スリランカの旅 第1部 2015.2.2~2.12 シ-ギリア・レディの壁画 スリランカはインド大陸の南東部に浮かぶ島国である。かってはセイロン島と呼ばれていた。 国土は北海道の8割位しかないが2000万人余が住み人口密度が高い。豊富な水源と肥沃な大地、 緑豊かな自然に恵まれているからだろう。 今回私たちは南部のコロンボから北上、中央部に入り平野部から高原、山岳地帯を経巡り 海岸線から再びコロンボに戻ってきたが、どの地域でも家が途切れることはなかった。奥深い 山岳地帯でも適当な間隔で民家が立ち並んでいたのである。人間だけではない、珍しい数多く の動物や野鳥もここを天国としているように思われた。 国土の大半は平野部が占めるが、中央部のやや南よりから奥地へ行くにしたがい風景は高原 から山岳地帯へと移り変わり、最高峰のビドゥルタ・ラ-ガラ山(2524m)へと続く。さらに 南側の山々はゆるやかな傾斜をなして平野部へ落ち込んでいる。この中央高地からはいくつかの 河川が放射状に流れだし、平野部から海岸線を潤しながらインド洋へ注ぎこんでいる。 スリランカの地図(イメ-ジ) (東) (西) この国の歴史は古く、紀元前5世紀北インドから移住してきたシンハラ人の先祖が王国を つくったとされる。紀元前3世紀には仏教が伝えられ、彼らの多くは上座部仏教を信仰し今日に 到っている。 上座部仏教は南伝仏教とも呼ばれ、アショ-カ王以後、南インドおよび、スリランカ、 ミャンマ-、タイ、カンボジア、ラオスなどに伝播した。釈迦が伝える本来の仏教だと言われる。 一方私たちが信仰する大乗仏教は北伝仏教とも呼ばれ、紀元1世紀頃ガンダ-ラ地方で興り、 中央アジア、中国大陸、朝鮮半島から6世紀半ば日本に入ってきている。7世紀頃にはインドから チベットに伝わり、のちモンゴル、ネパ-ル、ブ-タンにも伝播した。釈迦の教えを広く解釈した 寛容な仏教である。 仏教の発祥地であるインドでは、北部のチベット系の民族を除き仏教は遙かな昔廃れているが、 スリランカの人たちは2300年もの間それを護り継ぎ、生活の中に融けこませている。ア-リア系 の民族としては唯一仏教を信仰している民族といっていいだろう。 ただ紀元前2世紀、南インドから移住してきたタミル人の多くはヒンズ-教を信仰している。 その他にキリスト教徒、イスラム教徒もいるらしい。 スリランカは16世紀初期からポルトガル、オランダ、イギリスに支配され続け、1815年には 王国が崩壊、その後もイギリスの統治下にあったが1948年に独立を果たしている。 しかしシンハラ人とタミル人との対立が激しく1983年に内戦が勃発、4半世紀に及ぶ戦いが 続いていたが2009年5月にようやく終結した。今では治安も安定し、街行く人たちの表情も明るく 見えた。 民族構成はシンハラ人約75%、タミル人15%、ム-ア人9%、その他にバ-ガ-人、 ユ-ラシアン人、先住民のヴェッダ人など。 2月2日、予定の1時間遅れの14時過ぎ成田を出発、スリランカに向かい現地時間の20時30分 コロンボ空港に到着。飛行時間は約10時間、日本との時差は3時間半遅れ。空港から迎えのバス に乗ってネゴンボまで走り、22時頃ホテルにチェックインする。 2月3日 朝目覚めると波のざわめきが聞こえる。昨晩は分からなかったが、どうやらホテルは 海岸沿いにあるらしい。窓をのぞくとホテルの庭には熱帯雨林が生い茂り、その向うに海が見える。 海岸に出てみると、ヤシに縁どられた赤い砂浜がやや湾曲しながら広がり、樹林の中に赤や白い 家々が覗いている。波打ち際には小さな船が置かれ人影も見える。風が強いのか、青い海原には 帆をいっぱいに膨らませた帆船が走っていた。漁をしているのかもしれない。 帆をいっぱいに膨らませて走る帆船 ホテル裏の海岸の風景 足元には可憐な花をつけたハマヒルガオが群落をつくっていた。日本のものより赤の色が濃く、 葉も厚い。花を閉じているものもあったが日が当ると開いてくるだろう。ハマヒルガオはアサガオ と同じ仲間で、熱帯~亜熱帯が分布の中心となる。日本でも海岸でよく見られる。 ハマヒルガオの花 ハマヒルガオにカメラを向けているとき物売りの男に声をかけられ、貝殻を買わされるはめに なった。価格は交渉の結果400ルピ-(400円)、大きさは卵大でSrirankaと印刷して ある。なかなか美しい。その気になったのは、子供の頃これによく似たごく小さい貝殻を郷里の 海岸で拾い集めた思い出があったからである。男は25歳、イスラム教徒で2人の子供がいると 聞いた。 海岸で若い男から買った貝殻 9時ホテル出発。いよいよ今日からスリランカの観光が始まる。メンバ-はツア-客18人と ガイドのカピラさん、ドライバ-のサンタさん、アシスタント、それに主催旅行社の添乗員 Dさんの22名。 この日はスリランカの南部にあるネゴンボから西海岸沿いに南下、コロンボに近いキャラニアに 行き市内を観光したあと、夕刻からペラヘラ祭を観覧する予定。 ガイドのカピラさんはスリランカの地理、歴史、経済、現在の状況などについて話してくれて いたようだが、ほとんど耳に入らない、私はひたすら窓の外に眼を充てていた。 街路はココナツ、マンゴ-、プルメリア、バナナ、ブ-ゲンビレアなどに縁どられている。 いかにも南国らしい風景だ。車の往来はバス、乗用車、バイクなど意外に多い。しかし一番よく 眼につくのは3輪タクシ-。スリランカのタクシ-はすべてこのオ-ト3輪車だそうだ。近代化され つつあるようだが、どこかのどかな雰囲気を感じる。 やがて町外れに出るが家々は適当な間隔を置いて続く。屋根や壁はレンガ色のものが多い。 時々平原が広がり湿原も見られるようになる。沼に赤い花を咲かせているのはホテイアオイか。 10時前高速道路に入る。眼下にはココナツの群落が広がり、緑の森の中から赤や青、白い屋根が 覗いている。快適なドライブだ。ほどなくキャラニアに着き、ラジャ・マハ-・ヴィハ-ラに案内 される。 ラジャ・マハ-・ヴィハ-ラは、釈迦が訪れたとされる聖なる仏教寺院。