソフトな味になる。 ライスペ-パ-をつくる女性 2011.1.20 その後クチに行き、ベトナム戦争時ベトコンゲリラによってつくられた地下トンネルに入って みた。距離は30m、いちばん短いトンネルである。 両腕を支えながら下りるのだが、胴周り85cmの身体を入れるのがギリギリ、しかもかなり 深い、やっとの思いで足を地面につく ことができた。ムリもない、入り口は縦25cm、横45cm しかなかったのである。 ここから横穴へのトンネルに入る。天井はとても低く、高さ70cmから1m位だろう。 しばらく腰を屈めながら歩いていたが、腰が痛くなり途中から両手をついて這って行った。 無数につくられた トンネルは15m間隔で直径10cm位の空気穴がつくられ、草に覆われた 出入口は、これまた無数にあったためその行動は神出鬼没だったと言われている。 「ベトコンゲリラはどこにも見えないが、どこにでも居る」とアメリカの高官に言わしめた言葉は、 なるほどと思わざるを得なかった。 別の地下トンネルには地下会議室兼医務室などもつくられてあった。 地下会議室兼医務室 2011.1.20 ベトコンゲリラの人形 ホ-チミンで訪れた戦争証跡博物館では、ふと一枚の写真の前で立ち止まった。そこには 沢田教一氏が撮った「安全への逃避」と題する作品が飾られていた。1966年ピュ-リッツア- 賞を受賞した作品である。 戦火を逃げまどう一家 「安全への逃避」 沢田教一氏撮影 母親は濁流がうずまく中一番小さい幼児を抱き、他の子供3人を支え戦火から助けだそうと 必死である。 2番目に小さい幼児は泣きながら母親に寄り添い、二人の少年少女はカメラマンをじっと見つめ ている、いや睨みつけている。 「そんな時間があるなら私たちに手をさしのべて!どうして助けてくれないの!」...と言って いるように見える...。 カメラマンにとって、このような情景は最も撮りたい瞬間なのかもしれない、しかし家族一家 が生きるか、死ぬかという非常時のときに...。 しかし、あとで分かったことだが、沢田氏は撮影後米兵に銃を向けられながらも、この家族に 手をさし出し、全員無事助けだしたのである。 成人した娘の話では、泣いていた自分の涙を彼がハンカチで拭いてくれたという。 しかも彼は再びこの地を訪れ、ピュ-リッツア-賞金の一部をこの家族に与えている。 私はガイドに聞いてみた。 ”この家族はその後どうなりました? 「今ではこの子供たちは大きくなり結婚しているのもいます、でもこの母親は亡くなりました」... この「安全への逃避」を撮影した沢田教一氏は、その後カンボジアに入り、プノンペンで 1970年ポルポト派の前身であるクメ-ル・ル-ジュの銃弾に斃れた。当時34歳であった。 ― 了 ― 2022.2.13 記
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