その伝説に基づき 紀元前3世紀にはこの寺院の歴史が始まり、その後破壊と修復が繰り返されてきたが13世紀に 現在の建物の基礎が造られたという。 寺院前では数多くのオ-トバイや3輪車が置かれ、衣服、装身具、靴、帽子、工芸品、香辛料、 花屋などの屋台が軒を連ねていた。人通りも多い。よそ見をしているとぶつかりそうになる。 寺院前に立ち並ぶ花屋 私たちは靴を脱いで階段を上って行く。靴下は履いていない、鋭い小石が足の裏に突き刺さり チクチク痛む。子供の頃は裸足で野山を走り回っていたというのに…。 スリランカだけではなくインドの仏教聖地、および東南アジアの上座部仏教寺院に参拝する人たち は、すべて裸足にならなければならない。土足で境内に入ることは禁じられている。 階段を上ってビックリ、境内は大勢の人たちで大混雑、なかなか前に進めない。みな寺院内に 入ろうと順番を待っているようだ。道脇や木陰では、これまた大勢の人たちが座り込んでいた。 彼らは寺院が開く5時半頃から集まって1日中座り込み、夕方6時まで行われる僧侶の説法を聞い ているという。 この日2月3日は満月、ボヤ・デ-(満月祭)と呼ばれ、スリランカの人たちは労働と酒を断って 寺院へ参拝する聖なる日である。今では国が定める休日ともなっている。街の店では酒類は もちろん、肉や魚も販売が禁止されるらしい。祭の日にはご馳走をつくり、酒を飲んで大騒ぎする 日本人とは大変な違いである。森の木陰近くには観音像が立ち、祈りを捧げる人たちも見られた。 それにしても、信仰心篤いスリランカの人たちには圧倒される思いだった。 大勢の人たちで賑わう境内 森の木陰に立つ観音像 ガイドのカピラさんに案内されて本堂階段下まで行くが、そこにも順番を待つたくさんの人たち で混み合っていたためそこに留まり、私はしばらくの間辺りの建物を眺めたりしていた。 本堂の建物は石で造られ、門柱には精巧なライオン像、入り口の壁には官能的な仏像が施され てあった。見事な彫刻である。しかし多少ヒンズ-教の影響を受けているようにも思える。 寺院門柱の官能的な仏像 寺院本堂の建物 本堂前で順番を待つ人たち ようやく中に入ることができた。薄暗がりのなかで最初に眼についたのが大きな涅槃像。白い レ-スのようなカ-テンの奥に金色に輝いていた。涅槃とは釈尊がすべての煩悩をなくし、高い 悟りの境地に達して入滅せんとする姿を顕すとされるが、涅槃像には眼を閉じているものと、 眼を開いているものがあり、眼を閉じた涅槃像はすでに入滅した姿で、眼が開いている涅槃像は 最後の説法をしている姿を顕すそうだ。ここの涅槃像は眼を開いていたが、すべての教えを説き 終えてまさに入滅せんとする姿なのだろう…はてさて…。 本堂の涅槃像 正面には金色に光り輝く釈迦の座像が安置され、周囲の壁には釈尊の誕生から入滅するまで の壁画が描かれていた。またスリランカでは釈迦が3度訪れたと信じられているが、その来島の 壁画もあった。 金色に輝く釈尊の座像 釈迦生涯を顕す仏陀物語の壁画 外に出てみると大きな菩提樹の下に瞑想する釈迦座像があった。その奥のあずま屋には釈迦が 断食して苦行する像が見られ、骨ばかりにやせ細り、血管さえも浮き出た姿が表現されていた。 断食する釈迦が描かれた像はパキスタンのラホ-ル博物館にもあり、こちらの方がよく知られて いる。世界的にも有名なガンダ-ラ芸術初期の代表作である。 断食して苦行するラジャ・マハ-・ヴィハ-ラの釈迦像 ラジャ・マハ-・ヴィハ-ラからは、コロンボに行きホテルにチェックイン。その後街の レストランで昼食したあと市内観光に出かけ、国会議事堂、独立記念碑、シナモン・ガ-デンを 訪ねた。国会議事堂は遠くから眺めただけ、祭の日とあって警備が厳しく近寄れなかった。 赤い屋根をもつ独立記念建物のそばには国旗がはためき、当時の大統領の像が建てられて あった。 セイロン島がイギリスから独立したのは1948年2月4日、国名をスリランカ共和国と改称した のは1972年である。 シナモン・ガ-デンはかってシナモンの栽培が行われていたそうだが、今は恋人たちの憩いの 場所になっているらしい。 シナモン・ガ-デン入り口 独立記念碑 さらに下町の繁華街ペタ-地区を散策したが、祭の日とあってどの店もシャッタ-を閉じて 閑散としていた。みな黙々と歩いていたが、突然ツア-メンバ-のIさんが怒り出した。 ガイドのカピラさんに 「こんなところを歩いていても面白くも何ともない!どこか店が開いているところに案内しろ!」… 大きな声で怒鳴ったのだ。 「先程申し上げましたように、満月の今日はどの店も閉まっていますので…」 「閉まっているのなら開いているところに連れて行け!」…いやはや凄い剣幕である。 驚いたカピラさん、どこかに姿を消していたがすぐ戻って来て、近くのバザ-ルに案内してくれた。 彼はバザ-ルが行われているかどうか、誰かに聞きに行っていたのだろう。 バザ-ルは賑やかにやっていた。大きな屋根の下には野菜や果物、衣類、日用品などがところ 狭しと並べられ、活気に満ち溢れていた。路地にも数多くの屋台が軒を連ね、かなりの人通りが あった。 ペタ-地区のバザ-ル バザ-ルからは、ホテル近くにあるゴ-ル・フエイス・グリ-ンと呼ばれる海岸に立ち寄った。 夕方だったが砂浜には売店も出て大勢の人たちで賑わい、散策したり凧揚げを楽しむ人たちも 見られた。どこか懐かしい風景だ。ここはインド洋、スリランカ南部の西海岸である。 ゴ-ル・フエイス・グリ-ンの風景 その後ホテルに戻り休憩。 夕刻街のレストランで夕食をとったあと、ペラヘラ祭の会場に出かけた。 パレ-ドは道路上で行われる。私たちはその道路脇に設置されてあった椅子に座り観覧すること になった。 待つこと30分、8時過ぎ夜空に花火が打ち上げられて僧侶の読経が始まり、終わるや否や太鼓や タンバリンの音が鳴り響き、最初のパレ-ドがやってきた。全身白い民族衣装をまとい、笛を吹き ながら行進してくる。次に来た集団は白い上着に青いロンジ-、手には青い旗をかざしている。 その後ろから黄色い服に黄色い旗をもった集団もやってきた。 黄色い旗をかざして行進する集団 民族衣装を着てパレ-ドする若者たち さらに、太鼓を両手で激しく打ち鳴らしながら若者たちが近づいてくる。白い帽子に白いズボン、 胸から腰には赤い胴巻きをつけている。彼らのあとからは赤い旗をかざした集団がついてくる。 スゴイ、スゴイ、実にカラフルだ、華やかだ。リズムカルだ…と思う間もなく次にやってきたのが オレンジ色の旗のパレ-ド。 太鼓を叩きながらパレ-ドする若者たち 赤や黄色い旗をかざして行進する集団 集団は次々に現れてくる、途切れることはない。今度の集団は太鼓を叩きながら行進してくる。 シャラジャラというタンバリンの音も鳴り響く。烈しく動いているが見事に統一されている。 スピ-ド感にあふれている。夢中になってシャッタ-を切るが、画面がかすれてしまう。正面の ライトが邪魔だ、しかしやむをえない。 太鼓を叩きながら烈しく踊る若者たち 太鼓を叩きながら烈しく踊る若者たち 次に釈迦像を乗せた一団がやってきた。と同時に太鼓やタンバリン、笛の音がさらに高く響き 渡り、旗は大きく振られ、踊りも烈しくなってきた。その後仏像を乗せた車はは何台も通り過ぎて 行った。私はそれを見て、祭が最高潮に達しているかと思った。 釈迦像を乗せてパレ-ドする車 ところがさらに象の隊列が見えてきたのである。象は全身赤い衣をまとい、その上に白い衣装を つけた象使いが乗り、ゆっくりとこちらに近づいてくる。雰囲気はますます盛り上がる。 赤い衣をまとい歩いてくる象 赤い象の後ろにまた別の象がやってきた。衣は青く、様々な色の刺繍が施してある。象使いの 衣装は赤い。手には細長い杖をもっている。この杖で象の耳の下を突き、自在に操作するのだ。 そばに2人のアシスタントもついていた。この象、私たちの前に来たところで立ち止まり、 ゆらゆらと左右に鼻を動かし始めた。まるで踊っているかのように見える。いや、実際に踊って いたのだ。音楽のリズムにピッタリと合っていたのである。 青色の衣装をまとって歩く象 パレ-ドは次から次に繰り出されてくる。息もつかせないほどだ。笛や小鼓を打ち鳴らしながら 踊る者や、仏具を手に持ち、宮廷や寺院の儀式の時に使われるような大きな笠を振り回しねり歩く 一団、棒の上に皿をクルクル回しながら通り過ぎてゆく少年たち、また黒装束に仮面を被り、 素早い踊りを見せる集団もあった。 小鼓を叩きながら行進する一団 皿を回しながら行進するく少年たち 大きな笠をもって歩く一団 仮面を被って踊る一団 象の隊列は続いている。右前方から次々に現れてきては眼の前を通り過ぎて行く。衣の色は赤、 紫、青、黄、銀色と様々、カラフルである。 この国では、象は神の使者として大切にされているのだろう。年に一度キャンディで行われる ペラヘラ祭では、仏歯が納められた舎利容器が象の背に乗せられて運ばれるという。 カラフルな衣を着て行進する象 しばらく間があいた。これで終わりか…と瞬間思った。ところがそうではなかった。白い頭巾を 被り、白装束に鎧をつけて踊りまわる男たち、怪鳥をイメ-ジした仮面の一団、そして女性の 舞踊団もやってきたのだ。その踊りは、いずれもリズム感と躍動感にあふれていた。 白装束に鎧をつけて踊る男たち 怪鳥の仮面をつけて踊る一団 女性の舞踊団 会場はさらに熱気を帯びてきた。太鼓や笛は夜空に鳴り響き、踊りはますます烈しさを増して いた。観客はくいいるように見つめている。満月は上っていたにちがいないが、それどころでは なかった。私は夢中でシャッタ-を押し続けていた。パレ-ドは次から次に繰り出してくるので ある。またまたやってきた。今度来た集団は踊りながら輪をくるくる回している。動きは烈しく、 円を描きながらこちらに近づいてくる。そのとき逆に戻ってくる一団があった。いやこれは、他の 舞踊団を迎える使者たちなのだ。ご苦労さんと、ねぎらっているのだろう。 輪をくるくる回しながら踊る一団 他の舞踊団を迎える一団 太鼓を烈しく叩く一団 再び旗の行進、象の隊列、仏像の行進が通り過ぎ、さらにオレンジ色の袈裟を着た少年僧が 現れ、これまた輪を回しながら青い衣装の一団がやってきた。いよいよフィナ-レに近いようで ある。 行進する少年僧 輪を回しながら行進する一団 と思っていたら、まだ集団は続いていた。今度は見上げるような高い竹馬に乗った若者たちが 現れ、そのあとに、火の輪をぐるぐると回転させながらやってくる一団が続いていた。 火の輪は2輪から、3輪になり、5輪になって私たちの眼の前を通り過ぎていった。回転を止めると、 松明のような炎がメラメラと輪の周りに燃えていた。ほどなくその日も消され、華やかなコロンボ のペラヘラ祭は終わった。 火の輪をグルグル回しながら進む男たち 竹馬に乗って歩く若者たち 輪の周りに燃える炎 ペラヘラ祭は宗教的な儀式にはちがいないが、この国の人たちの多くが心をひとつにした、 民族の祭典でもあるのだろう。この祭りには、彼らの民族としての誇りが感じられる。そして 互いの絆を深め、五穀豊穣を祈り、幸せを求める彼らの気持も込められているにちがいない。 だからあれだけエネルギ-に満ちあふれる演技ができるのだろう...と思った。 その夜ホテルに帰り、スリランカの人たちには悪いが持参のウイスキ-を飲んで床についた。 多少興奮していたのか、しばらくペラヘラ祭の映像が頭にチラついていたが、いつのまにか 心地よい眠りに入っていた。 2月4日 コロンボ~アヌラダブラ~ボロンナルワ ホテル前には海が広がり、風がやや強いのか幾重にも重なり合った白波が砂浜に打ちよせ、 眼の前の海岸沿いには線路が走っていた。スリランカ南部西海岸に広がるインド洋の風景で ある。 スリランカではいくつかの鉄道網が敷かれている。地図で見ると、スリランカ南端から コロンボを経て海岸線を北にブッタラマ先まで走る線路、コロンボから内陸に入り、 スリランカ北端まで長く伸びる線路、その線から途中で別れて北部と中部の東海岸に出る線路、 またその線のさらに手前から南下して、山岳地帯を貫く線路などがある。鉄道の旅もなかなか よさそうだ。 ホテル前に広がる海岸 この日はコロンボから海岸線を北上、途中内陸に入りアヌラ-ダブラを経てボロンナルワに 向かう。距離は307km。 7時30分ホテル出発。街は朝の出勤時、車の往来が多い。3輪タクシ-がよく目立つ。会社員 は出勤するのにバスや3輪タクシ-を利用するのかもしれない。8時前、街を出て高速道路に入り、 前日とは反対方向に走る。辺りにはココナツ、マンゴ-、バナナなどが繁茂する森が広がっている。 森の中から赤や白、青い屋根をもつ家々が覗く。緑と鮮やかな色彩が眼に沁みる。平原に出ると 河畔にヨシの群落が広がり、その中にシラサギが点々。ほどなく左手に大きな湖が現れ、対岸遠く 緑の帯が続いている。湖の色は薄褐色、曇り模様のためだろう。 8時15分高速道路から一般道に出る。道の標識はスリランカ語と英語で示されていた。街の看板も そうである。 スリランカ語と英語で書かれた標識 踏切を渡りニコンボの街を通り過ぎ郊外に出ると道は狭くなる。道端にはバナナやココナツを 並べた露店、パン屋、日用雑貨、鍛冶屋などが眼につく。辺りにはココナツ、マンゴ-、 プルメリア、黄色い花をつけたマメ科の樹木が生い茂る。平原に出ると、のんびりと草を食む 牛の姿もあった。 やがてココナツの森の中を走るようになる。左も右も周りはココナツの木々が聳え立ち、辺り を埋めていた。スリランカでココナツがいちばん多いところらしい。 ココナツはアラックと呼ばれる強い酒や、黒砂糖、ジュ-スなどの原料に利用される外、 カレ-料理にも入れられ、皮や葉は屋根を葺く材料に使われるそうだ。 9時30分、チロ-という街を通りかかる。下を見ると大きな川が流れ、川岸に数艘の小舟が 繋がれていた。その前の建物は魚市場らしい。ここは入り江になっており、海はすぐ近くにある。 漁港なのだ。川は南部山岳地帯から流れ出るデドゥル川と思われる。 チト-の魚市場 車窓より さらに走ること30分、また川に出会った。河畔には鬱蒼とヤシの木々が生い茂り、川の中では象 が水遊びしていた。その周りに多勢の男たちがいるところからみると、この象は飼われているもの だろう。 川で水遊びする象 車窓より 河畔に生い茂るヤシの群落 ヤシの群落をぬけると池が点々と見られるようになる。池の中に群落しているのは、 ホテイアオイの花だろう。熱帯アメリカ原産の多年草でピンク色の花は可愛いが、繁殖力が 旺盛で池や水田などに繁茂し嫌われものになっているところもある。日本でも池や湿地帯で よく見かける。 やがてプッタラマに着く。車はここから右折、海岸線を離れ内陸に進んで行く。ヤシの木々は 少なくなり、低い灌木がどこまでも続く平原が広がってくる。時々湿地帯、沼、その中に ホテイアオイの群落、サギの群れが車窓に流れていく。突然大きな湖沼が広がり、湖上を乱舞 する鳥の群が眼に入ってきた。壮観である。ドライバ-が速度を落としてくれた。瞬時にカメラを 向ける。 湖上を乱舞する鳥の大群 車窓より 湖沼に広がるホテイアオイの群落 車窓より ホテイアオイの花 11時35分、ウィルパット国立公園のそばを通過する。この公園はスリランかで最も広大、 ヒョウの生息数が多いことで世界的に有名なところらしい。クマも数多く棲むという。是非訪ねて みたいところだが今回のスケジュ-ルには入っていない。 その後しばらく行くと、のびやかな田園風景が広がってきた。緑の水田が眼に瑞々しい。 アヌラ-ダブラ近くの田園風景 車窓より 12時20分アヌラ-ダブラのレストランに着く。レストラン前にはのどかな湿地帯の風景が広がり、 数多くのコサギが見られた。 昼食後庭に降り、コサギにカメラを向けるが近寄っても逃げない、人間を敵だとは思っていない ようだ。日本のサギとは随分ちがう。スリランカの人たちは動物を脅したり痛めつけたりはしない のだろう。水道管の上には、見たこともない野鳥も止まっていた。 日本で見られるサギの多くはダイサギ、コサギはめったに見られなくなっている。夏になると 南方からマサギがやってくる。アマサギは、頭から首にかけてオレンジ色になっているので見分 けやすい。 昼食レストラン前の風景 レストラン前で見られたコサギ、野鳥 庭内も湿地になっており、小さな花々が群落をつくっていた。なかなか可愛い。私がカメラを 向けてていると、レストランの若い青年がやってきて小さな花の葉に触り、 「ディスフラワ-、スリ-ピング」…と教えてくれた。なるほど、葉はたちまち内側に閉じて しまったのである。まさにスリ-ピンググラスだ。葉は羽状に切れ込みがあり、花はピンク色で ネムノキによく似ている。ネムノキもそうだが、同じマメ科のクサネムも、暗くなると葉を閉じて 垂れ下がり、眠ったようになる。こちらは光や温度の変化で開閉運動するのだが、この スリ-ピンググラスは、ちょっとした物理的刺激で睡眠運動するのだろう。青年はこのマメ科の 植物を、スリランカ名で”ニデコンバ”と呼んでいた。 睡眠運動するマメ科の植物 もうひとつ湿地をいっぱいに埋めていた野草があった。3弁の花をつけてとても可愛い。 日本の田んぼの溝川などで見られるツユクサ科のイボクサの仲間だろう。イボクサというのは、 この葉の汁をつけるとイボがとれるといわれることからつけられた名前らしい。花の色は日本の イボクサによく似ていて薄紫色。青年はこの植物をスリランカ名で”キャ-ブル”、皮膚に塗る 薬草だと言っていた。 日本のイボクサによく似たツユクサ科の植物 庭内にはマンゴ-の木もあったが、まだ花も実もつけていなかった。マンゴ-にも様々な 種類があるらしい。ウルシ科の木でかぶれることもあるという。 マンゴ-の木 昼食後私たちはアヌラ-ダブラの遺跡を訪ねる。 アヌラ-ダブラの歴史は古い。紀元前5世紀には、北インドからシンハラ族の先祖がアヌラ- ダブラにやってきて王国をつくり、紀元前3世紀には、アショ-カ王の息子マヒンダによって 仏教が伝えられたという。 その後長年に亘り仏教文化を中心とするシンハラ王朝時代が続いていたが、度重なるタミル軍 との侵略や抗争、仏教界の勢力争いなどによって都は混乱状態となり、シンハラ王朝は10世紀、 ついに都アヌラ-ダブラを放棄したとされる。しかしアヌラ-ダブラは、1400年に亘り都として 栄えた歴史をもっている。仏教はここからスリランカ全土に広がっていったのである。 最初にイスルムニヤ精舎を見学する。本堂は遠くからみると小さな祠のようにも見える。紀元前 3世紀に建てられた僧院をもとに、新しく修復したものだという。階段下には南国特有の黄色い花が 植えられてあった。 イスルムニヤ精舎本堂 本堂に入ると、ハット息をのむような涅槃像が眼に飛び込んできた。色は眼の覚めるような真紅。 浅草の浅草寺によって色の塗り替えが行われたそうだ。涅槃像は顔の下から見ると眼を開けて いるように見え、上から眺めると眠っているような表情に見える。内部は岩を彫るようにようにして つくられ、涅槃像の左右には釈迦をはじめ弟子たちの像が祀られてあった。 本堂内に横たわる涅槃像 釈迦とその脇に並ぶ弟子たちの像 外に出たところでリスが眼についた。小ネズミぐらいの小さいリスだ。建物の上にいたかと 思うと岩場に移ったり、チョロチョロと動き回っている。人間をあまり恐れていないようだ。 岩場で止まったところをパチリ。このかたちのリス、何日かあと、スリランカのホテル庭でも 見かけたことがある。 イスルムニヤ精舎そばで見かけたリス その後私たちは寺院裏側の狭い石段から、大勢の人たちで混雑する岩上に上った。 そこにはブッダの足跡とされるものが見られ、それに祈りを捧げる人たちの姿があった。紀元前後 に仏像が出来るまでは、ブッダの足跡を信仰の対象にしたのだろう。 岩上からの展望はよく、緑豊かな森の中からはいくつかの赤い建物が覗き、古都らしいしっとりと した雰囲気を感じる。 ブッダの足跡とされる彫刻 イスルムニヤ精舎岩上からの展望 次にトゥ-パ-ラ-マ・ダ-ガバと呼ばれる釣鐘型をした白い仏塔を訪ねる。高さは11m。 この中には釈迦の鎖骨が祀られているという。この仏塔が建てられた時は紀元前3世紀に溯ると 言われるが、現在の建物は1840年に再建されたもの。周りの石柱は、屋根をつけるために建て られたものらしい。 トゥ-パ-ラ-マ・ダ-ガバ トゥ-パ-ラ-マ・ダ-ガバからルワンウェリ・サ-ヤと呼ばれる仏塔に向かう。入り口から 続く長い参道には、たくさんの人たちが大塔へと歩いていた。周りには菩提樹やプルメリアが茂り、 その樹木や建物の屋根、石塀には、顔が黒く尾の長い数多くのサルが見られた。歩く時は尾を高く 上げてクルリと巻いている。2003年10月に来たときもこのサルの群れに出会っているが、観光客に 食べ物をねだっているのかも…しかし与えている人は見かけたことがない。もしかしたら観光客の 食べ物を狙っているのかもしれない。このサルの名前はスリランカ・ハイイロオナガザル。 スリランカ・ハイイロオナガザル ルワンウェリ・サ-ヤ大塔はアヌラ-ダブラのシンボル。紀元前1世紀に完成した時の高さは 110mあっらしいが、現在の高さは55m、もちろん修復されたものである。巨大なド-ムのようにも 見える。内部は空洞になっており、壁画が描かれているという。中に入ることはできない。 ルワンウェリ・サ-ヤ大塔 アヌラ-ダブラの観光の最後に、スリ-・マハ-菩提樹を訪ねる。この菩提樹は紀元前3世紀 インドのブッタガヤから譲り受けたもので、当時の王が植樹したものといわれている。 今残されているものは鉄柵に囲まれた中で、竿に支えられながら横に伸び葉を茂らせている。 おそらく2千数百年を生き続けた本体の幹は老木となって朽ち果て、この枝木だけが大切に保存 されているのだろう。長い間維持するためには、余計なエネルギ-を使わないことが求められて くる。私が2003年10月にこの樹木を見てから11年余りが経つが、今の幹の大きさは当時と ほとんど変わっていないように思える。このままの状態であれば、この菩提樹はさらに長く生き 続けることができるだろう。 2003年10月当時の菩提樹 2015年2月現在の菩提樹 16時30分、アヌラ-ダブラの観光を終えてポロンナルワへ向かう。街から郊外に出ると田園 風景が見えてくる。そして広大な湿地帯が広がりはじめ、コサギがチラホラ。右前方にこんもり した岩山、シ-ギリア・ロックか…。左手に高い山岳が聳え山頂付近に霧がかかっている。 再び田園風景から湿地帯へ…現れては消えまた現れてくる。山岳地帯に入って来たようだ。 樹林の様相少し変わる。車窓に流れていくのはサラソウジュかも…。漢字では沙羅双樹と書く。 釈迦がなくなったところにあった木だそうだ。 大きな湖が現れてくる。ぼんやり眺めていると、象が水浴びしているではないか、あわてて カメラを向ける。この辺りには野生の象がたくさん棲んでいるらしい。 夕暮れの湖で水遊びする象 車窓より やがて日もとっぷり暮れた夕刻、ポロンナルワのホテルに着く。 2月5日 シ-ギリヤ・ロック~ポロンナルワ観光 8時ホテル出発。湖畔の道を走って行く。静かな湖面の向うは低い山々が連なり、手前の森の 中に赤い屋根や白い仏塔が見えている。湖の上にコサギが飛び交い、岸辺近くにはヨシが繁茂、 その間からスイレンが白い花を覗かせていた。道端にはガジュマルの大木、ジャックフル-ツ、 ボダイジュ、ココナツ、マンゴ-などの木々が立ち並ぶ。黄色いマメ科の花やランタナも眼につく。 左右に田園風景が広がるようになり、牛の群れがのんびりと草を食む。やがて車は森の中に入っ て行く。…とそのとき、突然樹木の間から切り立った岩山が見えてきた。見覚がある、シ-ギリヤ・ ロックだ!、まだ誰も気づかない。その岩山はすぐ樹林に隠れてしまったが、再び現れてきた。 私はガイドのカピラさんに確かめた。 「右手に見えている岩山は、シ-ギリヤ・ロックですね」 「そうです、シ-ギリア・ロックです」 森からぬけだし、シ-ギリヤ・ロックの姿が次第に大きく見えてくる。展望のよいところで 写真ストップ。 右前方に聳え立つシ-ギリア・ロック シギリア・ロックの歴史は今から1500年前に溯る。5世紀の後半、アヌラ-ダブラを統治して いた父を殺し王座についた長男カッサバはシ-ギリアに遷都し、7年後の484年、この岩山の 頂上に王宮を築いた。周囲は切り立った断崖絶壁、空に向かって垂直にそそり立つ巨岩である。 高さは約200m、辺りは深い森に囲まれている。この難攻不落に見えた要塞も、495年、インドに 亡命していた弟の軍勢によって攻め込こまれ、陥落させられた。当時王だった長男は自決、 この王国はわずか11年で滅びたと伝えられている。現在山頂にはその王宮跡だけが見られ、 建物はいっさい残されていない。1500年前一時は栄華を誇ったであろう、カッサバ王の夢の跡で ある。 9時45分、シ-ギリアの入り口に着き、バスから降りて広い敷地内を歩いて行く。道は岩山に 向かって真っすぐに通っている。左手の沼にはハスが広がり、右手には水路が流れ、正面に葉を 大きく茂らせた高い木々が聳え立つ。その先には囲いの中にシギリア時代を解説した古文の 立看板と、それを解読した人の像が建てられてあった。 シ-ギリア・ロックに続く道 シ-ギリア時代を解説した古文 次第に岩山が近づき、木々の葉蔭から垂直に切り立った岸壁が見えてくる。さらに行くと シ-ギリヤ・ロックの全容が現れてきた。まさに巨大な岩の塊である。山頂から下は鋭い壁と なって切れ落ちている。 シ-ギリヤ・ロック 木陰からシ-ギリヤ・ロックの岸壁を望む 通りにはコクタン、チ-クなどの珍しい樹木が茂っていた。いずれも家具や建築の高級材として 使われる。コクタン[黒壇)の心材は漆黒で、家具、仏壇の他にピアノの黒鍵、バイオリンの指板 にも使用されるという。インドやスリランカ、アフリカに分布する銘木である。 コクタン(黒壇) 岩山への道に入り石段を上って行くと、ほどなく洞窟が見えてきた。石窟寺院らしい。さらに 行くとまた洞窟があり、岩壁には壁画が描かれていた。フレスコ画だという。形は王宮の廷臣の ようにも見えるがよく分からない。道は2つの岩が重なり合ったトンネルへと続く。 岩山への石段 フレスコ画 2つの岩が重なり合ったトンネル トンネルをぬけて上を見上げた瞬間、私はアット驚いた。そしてウンザリ。道は渋滞、長蛇の 列が岩山の中腹まで続いていたのである。道が急に狭くなったせいもあるだろう。行く手には 大勢の人たちが立ち並んでいるが、ほとんど動いているようには見えない。しかし10分ほどで、 岩が突き出たテラスのようなところに辿りついた。 しばらく休憩、といっても並んだまま順番を待っていたのである。前に進めないのだ。その 先は断崖に鉄柵で囲まれた橋が架けられていたが、やっと一人が通れるぐらいの幅しかない。 動きは遅く、止まったままのように見える。待つしかない、私はあきらめて辺りの風景を眺める ことにした。 前方の岸壁は垂直に切れ落ち、オ-バ-ハングになっているところもある。この壁を山頂まで よじ登るには、熟練したクライマ-でも手こずるにちがいない。高度の登攀技術が求められる だろう。 眼下には深い森がどこまでも広がり、右手遠くに白い仏塔が見える。スリランカは小さい島国 だが、それを感じさせないほどに広大なジャングルが大地を埋めていた。 断崖に架けられた梯子 岩のテラスから眺めたシ-ギリヤの風景 ようやく私たちの順番がまわってきた。橋を渡り岸壁のくぼみに入った瞬間、カラフルな画像が 眼に飛び込んできた。あのシ-ギリヤ・レディたちの壁画である。この壁画は1500年前に描かれた フレスコ画だというがよく保存され、色彩も鮮やかで美しい。ただ少し痛みは見られる。 かってはこの岩山の壁に500の壁画があったらしい。しかし今はここに残る18だけになったそうだ。 長い歳月の間に、そのほとんどは風雨に浸食されてしまったのだろう。それにしてもこの美女たち は妖艶で官能的である。時空をこえて当時の華やかな時代を想像したくなるほどだ。 この壁画はイギリス統治下にあった1875年、この岩山を望遠鏡で眺めていたイギリス人によって 発見された。 シ-ギリヤ・レディの壁画 シ-ギリヤ・レディの壁画 シ-ギリヤ・レディの壁画 谷側は金網で囲まれ、道は狭い回廊となってライオンの入り口へと続いていた。真下の絶壁は 赤く塗られてあったが、これはミラ-・ウオ-ルと呼ばれるものかもしれない。かって反対側の 岩壁には美女たちのフレスコ画があり、このミラ-・ウオ-ルに映るしかけになっていたらしい。 絶壁に赤いミラ-ウオ-ル ライオンの入り口へ続く回廊 11時15分ライオンの入り口に着く。ここには巨大なライオンの爪の形をした像があった。 山頂の王宮へ続く入り口となっているところだ。かっては大きく口を開けたライオン像が座って いたらしいが、今は前足の一部しか残っていない。 山頂の王宮へ続くライオンの入り口 上を見上げると、岩壁につくられた階段に大勢の人が連なっていた。勾配はかなり急である。 多少疲れてはいたが階段にとりつき、15分後山頂に着く。そこには王宮の跡があった。少し下った ところには、低い石壁に囲まれたいくつかの遺跡らしきものも見られたが、建物はまったく残って いない。華やかな姿であったと思われる古の都は基壇だけになっていた。自分の生涯と子孫の 栄耀にかけた王の夢の跡である。その夢は儚くも11年で破れ、1500年の歳月が流れた。 しかし、あの美しいシ-ギリヤ・レディとライオン像、そしてこの台地に散らばる基壇だけが、 その短い栄華をかすかに.偲ばせてせくれる。当時と変わらないものがあるとすれば、眼下に広がる 緑豊かな森と、その向うに連なる山々の風景だろう…そんなことを想いながら私は辺りを眺めて いた。 山頂へ続く階段の道 王宮跡の一部と山頂からの景色 その後私たちは山頂からライオンの入り口、さらに石段を下り駐車場に戻った。途中当時の 王宮が会議室に使ったとされる岩棚や、古代の僧侶が瞑想したといわれる礼拝堂、コブラの形に 似た岩が見られた。駐車場に下りたところでは大きなリスに出会った。スリランカ・オオリスと 思われる。そのしぐさが何とも可愛い。 コブラ岩 スリランカ・オオリス そこからバスに乗り、しばらく走ったところでレストランに入り昼食をとる。レストラン前では 牛車に乗って行き交う人たちが見られた。スリランカの田舎町らしいのどかな風景だ。 牛車に乗った観光客 昼食後ポロンナルワの遺跡に向かう。しばらく走り、田んぼの中に小屋が見えたところで カピラさんが 「あれは象を見張る番小屋です」…と教えてくれた。最近田んぼに象が現れ、稲を食い荒らされて 農家の人たちが困っているという。象はスリランカでは神聖な動物、殺すわけにはいかないため、 こうした番小屋で一晩中監視しているのだそうだ。周りには電流線も張られているが、それでも 象が現れた時には大声を出したり、花火で脅して追い払うらしい。 象を見張る番小屋 車窓より 車窓からは低い灌木が茂る草原や湿地帯の風景が流れていく。ときどき田園風景にも出会う。 この辺りはスリランカの穀倉地帯なのだろう。 ぼんやり車窓を眺めていたとき、湿地の中に見たこともない鳥が眼についた。全体に黒いが 首だけは白い。サギかコウノトリの仲間か?…。 湿地にいた大型の鳥 やがて今朝通った湖畔に戻り、遺跡の近くでトイレ休憩を兼ねて木工芸品店に案内される。 店内にはシタン、コクタン、チ-ク、ビャクダンなどの高級材が使われた仏壇、仏像、民芸品、 仮面などが並べられ、それらを造る職人の姿も見られた。 商品をつくる木工職人 店内に並べられた木工芸品の数々 再びバスに乗りボロンナルワの遺跡に着く。10世紀末アヌラ-ダブラを放棄したシンハラ 王朝はボロンナルワに遷都し、200年余に亘り仏教都市として繁栄させた。ここにはその栄華を 伝えるアジア有数の遺跡群が残されている。そのほとんどは12世紀に建てられたものが多い。 最初に訪ねたのが宮殿跡。12世紀に建てられたときは7階建てだったらしいが、現在は3階の 壁までしか残っていない。周りには数多くの石柱が立ち、内部には集会場、会議室、沐浴場など の跡が見られた。 宮殿入り口 宮殿跡 沐浴場 次にクワドラングルと呼ばれる寺院に案内される。ここはシンハラ王朝時代の仏教の中心地で、 城壁で囲まれた数多くの建築物が集まっていた。中に入り、歴代の王専用の礼拝堂、蓮の茎を かたどった石柱群、釈迦の仏歯が納められていた寺院、サンスクリット文字で書かれた碑文など を見てまわった。 蓮の茎をかたどった石柱 サンスクリット文字で書かれた碑文 碑文が置かれたところから少し行った広場に、3体の石像があった。いずれも大きな石壁に 直接彫り込んで造られたものである。真中の涅槃像と右側の座像は釈迦と思われるが、左側の 立像は釈迦の一番弟子のア-ナンダという説がある。彼の師が涅槃に入ってしまったので、 悲しみに暮れている姿を表したものとされる。広場にはたくさんの人が集まり、仏像に跪いて 礼拝する姿が見られた。 石に彫り込められた涅槃像 ア-ナンダとされる立像 釈迦の座像 最後にランカティラカと呼ばれる13世紀に建てられた寺院を訪ねる。両側に高い建物がそそり 立ち、間に長い道が巨大な仏像へと続いていた。この仏像は頭がなく、腰から足の部分だけに なっていた。何者かによって壊されたのだろう。この仏像の後ろにも暗い道があり、当時は僧侶が この通路を瞑想しながら通るのを日課にしたという。辺りもうす暗く神秘的な雰囲気が漂う。少し 不気味でもある。 ランカティラカ寺院 この日の観光を終えて夕刻ホテルに帰る。 2月6日 ボロンナルワ~ダンブッラ~キャンディ この日はボロンナルワから西へ向かい途中左に折れて南下、ダンブッラの石窟寺院を見学した あと、さらに南下してキャンディを目指す。距離は約150km。 8時ホテル出発。車は湖畔の道を走って行く。湖面にピンク色の水草、白いスイレンの群落。 そこを通り過ぎると田園風景が広がってくる。昨日通った同じ道である。やがてハバナの街に入り、 そこから左に曲がって南下しはじめると、辺りには鬱蒼とした樹木が生い茂るようになる。 とその時、突然道を横切ろうとする象が眼に入った。象だ!誰かが叫んだ。先頭の象は辺りの 様子を窺っているようにように見えたが動き始めた。あわててカメラを向けるが、象は前方から やってきた車の蔭になった。後ろをふり返った時は,象の姿はすでにジャングルの中に消えていた。 5~6頭いたように思う、残念。 その後30分位走ったところで、シルク製品を扱った店に案内される。私は一旦店に入ったがすぐ 外に出て近くをブラブラしていたら、道端に咲いているランタナの花が眼についた。この植物は 南アメリカ原産で亜熱帯、熱帯には広く分布する。葉はざらつき茎には細かい刺があり、そこら中 に繁茂するためやっかいものになっているようだが、花はなかなか美しい。花の色は薄黄色から 次第にオレンジ色、さらに紅色へと変化することからシチヘンゲ(七変化)とも呼ばれる。日本 にも園芸品種がある。 ランタナの花 10時ダンブッラ到着。バスから下りて石窟寺院へ向かう。ジャングルの山道をぬけて明るい 石畳の道に出ると、右前方に巨大な岩山が眼に入ってきた。岩山は丸くやさしい稜線を描いている。 鋭い角は見られない。一枚岩である。岩というより途方もない大きな石の塊りだ。この中に自然 の洞窟を利用して造られた石窟寺院があるという。さらに進むと視界大きくひらけ、前方に赤い 建物が見えてきた。 ダンブッラの岩山 石窟寺院への石畳の道 石窟寺院の入り口 赤い建物の先には白い建物が建てられ、石窟寺院の入り口となっていた。この辺り岩山の裾の ように見えたが、実際には山頂に近いところらしい。下をのぞくと広大な森の中に池が見られ赤い 屋根が点々、遙か向うに田園風景が広がっていた。 石窟寺院の入り口 石窟寺院の眼下に広がる風景 ダンブッラ石窟寺院の歴史は紀元前1世から20世紀初頭にまで及び、その間に数多くの仏像や 壁画がつくられ何度も修復が繰り返されてきたという。石窟は1窟から5窟まであり、古い順に 並んでいる。 第1窟には涅槃像が横たわっていた。長さは14m、岩をくりぬいて彫られたものである。 つくられた当時は黄金色に輝いていたと思われるが、色はかなり落ちていた。しかしこの方が むしろ趣を感じる。涅槃像の頭の方にヴィシュヌ神が祀られていたが、スリランカではこの 時代からヒンズ-教の影響を受けていたものと思われる。 第1窟の涅槃像 第2窟にはたくさんの立像や座像が祀られ、天井には仏陀の生涯のほかスリランカの歴史を 描いた壁画も見られた。ダンブッラ最大の洞窟寺院である。50数体の仏像はみな黄金色に輝い ていた。 この屈には天井から湧水が滴り落ちているところがあるということだが、黒く汚れている部分が そうなのかもしれない。おそらく山頂に降った雨水が、岩の割れ目を伝わって沁み出しているの だろう。しかしこの湧水は聖水と呼ばれ、重要な儀式の際にのみ僧侶が飲むそうだ。 第2窟の仏像 黒く汚れているところは湧水が沁み出しているのか? 第2窟の仏像 第3窟は18世紀の後半、キャンディ時代に造られたといわれている。全長9mの涅槃像のほかに 50数体の仏像が祀られ、きらびやかに描かれた天井画も見られた。側面にもたくさんの立像が 見られたが、どういうわけか掌が、赤くぬられてあった。 第3窟の立像 第4窟と5窟はキャンディ王朝末期から20世紀初めに造られ、3つの石窟寺院と比較した場合、 規模も小さく比較的新しい仏像が多い。 第1窟から3窟にかけては、いずれも神秘的で重厚な雰囲気を感じた。非常に古い仏教寺院で ありながら、その保存状態は実によかった。石で造られているとはいえ長い年月に亘り、何度も 修復が重ねられてきたからだろう。 ダンブッラからは、50km近く南下したところにあるマ-タレ-のレストランで昼食のあと、 その前にあるスパイス・ガ-デンに案内される。園内には様々な香辛料の植物が茂り、興味 深かった。見られた植物はバニラ、カカオ、コショウ、コ-ヒ-、カルダモン、シナモンなど。 バニラはツル性のラン科の植物で木にからみつき、カカオはアオイ科の常緑樹で楕円形の 果実をつけ、コショウは木にからみつきながら粒状の実を垂れ下げていた。日本の海岸近くの 山林などで見られる、同じコショウ科のフウトウカズラによく似ている。 カカオの果実 粒状の実を垂れ下げたコショウ 花や実を根元から出す不思議な植物があった。ショウガ科に属するカルダモンだ。高貴な香りが あり、カレ-料理や紅茶などに入れるととても美味しいらしい。スパイスの女王とも呼ばれている。 原産地はインド、スリランカ、マレ-半島。 花や実を根元から出すカルダモン 白い花を咲かせたコ-ヒ-の木も見られた。花は葉の根元から出ているようだ。アカネ科の 常緑樹でその多くは栽培種だという。野生種もアフリカ大陸やマダカスカルなどに多数分布して いるらしい。 シナモンも穂状の白い小さな花をつけていた。ニッキとも呼ばれる。クスノキ科で日本の クスノキやヤブニッケイと同じ仲間。料理やお菓子、紅茶などに使われるほか、シナモンから 採れるオイルは、歯痛や頭痛などの鎮痛効果があるらしい。材料にするのは樹皮だが、葉にも クスノキ科特有の香りがあった。カルダモンがスパイスの女王ならば、こちらはスパイスの王様と 呼ばれている。主産地はスリランカ。 白い花をつけたコ-ヒ-の木 穂状に花をつけたシナモン さらに穂状に白い花をつけた植物が眼についた。説明員は「キツネノシッポ」と呼んでいたが、 樹木に着生するランの1種かと思われる。なかなか美しい。 着生ランの1種 スパイス・ガ-デンから別室に案内され、スパイス植物を原料とする薬用商品や化粧品について 説明を受けた。商品は内用薬、外用薬、塗り薬、オイル、料理用、歯磨き粉など数多く並べられて いた。説明員は早口の日本語で、 「この商品は万能薬です」とか「わたしウソをつきません」などと面白おかしく説明してくれたが、 買う人はほとんどいなかったようだ。 スパイス・ガ-デンの見学を終え、5km先にあるアルヴィハ-ラ石窟寺院を訪ねる。紀元前 1世紀に造られたスリランカで4番目に古い寺院である。観光客も見られず、境内は静かな雰囲気が 漂っていた。 アルヴィハ-ラ石窟寺院 寺院内には涅槃像のほかに瞑想する仏像、立像などが祀られていたが、いずれも明るい色調で 施されてあった。面白かったのはフレスコ画で描かれた地獄絵図。針の木を登らされたり、地獄の 鬼から酒攻めにあう罪人も見られた。酒を飲まされるのも地獄の苦行なのか…酒好きの俗人から 見れば幸せ者にも思えるのだが…しかし無理やり飲まされるのは苦しいだろう。恐ろしげでもあり、 ユ-モラスにも見える地獄絵だった。 地獄で酒攻めにあう罪人 地獄で拷問の刑をうける罪人 アルヴィハ-ラからさらに南下を続け夕刻キャンディに入り、小高い丘から街を俯瞰する。 高台からは緑濃い森に囲まれた家々や、キャンディ湖が一望でき、その風景はどこか古都らしい 風情を感じる。 シンハラ王朝は、15世紀後半からキャンディに都を置き250年に亘り国を治めてきたが、 1815年イギリス軍に滅ぼされた。キャンディは、2000年以上続いたシンハラ王朝終焉の地という ことになる。この地はスリランカのほぼ中央にあり、標高は約500m。 丘から眺めたキャンディの街 その後市内の劇場で、キャンディの伝統文化であるキャンディアン・ダンスを観賞した。 ドラマ-たちの烈しい競演で幕開し、男性ダンサ-たちの仮面の舞、連続したトンボ返り、 皿回し、女性ダンサ-の孔雀の舞、豊作を祝う伝統的な踊りなど、迫力ある芸が披露された。 華やかで機敏な動きに時間の経つのを忘れたほどである。その多くはコロンボのペラヘラ祭 でも見られたものだが、圧巻だったのは、フィナ-レの火炎の芸。松明で腕をなでたり、炎を 口に含んで吹きあげたり、燃え盛る炎の上を、素足で歩いて渡ったりするのだ。これは ”まやかし”ではない、本当なのだ。長年の鍛錬によってつくりあげた、彼らだけにできる芸 なのだろう…と思った。 炎を口から吹き上げる男性 腕の上で炎を燃やす男性 素足で炎の上を渡ろうとする男性 彼らのすばらしい演技に多少余韻を残したまま、私たちはキャンディのホテルに向かった。 ― スリランカの旅 第1部 了 ― この続きはスリランカの旅 第2部へどうぞ、以下のURLをクリックすると開きます。 srilanka2.html へのリンク |